文房 夢類
文房 夢類
myExtraContent1
myExtraContent5

壺猫

文房 夢類
主張

夜の手紙

私が学んだ学校、それは中学と高校のことだが、それは私立女学校だった。この女学校の教育方針は徹底しており、それは「良妻賢母」を育てあげることだった。
この学校は、私の母と叔母が卒業した学校だった。地元の公立小学校から中学へ進学するにあたって、学校の選択権は私にはなかった。父は子供の教育、とりわけ女の子の教育は母に任せており、母は選ぶという道を持たず、自分の母校へ入れると決めていた。
入学した時は日本が戦争に負けて間もない1947年だったと思う。ガラスが手に入らず、校舎の廊下と教室の境にあるガラス戸には紙が貼られていた。校庭に面した側の窓ガラスは、あちこちにヒビが入っていて、色とりどりの小さな花形の色紙を貼っていたから賑やかだった。
校長先生は週に一回、一学年全員を集めて自ら講義をした。修身という言葉が使えなくなっていたので校長先生の時間、と呼んでいた。校長の説諭で記憶していることは幾つもある。その一つ、入浴の際、女子は湯船から静かに立ち上がり洗い場に出るように。男子がやるようにザバッと立ち上がってはいけない、見良いものではないから。生理の日は買い物に出るべきではない。万引きをするのは、この時期が多い。6年目に校長が話したことも覚えている。「私は死にません、もっと生きます」。80を超えていただろう校長の説諭は、自分自身のことに集約されたものとなっていた。
教室でのことも覚えている。ほとんど全員が女性の先生だった。国語の先生の、ふとした雑談、教室中がくつろぐ時間。
学校から帰って夕食後に手紙を書くことがあるでしょう、そのときは決して封をしてはいけません。朝、読み直してから封をしましょう。夜に書いた手紙は、朝になってみると書き直したくなる場合がありますから。
今、私は入ってきたメールに、即返信することが普通だ。打てば響くように返す、しかし。これは、と思う事柄に関して書く場合は、必ず一泊させる。
だから、「あの時は言いすぎたの」というセリフを使ったことがない。何か言われた途端に頭にきて、後で後悔するような手紙を送ってしまうという、浅はかなことをしたことがない。特に、紙の通信が極度に減り、キーボードによる高速通信が、私の年代でさえも主流となっている今日、無神経に放り出したような文章、後から言い訳する文章が氾濫している。大昔の先生の雑談が、今の私に生きている。
学校の授業というものは、しみじみ思うのだが、教科書を教えるのではない、教科書を使って教えるのだ、というこの貴重な言葉を反芻するのである。
ちなみにこの金言は、元国語教師で、その後、東京神保町の主と言われた柴田 信氏の言葉であります。
校長の説諭は中学1年から高校3年まで毎週接したおかげで耳にタコができた。これは非常に遅効性のある内容だった、今頃になって校長の言葉が腑に落ちる。老いてゆくにつれて周辺の現象に興味、関心を示す余裕が失せて、自身の肉体に関心が集まってゆくありさまが見えた。校長は、裸の人間の姿を手渡してくれたのだ。無駄な出会いはない、というか用いなければもったいない。どう用いるかは、受ける側の受信能力と容量にかかっている。

高齢者の務め 最終回

最終回は迷惑について。
まじめな善意の人で、心優しい高齢者、もちろん暴力を振るったり、盗みをしたりなど夢に見たこともない人だ。良いものをたくさん持っている、このような高齢者に限って、真剣な面持ちでいう、「迷惑をかけたくない」。
こんな風に言う、ただね、私はね、周りに迷惑をかけたくないんですよ。ええ。それだけです。
聞き入る相手は高齢者だ。高齢者同士の「うなづき話」であり若いもんに向かって話しているわけではない。
こうした良識ある高齢者が、実は若いもんに迷惑をかける場合を見てみたい。
高齢者が元気だと言っても、使い込んできた身体はガタが来ており、修繕しながらの元気ではある。
修繕をしつつ暮らしているが認知症ではないし、その気配もない。判断力は十分にあり手厳しい社会批判もする。しっかりしていることは、自分も周囲の人たちも皆が認めている。
このような高齢者が、最低最悪の迷惑をかけることがある。これが私が最終回に言いたいことです。

自動車運転免許を返した。だいぶ前から夜間に見えにくくなっていたし、視野狭窄は自覚していた。事故もせずに無事に車を降りることができて良かったと思っている。
ここで言いたいことは、車を降りても、日常生活で視野狭窄は続いている、ということだ。
たとえば電話を切るとき、以前は相手が切る音を確かめてから切っていた、それができなくなっている。自分の都合だけが眼前に広がり、その処理だけで手一杯なのだ。
気持ちのゆとりが消えていることに気づいていない。続けて、待てなくなっている。食事の時間、約束の時間。判断力は十分にあるので、気持ちが急くのを我慢する。この努力が並大抵ではない苦労だ。車じゃないのだから、ハイビームにして圧力をかけるわけにいかない。
誰ともしゃべらない日が増えた。年々、親しい友人が逝く。そんな時に、ゆったりと向き合ってくれて、こまごまと話す昔話を逐一聞き取ってくれる近所の人などがいたらもう、疲れきるまで独演会をやって幸せいっぱいになる。
こうして自分の周辺の昔語りをしてやがて、一生を終えることになるのだが、ぶちまけてはいけない家庭の事情までも喋ってしまう高齢者は少なくない。その後を生きてゆく次世代が被る迷惑は、一通りではないのである。
独演会の当人は寂しいし、聞いてもらえる嬉しさはあり、自分の先は長くないとも思うと、しゃべりたくなってしまうらしい。一方、聞く側は耳をダンボ耳にして聞き入り忘れない。忘れないだけでは済まない、必ず近隣の誰彼にしゃべるのである。これほどの迷惑があるだろうか。
こういう場合もある。高齢者に複数の家族がいる場合、高齢者と接する態度はいろいろになるのが自然だろう。ここで高齢者が、家族、あるいは近い親戚の誰彼の一人に向かい、ほかに誰もいないシーンでいう、一番よくしてくれるお前にこれを渡したい。
渡したいものがバナナかメロンならともかく、土地だったり預金だったりする。
土地や預金がない高齢者なら迷惑をかけないか、というとそうはならない。ほかに誰もいないシーンでいう、誰ちゃんは来るたびに、ン万円くれる。
あればあるなりに、なければ、ないなりに、操作しているつもりはないのだろうが、結果として複雑不快な騒動を巻き起こす。本人は下の世話をしてもらったわけじゃないから、迷惑をかけずにいるつもりなのだろうが、私は、このような高齢者が、最も罪深い迷惑者だと思うのだ。

『源氏物語』の音読

『源氏物語』の音読を始めてみて、改めて『平家物語』の時代との差を舌で感じた。平家の時は、まがりなりにも文字通りに読もうと心がけたが、源氏では始めから諦めた。岩波書店発行の日本古典文学大系本で、校注は山岸徳平先生。
話が逸れるが、反町茂雄さんの著書、『一古書肆の思い出』の中に、まだ若い学徒といった感じの山岸徳平先生が2箇所出てくる。
『源氏物語』を当時の発音を研究して、その通りに読み下して行く。この朗読を聞いたことがあるが、木綿と麻の手触りの違い、などという程度ではなかった、まったく異質と感じ、そのように感じたことにも驚いたものだ。
というわけで、「もののあはれ」の「あはれ」はあわれ、「なまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしう」は、なまめかしゅうはずかしげにおわすれば、いとおかしゅう、と読んで行くことにした。
この本は、本文に沿って主語を補足してくれているので、迷うことなく意味をつかんで読み進める。とにかく誰が話しているのか、誰が動いたのか、思ったのか、これらの主語が省かれているから、間違えて読み取ったらえらいことになる。
今時代の人たちの文章でも、主語省略が実に多い。主語省略という特徴は、『源氏物語』の時代から続いている、いわば日本語の特徴なのだろうか。
これは「おくゆかしさ」を漂わせると同時に「曖昧さ」をともなう。角の立たない柔らかな表現と映る一方、ときどき私は、卑怯だと感じてしまう。
花鳥風月をもてあつかう場合は知らず、はっきりと自分の考え、意見を述べる場合には主語省略をしないほうが、自分自身のためにも良いと思う。

要らぬお節介かもしれないが

お節介か、姑根性かわからないが、黙っていられないということは、多少の関心を寄せていることの証左かもしれない。
天皇について。
大嘗祭が終わり、天皇が挨拶をされた。その時に思いついたことを話すのではない、用意した文章を読み上げるのである。
丁寧に、落ち着いて述べられ、終わった。
終わった、そのとき天皇陛下は背筋を伸ばし頭を立て、聞き入る人びとの上に、穏やかな視線を向けた。堂々、見事な一瞬であるが、なんとも「だらしがなかった」。
言葉の最後の一文字を発し終えたとき、彼は口を閉じることをしなかったのであった。
半開きの上下の唇の間から白い歯と、濡れた口の中が映し出されて1秒、2秒、そしてもっと。やがて報道の映像は切り替わってしまった。口を閉じなかったことに、この、還暦近い男は気づいていない。
だらしない。締まりがない。ボンクラに見える。なんてことだ。情けないったらない。これでなんの象徴か。みっともない。もしかしてバカ丸出しか。

日本から天皇が消えるか、存続するか。日本人にとって、この問題は深い関心の元に賛否両論が続いている。
どちらが良い、よくないの問題よりも前に、第一にあるべきは天皇が天皇であることだ。妻子、兄弟も甥姪も、一族がおしなべて天皇一族でなければ話が始まらない。
今回の一連の儀式の報道を見た限りの、巨象の一部分であることは言うまでもないが、天皇周辺を固める近縁の人物群の中で、皇室人としての安定感を持って映っていたのは常陸宮夫妻と麻生太郎夫妻だった。
常陸宮妃の姿が久々に映された。なんとデカイ顔をして生きてこられたことか、あのお嫁入りの時から今までを。堂々、揺るぎない土台の上に立っている人相であった。

改めて虚心に、古代の歴史を勉強しなければならない。
単純なフェミニズム思想に覆われてしまっては、本質が隠れてしまう部分があると考えている。
歴史と考古学の接点の融合はもとより、あらゆる分野が連結しなければ見えてこないものが、あまりにも多い。
動物行動学の面から、人間女性の力を研究してもらいたいと願う。
その先に仮説として見ているものは、母の力の大きさ、重さ、強暴とも言える底力だ。
もしかすると、美智子皇太后、雅子皇后、そして秋篠宮妃の3人が皇室の本質を溶かしてしまうのではないか。これは愚考か妄想か。

悟った!

長年、座禅に関心を寄せており、今までに座禅をする機会に恵まれたことが二回あった。
が、それぞれ具体的な不可能理由が生じて中止していたが、改めて接することになった座禅は続いている。今回はお寺に行かず、御坊様にも会わず、テキストとVTRのみという座学である。
実際にお寺で経験していることが土台にあるお陰にちがいない、一日も欠かさず続けてこられて最近では、これがないと、その日が始まらない気持ちになってしまった。
一日一回の座禅が安定したならば、夜明けと日暮れどきに、つまりお寺の鐘が鳴らされる朝夕に行いたいと願っている。
続けてみて初めて発見できる事柄が多い。テキストの師家は山川宗玄という、私よりずっと若い御坊様だが、話すことの端々に宝物がたくさん転がっている。
端々ではない、中心に置かれるものは、それこそ大切な宝物なのだが、それ以外にも、という意味だ。
合理的にできているんです、とおっしゃる。これが、わかってくる。わかってくるのが面白いし嬉しい。
座禅という行為が世間で言われる無念無想というキャッチフレーズに覆われて見えない部分、身体を整えるため、呼吸を整えるため、という、この二つの部分が如何に大切か、このためだけに座禅をしても良いくらいだと身にしみてきた。
山川師家は椅子座禅もお勧めになる。
仏教はインド生まれだから、インド人の体格に向く修行方法なのだ、足を、あのように組むのは日本人の体格には元来不向き、座禅はヨガの一形態なのだという。これは無理にするべき体型ではないと安心した。
座禅の基本は、健康体を作ることにあるのだな、と「悟った」。
食べ物も、土地の野菜と米、そして多様な豆類だ。これに海藻が加わっているようにも見える。僧坊の食事時間は早朝と正午の二回で、夜に薬石という名の軽い食事がつくという。
アラビア人の食事時間が夜明けと正午の二回だという話を読んだことがあるが、この習慣と重なるものがある。夜の食事を軽くすることもまた、健康に良いのではなかろうか。
などと思い巡らせた結果、お坊様が長命であることは決して偶然ではない、と「悟った」。
僧坊の真似をして濡れ雑巾で拭き掃除をする。棒の先に板っきれをつけたものに、不職布のようなシートをつけて拭き回れば楽々なのだが、楽をして身体を怠けさせて何か良いことがあるのだろうか。
フィットネスクラブに入って白ネズミが輪車の中を駆け回るようなことをやって時を過ごし、家ではじっと動かない暮らしって、私には向いていない。
最近嘆かわしいことは、抜け毛が激しいことだ。白髪が目立つ、あっちにもこっちにも落ちている。ブラッシングしてたくさん抜け毛があるのに、まだ抜けるつもりか、と呆れてしまうが止まない。
今の季節、秋は猫の毛は増える一方で抜け毛は皆無に近い。春先には大量に抜けるために掃除に困難を極めるが、この問題は横に置いておいて、人間の抜け毛だけを思うとき、ハタと「悟った」。
お坊様が坊主頭であることは合理的なのだ。僧坊がいかに広くとも、大勢の坊さんたちが長髪で修行をしていたら、掃除が桁違いに大変だろう。
座禅は興味が尽きない、次々に悟ることができる。

天皇即位 もっと言いたいことがある

豪雨が気がかりで、何日か前の天皇家のことを書き残しました。
腹立たしい行いを知るに及び、怒りが収まらない。この怒りは、何に向けられた怒りでしょうか? それとも見当はずれの怒りでしょうか。
怒りの矛先は、詳細に報道された「饗宴の儀」の料理のメニュー、10月22日の内容を知るに及び、その中に含まれていた食材のひとつに向いています。
「饗宴の儀」は、国内外から広く賓客を招いた、天皇陛下即位祝賀の大宴でした。豪華で立派なお料理の何が気に障ったのか、説明します。
献立の中の温物として茶碗蒸がありました。この内容が、フカヒレ、マイタケ、ミツバ。
私の怒りは、フカヒレに向いています。
世界中の大切なお客様の前に、シャークのヒレを「ごちそう」として出したのです。
シャーク ショックに絶句した人がいなかった、と思いますか?

残酷なサメ殺しを見聞きして、眉をひそめていた人々が、日本第1級の宴のご馳走として、サメを食べる羽目になった。
私は食べた、と帰国して土産話をするでしょうか。とても食べる気持ちになりませんでした、と声を落とすでしょうか。
世界中に珍味はあり、それは結構なことですが、世界中が真剣に自然保護を考えている今現在、クジラ、イルカ、サメなどを食材とするありようは、慎重に、深い思慮を持って繊細な神経で向き合わなければならないと考えています。

カナダ・トロント生まれの映画製作者・環境活動家のロブ・スチュアート(Rob Stewart)制作のドキュメンタリー映画「シャークウォーター 神秘なる海の世界」(Sharkwater and Revolution 2006年公開)は、彼の代表作で、しかも世界中で評判になりました。
これはサメの持つ負のイメージを抜け出して、サメの美しさと魅力を伝えようとした海洋ドキュメンタリーです。
彼は世界中のサメを撮影してゆく中で、産業化しているフカヒレ・ビジネスに出会います。
しかも、このビジネスによってサメが既に危機的状況に追い込まれている現実を見たとき、美しい映像を求める当初の目的は環境保護へ視点を移し、マフィアも絡む危険な取材へハンドルを切ったのでした。
劇的な制作意図の変化は話題を呼んで、ついに「フカヒレ使用禁止運動」が起こるまでになった、この有様を日本の人々も知っていたはずです。
続編撮影のためにフロリダでスキューバダイビング中に、37歳のロブが亡くなったことが、さらに注目度を高めていた、この矢先の「フカヒレ茶碗蒸」です。

返す返すも、残念な食材の選択でした。誰が選んだにせよ罪は宴の主にあります。
しかも彼は、水に対して深く関心を寄せている人物と、内外に知られています。
こういうポカをやるんなら、天皇も象徴も降板してよね! 日本の恥じゃないのさ!

私が相撲を好むわけ

私はお相撲を観るのが好きだ。テレビが市販された最初の時期からお相撲の中継があったように思う。14インチのモノクロ画面の正面に正座して見つめたお相撲さんたち。
鏡里、栃錦、朝潮、吉葉山。美しい吉葉山、鏡餅のようなお腹の鏡里。これがお相撲さんというものか、と目を見張った。
今は外国出身のお相撲さんも大勢いて素晴らしい、どの力士も、それぞれに見所がある、昨夕は「栃の心ガンバレ、五分になるっ」と叫んで応援した。
どこがどのように良いのかな? 一つは他人事だから。走ったり泳いだり、ボールを投げたり受けたりは、ああ、すごいなあ、私は何一つできない、と身に滲みつつ眺める部分があるのだが、大相撲にはそれがない。
それより何より良いことは、敵味方がないことだ。ものすごい闘志を持って裸一貫、力を競うのだが東と西である。
この一点で私は大相撲を好んでいるようなものだ。
戦争反対と言いながら、どうして人は、日常生活で戦争用語を多用したがるのだろう? 敵とか味方とか。戦略とか。野球でもXX軍とか。

やっぱり我慢

公立図書館の蔵書の話題です。ベストセラー、人気の小説本に殺到する図書館利用者に対する図書館の対応について。
こうした人気の本、読みたい人が大勢集まる本の場合、図書館では、読者の要望に応えるべく何冊も購入する。
例えば10冊購入して利用者に提供しても、予約者が200人並んだとすると、1冊あたり20人が待つことになる。
借りる期間は一人2週間で、予約者がいる場合は延期はできない仕組みになっているのが、大方の図書館の規則だ。後に予約が入っていない本の場合は、一回のみ延期が認められるので、合計4週間、自宅に持ち帰り読むことができるのが図書館の本だ。
だから20人が、各々2週間ずつ借りたとして40週。約10ヶ月が待ち日数という計算になる。
実際は、数日で返却する人もいる代わりに、催促を受けても、なかなか返却しないというか、できない状況の人も出る。さらに、予約した図書が用意できました、と通知を受けても、即日図書館に受け取りに行く人、週末に受け取りに行く人、と様々であるから、
待ち日数は計算通りには行かず、短くなることは、まずない。
こうした多数の希望者のために、図書館は複数の本を購入するのだが、私は、これはやめたほうが双方のためだと思っている。瞬間風速的に希望者が殺到した後は、見向きもされない放出本となるのは、著者に対しても失礼な話だ。
図書館には、蔵書数を増やす方向へ、あるいは有益な活動へ費用を回してほしいと思う。
図書館の利用者は、たとえ予約が200番目であったとしても待つべきだ。200番目だったら100か月。待ちましょう。我慢しましょうね。待てないのだったら買ったら良い。
もしも私が図書館だったとしたら、発行日から1年間は館外持出禁止にする。たとえどのような書籍であろうと。
図書館は、無料で読みたい、の声に押されることなく、多部数購入を我慢すべきだ。こうした場合、我慢の態度は不親切と捉えられては不本意だからと、要望に応えることは、図書館の利用者を一人前の図書館利用者に育てる努力を放棄したことになる。
図書館に限らず、一般国民と接する公共機関は、要望に応えてなんでもいたします、という態度を改めて、毅然としてあるべき姿を見せなければいけない。
こうした我慢は、心ない非難を浴び続けることになるかもしれないが、10年、50年、100年後に、必ず民度が上がるという結果に繋がるはずではないだろうか。


我慢するということ

先ごろ、どこぞの城にエレベーターをつけたのは、余計だとか、つけるべきだとかいう雑談を耳にした。論議ほどのことではないらしいが、障害者団体などが、弱者に優しくしようという趣旨からエレベーターの設置を主張しているらしい。
先日鎌倉の鶴岡八幡宮に行ってきた。あの大銀杏はなくなっていたけれど、七夕前であったので飾りも華やかで、観光の人の多さには驚いた。
参拝する前に、近くにある鏑木清方記念美術館に行ったために疲れてしまい、本宮(上宮)を見上げて、これはお参りできないと悟った。階段を登りきるだけの体力はないとわかった。
大石段を見上げて、ここまで来たことを喜び、下にある若宮(下宮)でお参りして帰ってきた。
お城を昔通りに復元することを目的として工事をした、にもかかわらずエレベーターをつけようという発想は、どうにもいただけない。昔はなかったのだから、つけたら昔通りではなくなってしまう。つけるべきではない。
鶴岡八幡宮にしても、あれだけ大勢の参拝客がいても、大石段の横にエスカレーターをつけていないではないか。拝みたいが大石段を上がれない人は、下の若宮で拝むようにできている。
障害者であろうと、体力不足であろうと、できないことを我慢すべき場合があることを知らねばならぬ。鉄道の駅に設置するエレベーターは、公共の施設としてありがたいことだ。しかし公共施設が整えられたから、あれもこれも全部と希望するのは、了見が違っている。
東京町田市にある、白洲次郎・正子夫妻の住んでいた武相荘が公開されているが、ここは車椅子は入れない。障害者割引はない。小学生以下は入れない。
段差があり、やたらと高い敷居があちこちにある、こういう家で高齢の正子さんが暮らしていたのだと、入ってみると体で分かる。このような家の中を動き回ることは、苦労だったかもしれないが、体力の保持につながっていただろうと想像できる佇まいだ。
人間いろいろ欲望はあるだろうが、金がなければないなりに、体力がなければないなりに、我慢と工夫で生きてゆくのが自然なのだ。不足分を抱えていると我慢力も工夫力も発達する。自分には、その力がないと身にしみたところで我慢する力だけは手放してはいけないと思っている。甘えたから、欲しがったからといって、何でもかんでも欲望を満たしてあげることは、どんな場合でも良いこと、だろうか?
このことを強健な若者が主張しているのであれば、高齢者の暮らしの苦労も知らないで、と笑うこともできるだろう。しかし80歳を過ぎた体で喋っているのだから、自分自身を含めての覚悟である。
知人の一人が熱意のあるボランティアと自覚している人物で、ある時、身障者をハングライダーに乗せてあげることを成し遂げた。成功して喜んでいたが、このような行為は支援ではなく、ねじ曲がった、歪んだ精神の自己満足でしかない。

電子書籍

電子書籍が現れてから9年、来年で10年にもなる。2社の製品を使っているが、その一つ、kindleの使い勝手が良い。
何しろ読もうと決めてから、わずかのキーボードの操作でたちまち手元に現れるのだからありがたい。
こうしてせかせかと欲しがるのは、たいてい資料のためだから、用事のある部分だけを使えば終わってしまう。
これだったら満足度100%と言って良いのだが、初めから終わりまで「読書」しようとすると、たちまち腹が立ってくる。
日本語の本の場合だが、不意に現れる傍線とコメント。目立たぬように、細い破線ではあるが傍線が引かれて、その冒頭の肩に「xx人がハイライト」と記してある。
たまにある場合もあるが、続く場合も多々ある。古本じゃあるまいし、傍線のある本なんか買った覚えはない。傍線あり、の場合は、古書でも価格が下がるのが常識だ。
いったい、どこの誰が他人のハイライトを見たがるのだ?
ハイライトというのは、マークしたい部分を指でなぞると色が変わる仕組みで、傍線を引くというより蛍光ペンで文字の上をベタ塗りにした感じである。
昨夜買った本を使おうとして開き、怒りが再燃した。腹が立ってかなわない。

テレビという代物はニュースを伝えるものではない、ニュースだったらネットの方が早いし、情報量も多い。
テレビは「みんなは、どう感じてるのかな?」を伺うためのものだ。だから、テレビを見て喜ぶ奴どもがハイライト何人、を知りたがるのではないか。
周囲の反応をうかがってのちに、自分の反応を決めようという化け物、幽霊。実態のない、無に等しいもの、それがうようよしている。
ハイライトの怒りの炎はさらに燃え上がり、だらけた幽霊、後出しじゃんけんを利口者と任ずる下劣な奴らに類焼する梅雨時の朝である。

もう一つの機種の方には不満はない。地味で大人しい器械だ。
この中に蔵書を自炊して収納している。自分で自炊した本もあるし、業者に依頼したものもあるが、もともと手放したくない蔵書だから、
内扉に蔵書印があり、書き込みも全部、そのまま入っている。ま、いいか。鎮火。

自分を信じない

自信がある、ない、という。これは自分の能力を信ずる、自分自身を信頼する、というような意味でしょう。
最近私は、自分自身の運動能力を信用しないことにしました。
高齢者の自動車運転能力について危ぶむ声があちこちから聞こえますが、車どころか自分の体を動かすことさえおぼつかないというのが現実じゃないでしょうか。
高齢の知人たちから、なんとしばしば「転びニュース」が届くことでしょう。転んでもただでは起きないのは若者です。タダでは済まないのです、骨折へ、安静へ、と進んでゆきます。

私は長い間犬と暮らしてきて、今は猫と暮らしていますが、犬、猫たちから学ぶことの一つが、高齢化した時の暮らし方です。
犬の場合、散歩している時に出会う相手と自分自身との力関係を、瞬時に見てとります。相手が犬であろうと、人であろうと、なんであれ動くものに対して見計らうのです。
壮年期の充実している時代には、胸を張り、正面から相手を見据えながら堂々と歩をすすめる、その様子は自信に溢れたものです。
犬の性質にもよるのでしょうが、私の相棒犬、千早は、攻撃的な気持ちは湧いていないが、比較にならないほど自分は強い、という気持ちに満ちていることが伝わってきました。
やがて高齢になり、歯を、特に犬歯を失った後の千早は態度が激変しました。
行く手から近づく大型の若犬に対してどうするか、というと、気がつかない顔をするのです。素知らぬ風で目をそらせるのを、相手も受け入れてくれて知らん顔ですれ違います。
冒険大好きで、どこにでも一緒に行っていた相棒だったのに、年を取ってからは毎日決まり切った散歩の道だけを、なぞるように歩くことを好むようになり、
しかも草の葉や石ころの一つなどに鼻を寄せて仔細に嗅ぐことが目立つようになり、慣れた場所で馴染みのにおいを確かめることが、彼女の大きな満足になりました。
年をとるって、こういうことなんだ、それを自然に受け入れて暮らしていると感じて、しみじみと心にしみたのでした。
その後、猫と出会って最期まで一緒にいましたが、この猫からも学びました。
隣の家の物置小屋の屋根から、わが家のベランダに、まるで空に浮かぶかのように身軽に飛び移ってくる。後足の跳躍力の凄さ。跳ぶ前に注意深く見計らう眼差しの真剣さ。
そして思う通りのジャンプを成功させます。
野生のものたちは命がけですから、スズメもツグミもムクドリも、猫に狙われたら必死で身を守る、それぞれの能力全開で猫から逃れようとしますが、若猫の能力はそれに勝っています。
この子、メロデイは、やがて高齢になり、1メートル足らずの台に飛び上がることができなくなりました。
推し量っている眼差しを見つめていると、彼女が自分の体力と台の高さを考えて、やめよう、と決めている気持ちが伝わってきました。
メロディは、記憶にある能力、空に浮かぶかのように跳躍できた過去を完全に棄て去り、今現在の自分の体力と相談しているのでした。
私たち人間は、なんと記憶を大切に抱え込むことでしょう。
二段飛びで駅の階段を駆け上がった記憶を抱えながら、玄関の上がり框に引っかかって転ぶ姿は、猫も呆れる馬鹿らしさではないでしょうか。
凡人の私は、仲良しだった犬の千早、友達だった猫のメロディから学んだ知恵に従い、過去の記憶に座らず、今の自分を見据えることにした次第です。

ロシアの作家、レフ・トルストイは、82歳の時に家出をして鉄道の駅舎で命を終えました。
寒いロシアの11月末です、承知の上での行動は、人間が記憶から自由になれないこと、肉体で生きることを超えて心で生きる生き物であることを伝えてくれるように思います。



元号は天皇のもの

結論から言うと、元号の存在は結構だが、日本国民の暮らしから切り離して、天皇所有のものとしてもらいたい、ということだ。
国民に使用を強要する、法制化することも止めてほしいということだ。
今回、次の天皇のための元号が決められた。思案し決定するのは、来月から天皇になる予定の皇太子殿下本人ではないどころか関与もしていないらしい。
選ばれた選者たちが、いかに心込めたとしても名を冠する本人と関わりのない他人である。押し付けられた名を否応なしに一生用い、死んでのちまでも、この名で呼ばれることになる。
大昔の元号は、もっとのびのびしていたのではないかしら。
秩父の山中に銅の鉱脈を見つけた。これで銅銭を鋳造できるわ、めでたいわ、元号を和銅に替えましょうよ。
と喜んで「慶雲」だった元号を「和銅」に取り替えたのは、女帝、元明天皇だった。西暦708年のことだ。このころは女性天皇もいたし、元号も気軽に取り替えた。なんか自由で楽しい感じが伝わってくる。
(ほら、ご覧なさい。和銅元年と言われても、いつのことやら判かりません。西暦に変換して納得するわけでしょう?)
今は、がんじがらめだ。今の天皇一家は自分自身のことも自分たちで決めてはいけないらしい。内々のことを夫婦親子だけで決めるわけにはいかないみたいだ。
思いつきを勝手に喋ることも問題らしい。挨拶以上の内容を喋ると大騒ぎになる。おまけに関係のない他人が寄ってたかって口を挟む。
天皇家という表現を目にすることがあるが、これでは家庭とは言えない。悲惨な晒し者だ。
朕は神ではない、と昭和天皇が人間宣言したのは事実だが、今現在の有り様は、どうだろう? 人間扱いされていない。人間扱いをしないのは、どこの誰だろう? ひどすぎる。
いったい誰に天皇とその一族の人権を蹂躙する権利があるのか。今現在のような振る舞いは、法律がどうであれ、人間同士として許されてよいものかどうか。
家庭内の事情・心情まで暴露、あるいは誤暴露され続けるありさまは、気の毒で見ていられない。これでは身の置き所もないではないか。だいいち神経が保てない。
わけのわからん「象徴」という冠を外して、慕いたい人から慕われ、愛され、親しまれつつ、穏やかに安全に過ごしていただきたい。願わくは、世界有数の長く深い伝統を大切にしていただきたい。
一方、伝統は伝統、国民の実生活は現実の暮らしだ、元号を公に用いることはやめてほしい。というか廃止すべきだ。
天皇の治世ではないのだ、国民を巻き込まないでくれ。戸籍をはじめ、公的書類から解放されるべきだ。あまりにも馬鹿げている。
日本は特別だ、元号は国民に必要だと言い張るのであれば、徹底したらどうかしら。度量衡も元に戻したらいかが。一升升で米を測り、道を訊かれたら、一丁ほど先ですよ、とやったらよい。
天皇に関する様々な感情も決まりごとも、希望する者たちの中に守られて続きますようにと強く願う。

個人化

私は長らく同人誌と関わりながら生きてきた。断続的に同人誌の同人となり、今は個人誌を発行しているが、かれこれ60年を越えた。
最近の同人誌というと、漫画・アニメ・ゲーム系二次創作の同人誌が隆盛を極めており、ビッグサイトに行ってびっくりしたのはだいぶ前のことだ。オリジナル作品に限って発表している一次系は、少ないのか目立たない。
だいたい、同人誌というものが生まれたのは明治時代で、小説・俳句・短歌などを寄り集まって書いて作っていたものだ。今は俳句・短歌専門に発表している集まりを結社と呼んでいる。秘密結社というと迫力があるが、俳句などが結社という呼称を好む理由は知らない。
本家というべき文芸同人誌は、高齢化に加速度がついて年々減少の一途をたどっている。高齢者は肉体的ハンデに加えてパソコン使用がネックで、高額の制作費を捻出しなければならないことも減少の原因ではないかと思っている。
最近は紙の媒体をやめてインターネットからのダウンロードで伝え合う「デジ同人」が増えつつあるのだから、伝統的文芸同人誌の先細りは止まらない。私も「デジ誌」にしたいのだが、これに移行すると読者のほとんどがアクセス不能状態、存在しないも同然となるので困っている。
このような惨めな有様であるのに、文芸個人誌が増えてきていることを最近になって知って意外な感じがした。個人誌こそ希少種、絶滅種だと思っていたのだ。
そこで世の中を見回してみると、カラオケではワンカラという、一人用のカラオケが人気で増加している。先日、新宿で見つけたのだがTSUTAYA BOOK APARTMENTでは、24時間営業で個室ブースのレンタルがあった。独りで何するんだろうな、とカウンター周辺をうろついていたら、次々と利用者がやってくる、対応が間に合わなくて並んでいる、という繁盛ぶりであった。女性も多い。
お笑い芸人のヒロシさんは、一人でキャンプに行くそうだ。キャンプファイアを囲んで歌を歌って、というキャンプではないという。独りで、自分流儀の火を起こして、一人分焼く。焼いたりしないで途中のコンビニで買ってきて食べることもあるそうだ。
これに人気が集まり、ひとりキャンプのヒロシさんに、ぞろぞろとついてくるそうだ。キャンプ場に着くと散らばって、それぞれが一人キャンプを始めるという。ひとりは寂しくはない。ひとりは疲れない。

校正と校閲

「夢類」第26号の発行が12月になったことから、発送などの仕事が年をまたいだ。十日になってようやく一段落した。
「夢類」は個人誌だから著者校に始まり著者校に終わる。三校の後、もう一度見て責了として印刷所へ渡す。ここでさらに校正が入り校了となる。
今回は写真の仕上がりも満足行く出来で印刷所共々喜び、もちろん校正ミスは考えられなかった。「夢類」はカラーを使わないので色校正はないので簡単だ。
印刷所から手元に届いた、パッケージを開いて表紙を見る、そして本文ページを開く、この時のワクワク感が、今までの労苦を帳消しにしてくれる。

最初に目に入った見開きページの下段。あらら、ら。校正ミスだった。あれだけチェックしたのに。完全無欠のはずだったのに。最初に開いたページに間違いがあるとは。
漢字一文字の間違い。結局、校正ミスはこの一文字だけだったのだが、ゼロにならなかった悔しさは一通りのものではない。
校正とは、生原稿を希望のフォント、希望の配置にして入力したものを、元の原稿と突き合わせて誤りを正す作業のことだ。
簡単に言うと、カラスとあるべきところがガラスとなっていたら、カラスに直さなければ意味が通じないというわけだ。

もう一つ、校閲という作業がある。これは同じく「校」の文字がついているが仕事は全く違う。内容の正誤を確認する仕事だ。出所の確認である。俗な言い方をすれば、ウラをとること。
例えば人物の名前、住所、生年月日、有名な事件が起こった年月日。地名、気象は言うに及ばず、ありとあらゆる事象を確認する。これは踏み込んだら最後、終わりはない。古今東西森羅万象に及ぶ。
校閲が優秀な出版社がある。私は読者として、この出版社を心底尊敬している。創業者が校閲を大切にした、これが伝統となっているに違いない。今度生まれ変わったら、こんな世界に身を置きたい。
私は校閲も自分自身でやるから、自分の尻を叩きながら進むようなものだ。滑稽な有様だが、この緊張が生命に張りを持たせているのかもしれない。
最近の事だが、ある人が某出版社は校閲部を持っているのか、ないのではないか、という疑問と批判の言葉を発した。
名指しされた本についてはさておき、校閲部があるのかという言葉は、出版社にとっては、お前は人間かと問われているに等しい刃だ。

アメリカのテクノロジー企業googleは日本でも情報サービスを行い、いまやなくてはならない情報源となっている。しかしここで手に入る情報は校閲を通ってきていない情報だ。誰の保証もついていない情報である。このことを承知の上で利用するには問題はない。
最後に言いたいことは、まともなメディアは校閲を通さない情報を流すべきではない、という一言だ。この一言を言いたいがために校正、校閲のゴタゴタを述べてきたのだ。
マスゴミと呼ばれる数多の雑多メデイアは、それなりにやっていたら、それなりの受け手がそれなりに楽しんでくれるだろうから文句はない。
しかしNHKは違う。NHKだけは、校閲を通さない情報を流してはいけない。反則だ、とまで言いたい。
どういうことか、というと、「関係者への取材で分かりました」という前置きのもとに言いたい放題。「有識者の意見では」という前置きで、言いたい放題。
この枕詞を聞き流して、内容だけを聞き取ってしまう視聴者は被害者だ。
有料視聴をさせられている「みなさま」は、まさに入れ食い状態で「私たちのNHK」の、故意のデタラメもありうる情報を丸呑みし、釣られている。
いまどき、朝日、毎日、読売、産経、東京、共同などなどを、まともに信じて受け入れるバカがいるか。この人物ならと選んだ個人ブログへ走っている。
私は個人誌の主だから、自身の発言に全責任を背負っている重さが身にしみる。今や存在力を持つのは組織ではない、個人だ。
責任を回避し、責任を他者になすりつけ、嘘つき冷酷のアベ政治、このアベ政治の水先案内人と化したNHKは、亥年の本年、豆腐の角に頭を打ち付けてくたばってしまえ。

白内障

年明けに白内障の手術を予定している知人が二人もいる。去年は、やはり二人いた。
揃って60歳以上の方々で、欧米のように早期に手術に踏み切る人は少ない。
夫の伯母が白内障の手術を受けたのは、やはり相当高齢になってからだったが、これは50何年も前のことだった。その時伯母はもちろん入院したのだが、術後の3週間を上を向いて寝たきり状態で過ごした。
トイレに行けない、上体を起こして食べることもできない、想像を絶する固定状態。私に言わせればミイラスタイルの3週間だった。
退院した伯母は涙を流した。随喜の涙であった。見えるようになった嬉しさのせいか、ずいぶん素直になったように感じたものだ。

他人事と感じていた白内障が我が身のこととなった時、時代は進んでいて15分足らずの手術時間、1日の入院、あとは通院で視力を回復してもらったのだ。今はどうだろうか。
通院環境にもよるが、日帰りも可能なほど負担が軽くなり、まるで常識であるかのように、この微細な高度の技術を必要とする治療が普及してきた。
一昔前に伯母が手術に踏み切った頃までは、諦めるしかなかったのだ。視覚障害者となって耐えるしかなかった。この有難さは表現できるものではない。
水晶体の中、液体に微細な粒がたくさん浮遊して、これが邪魔をして見えなくなるので、眼鏡による補正が効かない。朝日に向かったら、視界は輝くすりガラスだ。テレビに出る大写しの顔の目鼻が見えない。目と口の位置がなんとなくわかる。

近く手術をする方に、お風呂に入っている時には見えました、と手紙を出したら、なんと同じだった。お風呂に入っている時は、少し見えるそうだ。面白い現象。水蒸気の作用かしら。
近く手術を予定される方々に伝えたいことがある。それは、濁った水晶体を除去して人工的な内容に置き換わることにより得られるものは、視力の回復だけではない、ということを強く伝えたいのだ。
病院で丁寧な説明を受けた内容の受け売りだけれど、生まれたての赤ちゃんの水晶体は、それはもう澄み切っていて美しいものなのだそうだ。年月を重ねるにつれて、自分の手の甲の色と同じくらいの色に濁ってゆくのだそうだ。よく見えていても無色透明な水晶体ではないのだそうだ。
手術によって、生まれたての赤ちゃんレベルになる、だから世の中が鮮やかに、あるべき色合いに映るのだそうだ。
治ることで、テレビの目鼻が見えるだけではない、空の青とは、こういう色だったんだ、椿の葉の色は、こういう緑だったんだ。
見るものの鮮やかさ、新鮮さに感動する日々が待っています。

アウン=サン=スーチーさん

アウン=サン=スーチーさん。いつも同じヘアスタイル、うなじにまとめた髪に花かざりの、細面の美しい人だ。
あの、とんでもなく長い間の幽閉生活の中でも、花の香りを失わず、明るい表情を保ち続けてきた、この政治家に、遠くから声援を送ってきた。
だが、最近のスーチーさんの表情は険しく暗い。今こそ自由に活躍できる立場であろう、ノーベル平和賞ほか数々の受賞などに励まされても来ただろう。
それが国際社会から批判されて、ノーベル賞も返してもらおう、という声まで上がってきている昨今だ。
遅ればせながら、ロヒンギャについて勉強、ほどではないが知識を増やそうと努力している。
まだ勉強途上だけれどスーチーさんは、ノーベル賞を返せ、という声に対して、賞などはどうなってもいいと反応している。
難民として世界中が把握しているロヒンギャと呼ばれる人々に対して、ミャンマーの人たちとスーチーさんは、計り知れない多くの情報と経験を持っているはすだ。
暗く、険しい表情のスーチーさんは、国際社会から非難を浴び続けているが、一方、国内では絶大な信頼と共感を得ている現在というものがある。
スーチーさんは、自分の名誉などを放り出してでも守りたい、守ろうとしている何かがあるのだ。国際社会の人びとには、これが見えてこない。

粘る力のあるスーチーさんだ、国際社会がもっと深く事実を知るまで我慢を続けるしかないだろう。
単純に助けたのでは、国民が収まらないものがあるに違いない。
このことと関係するかなあ、と首をひねって思案するのが宗教問題だ。
ミャンマーは、ほとんどの国民が仏教を信ずるが、ロヒンギャの人たちはイスラムだ。
イスラム教徒で多産のロヒンギャの人々が、婚姻により国を侵食することを懸念しているミャンマーの人々の恐怖心を、風評と片付けて無視することは危険ではないか。
恐怖心ほど、人の心を行動に走らせるものはない。また、風評ほど、人の心に食い入りやすい「知らせ」はない、と私は思う。
なぜなら人は、信じたいものを信じようとするからだ。確実な情報源を持つ情報の声は、いつも静かで低い。
おまけにタチの悪いことに、時には風評が事実だったりするのだ。戦時中の「口コミ」当時は噂話と言ったが、正しかったことが数知れないのである。
それは政府が事実を隠蔽したり曲げて伝えるからで、元はと言えば国が最大の元凶なのだ。だからこれからもフェイクをテイクする人は増える一方だ。

彼らが、どうして仏教なり、イスラムなり、宗教に浸っているのか。心の救済を求めているのではないか。
一方、日本も欧米諸国も、宗教に対して低温状態である。衣食過多の物質文明の中で心が失われているのではないか。満たされているわけじゃなくて。
宗教に何を求めているのか、なぜ、宗教がどうでも良いのか、ロヒンギャ問題の底辺には、この問題が横たわっているのではないか。

犬の力を借りる

地域内で自由に暮らしている猫たちとの付き合い方を考える中で、共に仲良く助け合い、気持ちよく暮らす方法として庭をテリトリーとして守ってもらう方法を考え、実行しています。
この考え方は、無から発生したものではなく、あるシンポジウムで行われた長い討論から学んだものです。それは、何年か前に山梨県富士吉田市にある、山梨県環境科学研究所で開かれた、農地を荒らすシカ、イノシシの被害と対策についての討論でした。関連した問題が数多く討論されましたが、私には、この部分が興味深く、役に立った部分です。
発言された方々は、研究者のほかに生まれる前から当地に生きてきた現場の方々も多く、誰もが時間をかけて話してくださったので、時の経つのを忘れて没入したことでした。
問題は農地と害獣の攻防ですが、電線を張り、通電しようが、高いフェンスで囲おうが、抜け道は作られて出入りされてしまう。研究所の方が観察したところ、鹿の跳躍力は想像以上で云々、とフェンスの高さを吟味する話題になった時、現に畑を持っている方々から、犬の話題が出ました。
昔は畑の被害は、あったが少しだった。今現在の被害は半端でない。イモ畑一面が、バックホーが入って耕したかと思われるほどにひっくり返されてしまう。一晩かかって親子連れのイノシシが芋を食べつくす。このような大きな被害が出る原因は、犬の不在にあるという主張でした。
今、飼い犬は放し飼いを禁じられています。犬も利口ですが、食べたい一心で農作物を狙ってくるシカもイノシシも、なかなかの利口者ですから、つながれている犬が追ってこないことを百も承知で侵入してきます。でも犬が吠えてくれていた時代は、気づいた飼い主が目を覚まして追い払うことができていました。ところが今は、地域全体が高齢化して中型、大型の犬が消えました。体力のある活発な犬を飼うことは、高齢者には大きな負担です。引きずられて転倒する危険もあります。気づいた時は、どこの家も小型犬ばかり、それも室内で暮らす可愛らしい犬たちばかりとなってしまいました。
犬の放し飼いを認めて貰えば、高齢者でも大型犬とともに暮らせます。食べさせて、ハウスを用意すれば良いのですから。自由な犬たちは足にモノを言わせて走り回り、ご主人のテリトリーを守る喜びを満喫するのです。これならヒトもイヌも大喜びです。地域限定で放し飼いを認めたら、ずいぶん楽になるだろう、とは私の夢ですが。
現実には、高齢化と並んで幼児から中年までの人々が自然から隔絶された感覚になりきっています、歩道に1匹のカマキリがいただけで跳びのき、振り返り眺める有様。こんな感覚の若いもんが、自由に放されて走り回る犬たちを見たら110番するんじゃないでしょうか。

庭は、誰のテリトリーか

戸建ての家の庭は、誰のテリトリーか。もちろん、住んでいる人のものと思っているでしょう。
が、それはヒト社会の話で、犬や猫たちにとっては別の世界、ヒトには関係のないテリトリーを作って暮らしています。
千早が生きていた頃は、南のガラス戸に出入り用のフラップを付けてあり、室内と庭を自由に移動して暮らしていました。だから千早にとっては、室内と庭が彼女の守る領域でした。強烈なテリトリー意識がありました。
千早が亡くなった時フラップは閉じられ、庭は自由空間になりました。犬がいる家の庭には猫は絶対に入れません。猫の侵入を許す犬がいるとしたら、よほど猫好きの犬か、猫と共に暮らす犬かであり、さもなければとんでもないバカ犬です。
千早のいない庭には、多くの猫たちが集まり、タヌキもやってきました。みんな仲良く穏やかで、それはそれで楽しいのですが、猫の繁殖力は相当なものですから放任はできません。
結局、避妊したメロディのテリトリーと決めました。つまり、彼女の分だけの食料を与えて、庭を守ってもらうことにしました。これでメロディは住み込みの職を得た格好となり、自分のテリトリーとして庭を守ってくれました。
やがてメロディが歳をとってなくなり、今はマルオが彼女の後継として我が家の庭を他の猫から守ってくれています。安定させるコツは、マルオの分だけの食料を与えることです。彼にとってみれば、生活がかかっているから真剣に守ります。
猫が嫌いな人は大勢いますが、糞をするから嫌い、と怒り、追い払うしか能がない、猫よりバカな人たちです。我が家の近所には、棒を振り上げて追いかける獰猛なヒトが複数います。猫はヒトを仔細に観察して生きていますが、猫嫌いの彼らは、猫を観察する気もなく、能力もない、猫に劣る生き物ですから勝負になりません。
仲良くして、手伝ってもらって、折り合って暮らせば双方がニコニコしていられるものを、排除し、嫌うのです。
正当な怒りは強い精神から生まれますから、心根がまっすぐに立ちますが、負の感情を発し続けることは健康によろしくない。
憎み、嫌う感情を顔に表して睨んだり、追い払ったりを繰り返していると、いやでも人相に染み付き、これは洗っても落ちません。

幸せを抱く

東京都町田市の芹が谷公園の地続きに、町田市立国際版画美術館がある。ここは版画に特化した美術館で、版画が好きな人にとっては多分、世界一とさえ感じられるかもしれない。
なぜならご本家、日本の版画がふんだんにある上に、世界の版画展企画がたくさんあるからである。
単に鑑賞するための施設ではなくて、本格的な版画工房が用意されていて、誰でも利用できる。アトリエもあるし、暗室も腐蝕室まである。もちろん実技講座がある。
前は車でよく行ったが、最近はご無沙汰している。町田駅から歩かなければならないからなあ。
昨日、友人が初めて訪れたとメールをくれた。よかったと喜んでいる様子に、また行きたくなった。芹が谷公園にどんぐりが落ちる頃に行こう。公園は谷と名が付いている通り、起伏の多い変化に富んだ地形で野鳥の声に満ちている。
美術館の1F、庭に面して小さな喫茶店がある。ここはハンディキャップのある人たちが働いている店。
ゆーっくりテーブルに寄ってきて、一所懸命に注文を聞く。ゆーっくり持ってきてくれる。真剣に、そーっとトレイを置いてくれる。
思わず、ありがとうと笑顔を返すけど、ここで働く人たちは、いつもふわーっとした笑顔、作った笑顔じゃない、湧き出る幸せを笑顔に乗せている。
ひとの幸せって、どこにあるんだろう、どうやって手に入れるんだろう。
そうじゃない、探して追い求めるものじゃない。いかなる境遇に置かれたとしても、湧き出す幸せってあるじゃないか、ひとの心の中に幸せを生む泉があるんだな。

激アツ

夏、お盆の帰省シーズンが目の前に来た。夏真っ盛り。今夏は豪雨災害地帯のことが案じられる。空前絶後、200人を越す亡くなられた方々と周りの人たちを思うと、まがりなりにもエアコンをつけた室内に籠っている我が身が申し訳なくなる。
振り返ると、阪神淡路大震災から今日まで、ほとんどひっきりなしに列島のどこかが災難に遭ってきたように感じる。まるでもぐら叩きのようだが、叩いて消えるものではない、その都度、助っ人たちが寄ってたかって、なんとかしようと頑張ってきた。今現在はどうかというと、豪雨の後の連日の猛暑だ。41度を超えてくるとは、これではまるでお風呂の湯ではないか。
お弔いに参列したいと思った。駆けつけたいが思いとどまり動かなかった。最近、友人と会う約束をする、講演会に申し込む。これが間際になって中止せざるをえない、つまりドタキャンすることが増えてきた。調子良いはずなのが、当日の朝にダメになる。
ドタキャンだったらまだ良いので、参加してしまった現場でドタキャンとなったら大変だ。それはドタキャンとは言わない。緊急事態である、異変である。周囲の人たちに予定外の動きを強いることになる。とんでもない迷惑をかけるわけだから、高齢になったら気持ちにブレーキをかけて踏みとどまる方が良いと気持ちを定めた。
一昔前までは、老人の記憶は若い者にとって貴重な知恵袋だった。
あの時はこうだったという記憶が、未経験の若者たちをどれだけ助けたか知れない。が、今は違う。地球規模で科学的データが揃ってきている。自分の経験を基とした主観的な大丈夫ほど危険なものはない時代に変わったのだ。
94歳の先輩が、私などよりはるかに矍鑠としていられる。彼の友人で96歳、彼同様の独居男性が、深夜トイレに立ったところで倒れた。この方は3ナンバーの外車を運転している、人もうらやむ元気者であった。しかし、つまづいて転んだのではなかった、発作を起こしたのだった。倒れたままで朝が来て、昼になり夕方になった、偶然、幸いにも訪問者があり発見された。訪問者が身内であったのか、配達の業者であったのかは知らない。ともかく命は助かったが、助かったのは命だけだった。
先輩は、このことを伝えてくれながら、実に不思議そうに言うのだ、おかしいなあ、どうして匍匐前進しなかったんじゃ。先輩も、災難に遭われた96歳の方も、戦争中は中国の奥地で戦っていらしたのだ。

旅の日常 日常の旅

在るはず、と書架を彷徨うが見つからぬ。梅雨入りの翌朝に偶感として記す芭蕉の言葉。
芭蕉が許六との別れに臨み与えた言葉、と覚えているのだが。
「古人の跡をもとめず 古人の求たる所を もとめよ」
これは、もとは空海が言ったことという、有名な句である。
空海から発して芭蕉が許六に渡す、それを後世、胸にたたむ。
奥の細道をたどる旅、として芭蕉の名作『奥の細道』で芭蕉が実際に歩き辿った道筋をたどり歩く人々があとを絶たない。
たまたま、ここは最上川だなあと、川べりに佇み芭蕉の句、蕪村の句を思うことはあったが、道筋をなぞり歩くことを思いついたことはない。
梅雨どきである、庭石が濡れて潤いのある輝きを見せている朝。
紀行『笈の小文』を開きます。和歌山の紀三井寺のあたりで、旅の心を語っている、
「猶栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕にかへ、晩食肉よりも甘し。とまるべき道にかぎりなく、立べき朝に時なし。只一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めんと計は、いさ丶かのおもひなり。時々気を転じ、日々に情をあらたむ。もしわずかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし。日比は古めかしく、かたくななりと悪み捨たる程の人も、邊土の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又是旅のひとつなりかし」
生涯寓居の庇を借り、車を降りてのちは寛歩に頼り、とまるべき道にかぎりなく、立べき朝に時なし。これが今のありさま故、芭蕉の心が身に染み渡る。外目には一所に居着き暮らすかに映ろうとも心は片雲に漂う。旅の喜びの極めつけは、芭蕉さまが言われる通り、辺土のうちに語り合い、瓦石のうちに玉を拾う心地するところにあり、のちのち幾たびも思い出す宝である。
夢を、抱えている。頼る寛歩も不如意となるだろう、いつかの暁に、小さな葎姿の図書室を作り、誰となく入り来たり出でゆく道すがらの淀みのうたかたとすることだ、玉を得たる心地を味わう縁となるやも知れぬ。わが身は動けずとも、これも旅であろうと思うのだ。

個人として立つ、ということ

独立した一人の人間のあり方について、最近二つの出来事について気になっています。一つは相撲社会の出来事で、元横綱日馬富士が貴ノ岩関に暴行した事件、もう一つは森友事件で、安倍晋三総理大臣の妻、昭恵さんに関与の疑いがかけられている事件。
気になっている点は共通しており、なぜ本人が裏手にかくまわれているのかということです。
私が思うには、ゴタゴタが起きた場合、幼稚園児同士のいさかいであったならば、双方の親同士の話し合いになることは十分考えられる、しかし子供ではない大人、立派な成人が背後に匿われて、親方だの夫だの、身代わり人が表に立って抗弁する、これはヘンだ、おかしい、あってはならないことだと思います。
なにを幼稚なことを言っているんだ、これらは政治的行動じゃないか、と笑う人もいるでしょう、しかし、視点を裏手に隠されて表に出してもらえない側に移して見てみると、これは捨て置けない話です。殴られた相撲取りは、若いとは言え立派な成人です。本人が直接表に現れたらよろしいし、それが自然であり、当然の態度でしょう。本人を隠すのは解せない。頭の皮を何針だか縫ったと騒いだが、長期入院の大騒ぎをするほどのことか。私は車にぶつかって頭の皮を8針縫ったことがありますが、入院どころか普通に暮らしていました。話が脇道に入りますが、頭皮に裂傷を負った場合、大量の出血があります。顔じゅう真っ赤っ赤になります。半端ではない量です。暴行現場の説明は理解しがたい。外科医のコメントが私の見る限り見当たらず、このことに誰も言及していなかったことは、私から見ると大きな疑問点ではあります。長期間にわたり心身ともに封印された本人の気持ち、意見は消去されてしまったのでしょうか。殴られた傷は癒えるかもしれませんが、何人にせよ、大道から外れた歪んだ判断は、まだ30歳前の若者の将来に修復不能の後遺症を残すのではないかと危惧します。人が人に、してはいけないことです。
一方、総理大臣夫人が、総理の妻であるという関わりから出会うこととなった人々との間に引き起こした言動について、国会で問われているという現状と見えますが、これも徹底的にかくまっています。昭恵さん、ご自分で話してくださいと要請された安倍晋三は、ウチに帰って聞いたら、これこれと言っていましたと答える。この対応が通用すると踏んでいるのが我が国の総理大臣とは噴飯ものです。というか表に出せない、みっともなくて。
この事件も、妻の側に立ってみると、捨ておけない問題があるように見えます。独立した一人の人間として認められていないのか。これを女性蔑視の問題とみることもできますが、ことは、それ以上に深刻で重大です。人権を尊重する。独立した個人の人格を尊重し信ずる。これらが完全にないがしろにされています。これは、人が人に、してはいけないことです。
この二つの出来事は、組織としての対処が必要とされた場合、いとも簡単に人間の尊厳、人格、権利、すべてが反故にされてしまう様相が如実に現れたものと思います。これが、今現在の日本社会において平然と行われているということが、どういう意味を持つでしょうか。くどいようですが、一つは一相撲部屋の内で起きたこと、一つは夫婦間で起きたことです。いったん、戦争になったら、一般国民は政府にとって身内ですらありはしない。どんな目にあうか知れたものではありません。他人事ではないと言いたかった次第です。


自分の行為を飾る言葉

修飾語だとかなんとか、文法についての言い分ではない。
自分自身の行いについて、自分自身が話す、あるいは書き記す場合に使う飾りの言葉について考えている。
たとえば幼稚園に通い始めた子どもが、何日か経った朝、はじめて自分で服を着て帽子をかぶり靴を履いた、お母さんを見上げていう、「一所懸命やった!」
えらい、よくやったね、と喜ぶ大人の笑顔。
これを、大人になってからあまりにも多用すると、あるいは場違いな場面で使うと、失笑を買うことになる、というのが今日の話題。

自分の心情をわかってもらいたい、確かに相手に届けたいと願うとき自分の行為に付け加える言葉なのだから、幼稚園児の身支度を見守るような心で受けたら良いものではある。
が、時と場合によりけり、環境と立場によりけりだ。
国会で答弁する我が国の首相は、これは安倍晋三のことだが、「します」といえば済むところを早口で何分間も喋り立てる。たったの三文字につけ加える飾りの言葉で高価な国会時間を費消させている。
「真摯にですね」「しっかりと、ですね」たとえば、このような言葉だ。ですね、とつけ加える惨めさ、品のなさは、言葉を発する本人だけは感じていないらしい、繰り返すのだから。
この総理大臣の真似をするのだろうか、閣僚たちが右へ倣えの言葉遣い、これが拡散して社会に行き渡る悲惨さ。ではなくて世の中の風潮に染まってということか。
貧弱な実態を、これでもかと飾り立てている有様に腹を立てるのが虚しい。反発する空気が感じられない故に虚しい。なんだ、中身がないじゃないか。という声が聞こえないのは、聞き手の側も似たものなのだろうか。

最近、「全身全霊を持って」という飾り言葉が散見されるようになった。これは昨夏、テレビで天皇が所信を述べた時に含まれていたもので、この影響があって使う人が増えたのかもしれない。
これは、なかなか迫力のある強い表現だけれど、天皇が自分自身に関わるところにかぶせる言葉だろうか、と私は反発する気持ちがある。受ける側が、陛下は全身全霊を持って事に当たられ云々、と表現するならわかるが、苟も国の象徴と自他共に認める椅子に座る人物が自分自身についてかぶせる言葉ではないのではないか。なぜかというに、命の限り、全身全霊を持って事にあたるのが当然である椅子に座っているのだから言うまでもないことであろう。
むしろ、淡々と述べるにとどめる方が、どれほど大きく輝くことだろう。これではまるで一般人の言い方だ。威をはらう空気が、どこにもない。こんなならありやなしやのあけぼのの月。
さらに脇道に入るが、皇太子が誕生日のインタビューに応じている中で、昨夏の天皇のお気持ち表明を「テレビで拝見しました」と話していた。なんだ、眺めていたのか、と私は受け取った。拝聴いたしましたと表現すべきではないのか。それとも文字通り見ていただけだったのかしら。似た者父子だ。

使い古して捨てないで

詩人たちは両腕を空にあげて神の声を受けようとし、授けられた種を一行目に記す。詩を読む人たちはその言葉を胸に抱く。
大事なものを表す言葉は、大切に扱われる資格があります。あはは。それを言ったらおしまいだ、大切でない言葉なんか、あるはずもない。
悲しい、怒っている、そんな胸の内を表す言葉が、傷ついているものには、どうしても必要だ。たとえそれの見かけが汚い罵りであったとしても。
ただそれは、どうしても必要な時に、自分自身でつかみ取った言葉だからこそ、伝わる力を持つ。
巷に氾濫する「やさしさ」という言葉。勇気を、元気を、希望を「もらった」という言い方。「大切ないのち」の連発。
コンビニの棚に手を伸ばして選び取ったかのような、安易で便利な量産品。
自分で思いついたのではない、棚に並んでいる今時のグッズだから使っておこうという態度。選んだ言葉ではない、利用する言葉。
先日来の豪雨で各地に被害が出た時のこと、注意を促す報道をしている言葉を聞いた時に違和感を覚えた。
命を守ってください、と放送していた。繰り返していたので、その都度私は苛立たしい怒りを覚えた。
やまと言葉には、身を守るという言い方があるのです。

私のジム通い

同年輩の友人たちとの付き合いは、電話が多くなった。若い人と違ってメールを好まない。かといって手紙を書くのも結構大変だ。書いて切手を貼りポストに投函する。やはり固定電話が一番良いということになる。なぜなら耳が遠くても音量を調節できるからだ。
最近は家庭の各種掃除などを気楽に業者に頼めるようになった。電話一本でプロが来てくれてプロの手際で綺麗にしてくれる。週一回で手間いらずよ、それに汚すこともありませんからね、と好評だ。そんな掃除の話題がよく出る。
私はどこどこに頼んでるけど、あなたは? と尋ねられることもよくある。ということは週に一回、掃除をしてもらっている人が増えているのかもしれない。自分でやってるわ、と私の返事はいつも同じだから、どの業者が良いか、という次の話題には入れない。
忙しい、時間が足りないと言いながら、なぜ私は掃除をするのだろう。風呂の掃除、トイレの掃除、部屋の掃除、ときどき天井を綺麗にしたり、網戸を綺麗にしたり、ガラスを磨いたりもある。今日はゴミバケツを水洗いして、植木鉢の受け皿を洗った。実は、私は運動を好まない。あらゆるスポーツと縁がない。走るのも跳ぶのも苦手だし、体操も好きではない。踊るなど、夢の中でもしたことがない。という次第なので、
もし、掃除洗濯、あれこれを他者に依頼してしまったら、どうなるでしょう! 私は石ころのようにじっと動かないに違いありません。体操の代わりと思って、家事全般をやり続けようという〜〜。
ジムに行けと言われても、絶対行かないから、「やむなく掃除」がジムです。

日本列島丸ごと汚染

戦災を記憶する立場から、改めてフクイチに言いたい、「日本列島丸ごと汚染」をしてはいけない。

先日、東京の生活道路を歩いていたとき、二台のトラックのために道を避けた。この他県ナンバーの大型トラックは正規の営業車で、フロントグラスに「汚染土」と記したカードを出していた。
残土ではない、汚染土。これは放射能に汚染された土で、一定の基準値以下の汚染土を日本各地の道路工事などに使用しているものである。
基準値は、どのような根拠をもとに決めたにせよ、その時々の都合で数値を動かす以上、存在しないと考えたほうが良い。

このことは今般注目されている「共謀罪」についても言えることだ。
一般人には関係ないと強く主張しているが、コイツを捕まえようと狙った時は、一般人という枠からソイツを外せば良いのだ。あなたは一般人とは認められません。この一言で、自由自在にターゲットにできるのだ。理屈と米粒はどこにでもつく。

さて、被爆地から水漏れ水栓のようにダラダラと運び出し、日本全国の土に染み込ませてゆく方針は、最終処理場を作らずに済む、便利で目立たないやり方だと言われている。
この判断と決定、実行までの段階に、個人が関与しているのだろうか。組織という怪物が動かしているのではないか。
結果、福島の汚染地域は希釈され、範囲は限りなく縮小され、復興という元気の良い、明るい声の後押しで過去に押しやられてゆくのではないか。

一方、日本人の癌罹病率が上がっている、という報道、他方、癌治療研究の優秀さと進歩状況の報道がなされて、誰がいつ、癌にかかってもおかしくはないのだという常識化と、たとえ癌にかかったとしても、もう怖くない、治るんだという明るい希望を、抱き合わせに大衆に浸透させてゆく。
これも特定個人の言動行動によってではない、組織の力の企みだろう。

組織という怪物。鵺のような組織。
これは、ヒトが自然から授かった道具で、ハチ、アリも授かっている。この道具なしに蜂の巣は作れないし、巨大なアリ塚も築けない。
多数生まれて役割を分担したそれぞれが実によく働く。その一つに、お前、何をしでかした? と詰問してみたところで埒はあかない。
ヒトは今、組織からにじみ出る毒素によって、自滅する道を歩き始めている。

我慢が大切だ。言い換えれば、待つ力を蓄えることだ。
欲しい、どうしても欲しい。原子力を使いたい。
だったら、最終的に処理ができる力を持つまでは使用しない、このガマンが必要だ。
これは世界中の全ての生き物のためだけではない、地球丸ごとを大切にするために、どうあっても堪えなければならない一線だと思う。日本だけの問題ではない、世界中のことだ。

今現在、しのびやかに進行している汚染土の拡散は、日本全体にフクイチの大事故以上のダメージを与える。これが現在進行形の事実だということを、自分自身のこととして考えてみてほしい。
汚染地域は、遮断、隔絶すべきだ。除染は無意味で、除染が必要とされる地域からは逃げ出してほしい。
故郷は毒された。たとえ戻ったとしてもそこは、以前と同じ笑顔で微笑むだろうが毒を持つ怪物なのだ。気の毒だが諦めて欲しい。
この汚染地域で代々、幸せに暮らしてきた人々に、新しい故郷の種を手渡すのは、日本のすべての人たちの責務だ。
助け救おうという心というものを、組織は持っていない。知らないのだ、そのようなものの存在を。組織は効率、経済に敏感だが、血が流れたとしても、地に染み入り消え、忘れることができるものと認識している。
組織には、人を救う能力も機能もない。
これは戦災に遭ったから、事実として伝えることができることだ。
一粒ずつの私たち。個々の心から生まれる小さな愛の粒を、私は信じている、私はまだ、信じている。ここにだけ、暖かなものがあると信じている。

誰に語るのか

前回のオバマ大統領演説の続き。
オバマ大統領は、広島を訪れ演説をした。彼は広島の地から世界へ向けて話した。我が国の総理大臣が、サミットを含めての催しの中で発した言葉は、まったく対照的だった。彼は自分が自分のために握っている政権のために発言した。恥ずかしい事であった。

個籍のすすめ

私は小誌「夢類」の創刊号で述べたとおり、日本国の用いている戸籍制度に反対です。繰り返しになりますが、個籍にしたほうが率直で素直です。
創刊号では、この点、犬の血統書のほうが、より優れていると書きました。今でも、この考えは変わりません。
イワシ共は言う、じゃあ、墓はどうなるんだ? じゃあ、浮気で生まれたアイツは、どうなるんだ? 一家団欒はどうするんだ?

だいたい、戸籍を作るについては必要があったから国が作ったのでした。なんでも中国の真似をしていたころ、あちらの制度を真似したのです。
奈良の大仏さんをつくる大工事の時には、すでに戸籍制度が整っていました。戸籍を作り、家々を数軒まとめて相互監視させて、生活に縛りを掛けました。租庸調の税の徴収のためです。働かない貴族たちが、上品で贅沢な暮らしを続ける為には費用がかかります。北の地方を攻める軍事費は、バカになりません。
民の竈から煙り立つ景色をご覧になった天皇が安心した、不自由なく食べているかと、国民の暮らしをやさしく見守る天皇の御心は、かくも素晴らしいものだ、とは、国民学校で習った教科書の内容でした。冗談じゃない、ううむ、まだ余裕があるな? もう少し税金を増やしてもよかろう、そう観察したんだな、と今の私は思います。
ところで話を戻すと、大仏さんを作るから各戸から男子を一名づつ出せ、などと命令がくる。一家の働き手を取られてしまったら、残る家族は食うに困るのです。当時は、ウチの夫は、こないだから行方不明になっちゃって、などと言い訳をして、夫は闇に紛れて家を出て、離れた所で稼いでは、家に生活費を入れていた、そんな記録もあります。脱税ですよね。今の世は、脱税をすると重加算税をとられたりして、ひどい目に遭います。
言いたいことは、戸籍は国の利益のために作られたもので、本来、社会生活には百害あって一利無しの代物だと言うことです。
別姓は言うに及ばず、戸籍という化石からして、根こそぎ止めてしまえ、というのが私の主張であります。

夫婦別姓問題

2015年12月16日に「夫婦別姓禁止が合憲か否か」の問題で最高裁の判決がでました。これは国民全部が別姓にしようというのではなく、どちらか選ぶことができるようにしよう、というものです。この問題は、2009年に民主党が公約の一つとして掲げたときから、私は近代化の一歩として期待していました。個人個人の不具合、不自由を主張して変えて欲しいと言う問題ではない、個人を離れて、根本的に個人を尊重するあり方として、ナンセンス、あってはならない、噴飯物の束縛だと考える故です。
判決は、夫婦同姓規定は合憲であるというものでした。
今回の裁判で原告が主張する内容の趣旨は、個人の不自由、不具合の解消を訴える物だったように受け取っていました。ここが私の意見と相反する点です。判決が合憲と出たから、けしからん裁判長だ、あるいは15名中、10名が合憲としたのだから、合憲は正しいのだ、という、賛否両方の意見の人たちがいますが、私の受け取りかたは、裁判で決める問題ではない、訴えの内容に関しては、こういう結論ですよ、という意味ではないかと感じました。訴えの内容のレベルが低かったのです。
今回の裁判で、裁判長が言った言葉、このことは国会で議論して欲しい、ということが、この裁判の一番の眼目であったと思います。ここで違憲ときめつけることが、もしかしてできたかもしれない、しかし、それよりも、国民の心からの意志を尊重しましょう、と、この裁判は言ったように感じています。結果には不満ですが、ここは、もう一息頑張って、深く考えを進めるべきだと、私は思います。
カール・ヤスパースが口を酸っぱくして繰り返し述べていることですが、自説を声高に言いつのるより先に、反対意見を十分に聞く姿勢を保つこと。これがいま、必要とされていると思います。
夫婦別姓を望む意見の人は、夫婦同姓にすることに反対していません。好きな方を選べるようにしましょう、と主張しています。
これに対して、夫婦別姓反対を主張する人は、選ぶことも禁止だ、なにがなんでも同姓にすべきだという意見です。この、不可解な「束縛」を主張する理由を、私は鵜の目鷹の目で探しましたが、なるほど、そういう理由があったのですね、という意見に出会ったことがありません。家族の絆、美しい伝統、そんな言葉がちりばめられてのちに、だめだ、の結論です。思考停止で変化を嫌っている、代々に渡り洗脳されきった自己喪失状態としか思えません。
一方、政権与党は合憲の判決に大満足です。もしも別姓を容認したら、少子化に歯止めがかからない、と危惧するのだという意見もありました。マイナンバー導入まで漕ぎつけたいま、ますます一億総まとめにして、一つ網に押し込めたいときに、選択制であれ、別姓は好ましくない、まとまりをなくすものという認識なのでしょう。このさき、自衛隊員の増強、徴兵制へと進めてゆくに違いありませんからね。現に関連学校が募集人員を増やしているではありませんか。

私は、すっかり立腹して、バカなイワシはまとめて網にかかり、肥やしにされてしまえ! と罵倒しています。
私が怒り心頭、ハンパなく怒っているのは、裁判官ではない、アベもどうでもよろしい、いまの政権が消えても、第二アベが出るだけですから。一人一人の日本国民が、あまりにも自分の目で物事を見ない、自分の頭をつかって考えない、スマホ握りしめて、口当たりの良い食物に群がることしか念頭にない。この、救いようもないイワシ的日本国民に対して絶望的に怒っているというわけです。
続きます。


老後

老後という言葉があります。しばしば聞き、目にするけれど、私にはピンとこない言葉です。「老後」という熟語に続いてつけられる言葉は、たとえば老後の楽しみ・老後の趣味・老後の暮らし・老後の資金・老後の生活費・老後破産……。
たしかに楽しみも趣味もあり、暮らしは生まれた以上死ぬまでついて回るのだし、暮らしにお金が必要なことも以下同文。
私は80歳になったから、冗談にも若いとは思えず、中年だわ、なんて口が曲がっても言えない立派な老人だけれども、「後」ではありません。いま現在生きている、今日この日を、一日懸命に生きているわけで、どこを探しても「後」は見つかりません。私に老後という後はない。常に今でしかありません。
ただ、先はあります。どういう先か、それは次回に語りたいテーマです。老い先について、乞うご期待。

家相

家相というものがある。占いやオカルトとは関係ない。関わりがあるとすれば人相だろうか。人相も家相も、人なり家なりの姿ということになる。
私の友人のひとりが家を新築した。元々住んでいた家を解体、更地として新築したのだ。耐震構造でバリアフリーの最新家屋となった。ところが、これを節目に夫婦から笑顔が消えた。子等の巣立ちをむかえ、老夫婦のために快適に設計された家だから、笑いが止まらないだろうに信じがたいことだ。すでに何年か経つが表情は沈みきりだ。実はこの時、ひそかに家の相が悪いと感じていたのだが、口に出せる事柄ではないし、第一、私の妄想である可能性が限りなく高いのだ。黙っていた。
私は人相を見るように、建物を眺める癖がある。これは人に言える癖ではない。昔、日本長期信用銀行という銀行があった。本社を新築したとき、なんという悪相だ、と感じた。茶室であれ、記念館であれ、良いときは絶賛するが、悪いと感じたときは、ひっそりと黙っている。長銀は、その後無惨な最期を遂げた。
最近になって某氏が、長銀本社の家相が最悪だった、と書いているのを読んだ。具体的な指摘もされていたので、漠然と感じるだけであった私は、とても勉強になった。相はあり、人相と同じだ、と思った。無理や力尽くの変形は最悪なのだった。
無理も見えない、なにもないようだが、都庁の家相は悪い。鈴木都政は、良い事もして頑張ったが、末期、夫人の力が及ぶに至り、無私の姿勢が失われた時点での建築だった。暗い。限りなく暗い。
すぐれた建築家は芸術家であるが故に、思いを込めるほど見えない力に惹かれて進むのではないか。不思議なことである。

一億

私は一億と言われるくらいイヤなことはない。聞いただけでゾッとする。お化けに出会うほうがまだマシだ。
私が一億が嫌いなのは、戦時中の生活に繋がるからだ。戦争中は、一億一心、二言目には一億、一億、お前等は一億の日本人のなかのひとり、ひとりなんだぞ、心を一つにしてお国のために我慢せよ、頑張れ、と言われ続けていた、あの暗黒時代を象徴するひとこと、それが「一億」だからである。当時、私は、本当は一億人はいない、でもおおまかにまとめて一億と言っているんだな、と思っていた。今は、人口は一億人を突破しているけれど、キャッチフレーズとして一億と言っているな、と見ている。
女性には「産めよ、増やせよ」とハッパをかけ、幼少の者には「銃後の少国民」と呼びかけて「欲しがりません、勝つまでは」と噛んで含めるように言い聞かせる人間も一億のなかの何人かであったが、それは国民の中の、ほんのひとつまみの者であり、彼らが国を私物化していた。
先日来、安倍晋三が一億揃って、とか、言葉の端々に一億、一億とくつつけて喋っていたが、今度の改造内閣で「一億総活躍担当」という大臣を作った。
あの、忌まわしい戦争の時は、単に声を上げるだけの事だったが、今度は違う。マイナンバーという代物を作り、国民一人一人に貼り付けるのだ。まさに一億鷲づかみ、が出来る。逃すことはない。
束縛が大嫌いな私が、拒否したとしたらどうなるだろう。納税ができない、選挙ができない、パスポートが取れない、ないないづくしで動きが取れなくなるのではないか。いいですよ、選挙に行きません、税金も納めません、国外へは出ない、と頑張ったとしても、たぶん、死ぬこともできないのではないだろうか。埋葬許可が降りないんですよ、などと言われるのではなかろうか。
こんなぼやきに笑っているあいだは、まだ呑気なものだ。そのうち笑えなくなるだろう。産まれた途端にマイクロチップを埋め込むことが法律で義務づけられて、一世紀のちにはチップの埋め込まれていない人間がいなくなる。
こんな時代が目の先まで忍び寄っていると思いませんか?

アリの巣

庭にアカアリの巣があり、益々世帯が大きくなってきた。狭い庭なので彼らがいる場所はない。思い切って強制撤去に踏み切った。気配を察知して攻撃してきた。3ミリもない小さな身体で無謀にも噛みつきにくる。地中の白い卵は大量で、成虫と同じ3ミリはある大きさ、彼らは、これを安全な場所に避難させようとして運び出しにかかった。ここからが勝負の分かれ目、わたしは卵だけを狙わずに、周辺の泥も大きく取ってポリ袋にそっと移した。さらに右往左往しているアリたちをちり取りに集めてポリ袋に放り込んだ。
初めての試みだったから、これで逃げ出されたら袋の口を縛り、それでもダメだったらさらに大きな袋に入れなければ、と考えてながら見ていたら、なんとアリたちは袋の中に落ち着いており、逃げだそうとはしないのである。右往左往のアリたちは、いままでと変わらぬ姿で並んでいる卵に安心したらしく、周囲の修復にかかっていた。ここが我が家と思っているらしかった。次のゴミ収集の日になったら激変する運命を知るよしもない。
私は考え込んでしまった。人間社会でも、こんなことがあると思う。自分の乗っている地球を実感しない、日本だけを念頭に生きていて世界の出来事に、いまひとつ関心が薄い。小さな島国の日本、その国内のことであっても、自分とは関わりのないニュースとして見つめ驚くばかり。
もちろん、事件事故災害のたびに各人が走り回る必要もないが、出来事を捉え観る視野がポリ袋の内側に留まっているのではないかと思うのだ。
自分が心地よくいる部屋が、いつのまにか大きくすくい取られて、思いもしない方向へ運ばれてゆくようなことが、ありはしないか。もしも、そのような大きなシャベルを扱う者がいたとする、それは何者なのか。

盗作について

先人の業績を学び、それを土台として育ってゆく。人間社会が発達してきたのは、長い時間をかけてバトンタッチが行われてきたからこそで、そのお陰で高層ビルも建ち、人工衛星も造られました。科学技術の世界は際限なく発達するけれど、私は、文学、絵画、音楽などの創作の世界は、賽の河原に似ているように感じられて仕方がありません。
技術屋さんの使う知識も技術も最先端のものを駆使して、際限なく伸びてゆく、これはもう、目を見張るばかりです。一方、文学の話になりますが、古典は常に現在に引き寄せられており、楚辞を知らず、万葉集は国語の時間用、シェークスピアは映画の原作にあったっけ、では、どうしようもないではありませんか。文学に流行はあるにせよ、常に不易といいますか、時を超越した真理が礎に据えられています。
暴論といわれるかもしれないけれど、私が考えるに、右脳、すなわち知覚・感性を司る側の働きを主に使っている人と、左脳、すなわち論理と思考を縦横に駆使することが先に立つ人がいて、それぞれが得意な方面で仕事をし、生活しているのではないかと思います。
『アダムの創造』という、システィーナ礼拝堂の天井に描かれている有名な絵があります。アダムが命を受ける瞬間の絵。アダムが左手の人差し指を神に差し出しています。アダムの右脳を通して流れ入る命です。ミケランジェロは理屈でなしに分かっていたのではないでしょうか、今時代にコンピュータを使って解明しつつある事柄が。
ある対象にハッと胸をつかれ、のけぞる思いをし、感動したところから創作が始まる。いまは21世紀だけれども、これが30、40世紀、もっと経って、作品が山のように累積したとしても、それは工場生産品ではありません。唯一の、かけがえのきかない光る心だろうと思うのです。
盗作について思うことは、パロディや、出典を明らかにして上乗せする形の作品は、盗作ではない、むしろ凄い力がある作家だと思います。そうでなくて、自分の作品として世に送り出す人は、目立ちませんが実は多い。これをする人は、ふと言い訳をするし、思わず自画自賛を繰り返すような気がしています。自分自身の心だけは事実を知っています。
さて話は、ここからなのです。魚を見てみましょう。水面に浮かぶ餌を食べて生きている種類、水底の餌を食べる種類、視線のみならず、口の形まで適応しています。受け口で水面の餌を食べるメダカ。ヒゲで水底を探索して餌を口に入れるナマズは、鼻の下が長いというのか、口は下向きに開きます。
創作者も、自分に備わっているタチで餌を食べるのではないでしょうか。わが身に降りかかったこと、出会ったこと、行ったことなど、それらが心底の琴線に触れたとき、自分の機織り機械にかけます。ときに『夕鶴』の「おつう」のように、我が身の羽を織り機に掛けもします。巧かろうが下手だろうが、思いの丈を表現しようとしてすったもんだします。無名とか貧乏とかは別世界の出来事です。思いの丈が叶えば成仏です。
もう一種類の人種は、はじめっから、根っから、欲望の原点が違っているのではないでしょうか。注意深く興味深く、見つめる目の先には、他人の作品があるのでは? 山や河、道ばたの草には目がゆきません。私は、彼らの目を、物欲しげな目つきだ、と感じます。羨まし気でもあります。私は絵画については知りませんが、文学世界では、そうそうたる名の作家のなかにも、いくらでもいますものね!
つまり、どの世界にも、メダカとナマズがいるということで、メダカは、頼まれたってナマズになれないし、ナマズだって、メダカになれはしない。同じ水槽内で暮らしていたとしても、根本的に、完全に異種です。

信、ふたたび

信は、人と言によって成り立つ。元来、言は神様に誓う語です。言葉を用いて生きる人間にとって、これほど重要なことはありません。これを崩したら人でなしです。誓うことと同じ重さを持っているのですから。誓うことで発言に鍵がかかり、発した方も受けた方も、これを信ずるのです。
あのように言ったが、あれは言い過ぎだったとか、あの時は、はずみで言ったんだ、とか私は口にしたことがありません。高校生のときに、偶々所在なく並んでいた両親に向かい、一度言ったことは何度でも言う、と宣言して以来、一貫しています。
しかし、このような姿勢は良し悪しです。私が本気で「私は、このように致します」と書いたり発言していることを受け取りながらも信ずることなく、結果として無視した態度であしらわれた場合、実に虚しいものを感じます。それが文筆に携わる者である場合は絶望感で圧死しそうになりますが、アメーバ的あいまいな言動で生きることこそ処世術と心得て、我こそ賢く生きているという自覚を持っている大半の人との付き合いでは、黙して堪えないと世間が狭くなります。
では大半の人々は、何に信を置くのでしょうか。不信の世界に生きているのでしょうか。それは我慢ならないし、できないでしょう。当然代替物があるわけで、それゆえに経済も発展するのではないでしょうか。

今年のテーマ文字は、信。毎年一文字を持って暮らしている。
子貢が孔子に政治の法を問うた。孔子が答えて、食物を十分に、軍備を十分に、人民に信用させることだ。このうち最後まで守るべきは信。次に食、軍備の順だと言った。国民が施政者を信ずるということは、想像を絶する困難さがあるが、国にとってこれほど大きな力はない。信ずれば力を発する。互いが信に応える。基盤だと思う。
日頃の暮らしのなかでも、相手が信をどのように捉えているかは、言葉を通さずに分かるものだ。相手を信じ、自分も信じて貰えるために必要なものはなんだろう? 自分自身を信じていない人は、他者を信ずることができないものだ。

あの時と同じか?

安全保障法制関連法案、いわゆる安保法案の採決が行われようとしている。瀬戸内寂聴さんは、戦争前夜のときとそっくり。黙っていられないと声を上げられた。あのころを身体で知っている世代はいま、80代の半ば以上である。総理大臣も並み居る閣僚も、あの頃を知らないのである。知らない空襲、経験したこともない戦争である。もうすぐ80才の私だって、知っているとは言えやしない。子どもの背丈から見上げていた戦争、空襲、そして戦争前夜だったのだ。そのころ以来、私は精神を呪縛されて、容易なことでは呪縛から解き放たれることなく今日まできた。もっとも恐ろしいのは言論統制だった。そんなことを言うと憲兵が。そんなことを言ったら特高が。この呪縛は、ほとんど解けることがないように感じられてきたが、いま、強行採決を目前にして、有名無名の多数の日本人が、堂々と発言している声を聞いて、私は深く感動している。国民の側は、いつのまにか、そっくりじゃなくなっていた。
そっくりなのは、安倍首相とその周辺の政治家たちだ。現代に、現実に呼吸しているのか? と尋ねたくなるくらいに、大東亜戦争を起こした政治家と軍部そっくりだ。変わらない強引さと、突き進みたい欲望の強さを露わにしている。時代は進んでゆく。もしも日本に徴兵制を持ち込もうとしても、あっけらかんと断る一般人が続出するだろう。嫌なものはイヤだ、と大声で言える国民が育ってきている。勇気と希望を持って発言しよう。日本の将来を救うのは、一般人だ。

人相考

日記で人相のことを書いたので、人相について考えてみた。私は、ほとんどお化粧をしなくなった。部分的白髪になったけれど手を加えていない。40台の頃までは髪を緑色にして緑の黒髪だ、とふざけていたが、ああいうことは一生、うつつを抜かすほどのものではない。
それじゃあ、まったく「かまわない」のかというと、そんなことはなくて、真剣にお洒落になってきた。ただし「心のお化粧」というおしゃれ。
 心の中をきれいにすると、シワシワも、よれよれも、会って話すうちに見えなくなってゆく。そういう人に憧れている。なりたいと思う。
 以下の話は学者の受け売りだが、人相は心が作るのだそうだ。鏡を見ていい顔を作ってみても、自分の顔にはならないという。人の顔には多くの筋肉があり、そのほとんどが不随意筋で、自分が動かそうとして動くのは、せいぜい目、口、舌くらいだそうだ。じゃあ、不随意筋は、どうやって動いているかというと感情で動き、これが表情を作り出している。口には出さないけれど、年中思っている、思っていることは誰にも知られはしないが、思うたびに顔の不随意筋が収縮と弛緩を繰り返す。筋肉は使えば使うほど発達するから、その思いが人相として定着してゆくというのだ。おおらかな人は視線を遠くに放つから明るい表情が顔にくっつくし、身近かな誰彼と自分を引き比べて、自分の方が一寸ばかり優れていると自画自賛をして、相手を見下す気持ちになるタチの人は、せせこましい、好かれない人相になるものだ。これこそ自業自得というもので、顔を洗ったって、なんとかリンクルを塗りたくったって、どうにもならない。

今の日本は新しい。前と違う。

識者という名の妙な人種は誰が作り出したのか知らないが、彼らがしたり顔に言う、今の日本は、戦争を始める前の日本の空気とそっくりだ。それは分からんでもないが、あの時代は反対意見を発言できなかった。特高が怖かったことが一つ、もう一つは、一般の人に発言の場がなかったことだ。せいぜい、自宅のちゃぶ台の前で、つぶやくだけだった。安倍首相と、彼を囲む人々は、自衛隊が参戦できるようにしたいし、言論弾圧・統制もしたいし、国民からもっと金を搾り取っていいように使いたい、そういう魂胆は、たしかに戦争前夜と同じだろう。現に、物騒な方向に進みつつあって、報道なんか、文句を言われる前に大人しくなって言いたいことも言わない有様だ。しかし、今の日本は前とは違う。普通の人々が誰かの意見に反対し、あるいは賛成し、自分の意見を公表する。ツイッターだか、ブログだか知らないが、とにかく広場に立って大声を上げるよりも、もっと効果がある方法で、声を上げることができるのだ。この点が前とは違う。実は自分も、そう思っていたんだ、と今時代につぶやく者は、卑怯者か、意気地なしだ。私も古賀茂明氏の意見に賛成なので、I AM NOT ABE.と唱和します。日本国民だからと言って、安倍と同じ意見と思われたくない。

歴史を学ぶ

私は、石原慎太郎が嫌いで、ダイッ嫌いだ。何が嫌いと言って、彼の女性に関する発言のすべてが唾棄すべき暴言である故である。けれども、今回の大事件、二人の日本人がISISに殺されるに至った何日かにわたる緊張の経過の中で、石原慎太郎の一文が産経新聞(2105.1.23)に出た。タイトルは「イスラムテロに絡む歴史の背景」。主張するところの土台は、中世期以後の歴史の本流が、キリスト教圏の白人による、有色人種の土地の一方的な植民地化と収奪による白人の繁栄だった、という点にある。歴史を見よ、と言う。私は、これに大賛成だ。あのゴロツキ共が述べたてたなかに十字軍という一語がある。見過ごしてはならないことだ。歴史は、現在を如何に生きるべきかを学ぶためにある。二次元ではなく三次元四次元の座標軸の中に日本という国を置いて眺めてみたい。
そうすれば、今回、いよいよ川向こうの火事ではなくなった、日本だってテロにやられる可能性が出てきた、なんて騒がなくて済むのだ。これは慎太郎が言ったのではない、私が言っていることです。慎太郎は、続けてアメリカを罵倒し、村山談話くそ喰らえ的なことを書いている。この部分も、決して無視すべき内容ではなく、むしろ村山談話は、歴史を土台に置かずに発言した皮相的な舌先、と見る故に、村山談話に限って慎太郎を支持しますが、それはさておきです。
イスラムに対して日本は、決してキリスト教圏の国と組んではいけなかった。一本立ちの姿を見せるべきだった。日本は、キリスト教国でもなく、イスラム教でもありません、と表明すべきだった。地球上でただひとつの神道の国です、という立ち位置を示すべきだった。殺されて悲しみ、怒るのは、相手が望む反応を与えているに過ぎない。許さない、なんて言うべきではなかった。相手の思う壺にはまっただけだ、と壷猫が嗤う。
殺されないように努力の限りを尽くし、それでも殺されてしまったならば、内々で如何に嘆き苦しもうと、相手には平然とし、昂然と頭をあげているだろう、私だったら。で、言いたい。
「お前らが、お前らの土地で流した日本人の血は、実はいま、その一滴一滴が生きているのだ。お前らの地に染み入り、天の太陽と合体し、お前らに、これから報復を始めるだろう。日本は神道の国だ。日本人は、世界中の誰であれ、同じようにつきあってゆくつもりだ。しかし。お前らによって殺された無垢なる日本人の血は、太陽の力を受け、お前らの地に染み入り、神道の力を持って永遠に報復を続けるだろう」。
さあ、日本の首相は何を言うか、と世界中が聞き耳を立てている、視聴率からいったらダイヤモンドタイムであった。日本の姿勢のみならず、首相個人の人格も、人間性も表現できたはずだ。どうして、あれほど無にしたのかしら。

もしかして妄想か

だいたい、私は白昼夢+妄想人間だから、まともな人は笑って聞き流してくれる。聞き流されても尽きないのが、わが戯言である。
さて今日は、中国が何故焚書坑儒をしたか、改めて考えてみた。書物を焼き捨てるということは、いかに書物に価値を置いていたかの証明である。中国人は、数千年の昔より、書に記されたことを真実、事実と認定してきたし、今だって同じだ。中国が共産主義国家に変貌したとき、私は驚愕したが、別に驚くことはなかったのだ。主義も方便であり、肝心な中華思想は揺るぎない。こんな中国を唖然として見ていたが、実は日本国も千年の昔と本質は同じなんだ、と気がついた。これが私の妄想部分である。
中国のように数千年と言えないところが情けない、たったの千年だ。千年昔も天皇がいたが、当時の天皇と今の天皇も似たり寄ったりである。つまり周囲に必要と感じる面々がいるから消えない、それだけのことだ。たまに誤解する天皇がいて騒動を起こしたが、それは文字通り騒動でしかなかったと思わないか。信長秀吉の時代にしても、天下を取ることが彼らの夢であり欲望だった。御維新だの、民主主義国家だの題目を並べたって、地震が起きようが津波が来ようが、天下取りの精神は変わらないのが、日本の頭たちだ。ひょっとして、まだ花押、やってるんじゃないの? 何年か前に、某大臣がにこにこして、考案した新”花押”を記している映像を見ましたけど。繰り返しになるが、自分の満足のために天下を取りたいのだ。決して国民のために働きたいのではない。安倍さんは、自分の家名を重んじているのだし、麻生さんも同じだ。麻生さんが「しもじもの皆さん!」と呼びかけて演説を始めたというのは本音だったのだ。こういう意識で国の舵取りをやっている。靖国に参拝がどうこう言っているけれど、心の底から手を合わせているのは先祖代々の墓だけなんじゃないか。平和だ、国民だ、と称えるのはお題目にすぎない。選挙だ、民主主義だと「しもじも」は真面目な顔をして言うが、民主主義があるなんて思っているのだろうか。あ、行かないでください、お茶いかが。

天袋

不要品を減らすことに熱中、ではないけれど取り組んでいる。いま狙っているのが天袋。すべての天袋を空にする。これを目指している。理由は、高齢になると踏み台に乗り、物を出し入れすることが危険だからだ。空にしておけば問題ない。お勝手の吊り戸棚も、上の段は使わないことにした。

孤立させる

世界中がキナ臭い。去年、一昨年ごろから囁かれていることだ。それが姿を現しそうな気配で、思わず緊張が高まる。USAのオバマ大統領がウクライナ事件に関して、ロシアを孤立させると言ったと伝えられた。もし、これこれしかじかの事をしたら、孤立させるという手段に出ますよ、という意味合いだから、すぐにどうこうということではない。選択肢のひとつとしての発言だろう。さらに、日本語に訳すときに、だいぶニュアンスが変化していることだろう。だからこれに対して意見を言う気持ちにはなれない。それはそうとして、どれほどワルモンであろうと、ワル国であろうと、経済封鎖……エネルギー、食糧封鎖、情報封鎖などをして孤立させてはならないと思う。どれほど苦労でも、長引こうとも、根気よく声をかけ続けることを選ぶべきだと思う。個人対個人も同じであり、複数多数の人が、一人を孤立させる場合はもちろんのこと、逆に、ひとり閉じこもり外部全般に対して反応しない態度もまた、本質的に同じ手段を取っていると言える。これらはきわめて非人間的な行為と思う。
人間は、神様からであれ、自然からであれ、とにかく言葉と指先の器用さを授かったのだ。人間以外にこれほど言語を操れる生き物がいるだろうか。人間以外に、これほど互いに手をつなぐことができる生き物がいるだろうか。

オレオレ詐欺

いや。ダメ。これが一番言いにくい言葉だ、と書いていて思いだしたのが、おれおれ詐欺、いまは母さん助けて詐欺とも言うらしい。最近、警察では、実の息子から、実の母親に、おれだけどと電話をかけてもらい、本番に備えてリハーサルをすることを勧め始めたという。これは、我が息子が私にかけてきたふざけ電話そのものではないか、と驚いたり笑ったりだった。しかし、こんなリハーサルが出来るような関係にある親子だったら、詐欺に引っかからないのではないかしら、とも思った。
それはともかく、実の息子からであれ、ん万円いるんだけど、と言われたとき、「いや」「ダメ」が言えないことが問題だと思う。もし私が何万円とか言われたら、即座にダメと言う。その理由は、困難を金で解決しようとすることを断るからである。だから迷うはずがない。逆に言うと、詐欺に遭う人たちは、困難を金の力で解決してきた人たちなのだろうと思うのだ。

認知症について

長い間、ひとり胸の底で感じながら考えていることである。こんな名前がつけられる遙か以前、私が五、六歳のころから母と祖母の会話を聞きながら感じつつあったことである。祖母が親戚の誰かの所へ見舞いに行き、寝ている婆にミカンをあげた。婆は泣き、嫁がなにも食べさせてくれぬと、ミカンを食べ尽くし、さらに泣き続けた、と帰宅して母に話すのだ。泣き中気でしょうか、という結論になる。そういうもんだよ、怒り中気もあるし、と話し合う。私の曾祖母が米寿を過ぎたころ、母が見舞いに行ったら、母の名前を母の母の名と取り違えて喜んだ、お前、生きていたんだねと、しがみつかれたと、これも帰宅して姑に話す。そういうもんだよ、と穏やかな頷き合いが生まれていた。
いま、認知症という名の箱の中に押し込められてゆく人々は、ほんのちょっと前までは、そういうもんだよ、と穏やかに受け入れられていたのだ。特別の箱の中に入れられることはなかった。脳みそのどこの部分が真っ赤になっていると、そこが活発に働いているのだ、と画像を見せられると、そういうもんなんだ? と教えられ、知識として記憶する。しかし、これは納得とは違う。
私自身について考えてみると、物忘れが頻繁に起こっていることを自覚している。昨日の雪のあと、凍った道路がこわくて、今朝のゴミ捨てを止めた。おりしもソチでオリンピックの真っ最中だが、あんなモーグルなどやったら、一つ目のコブで転倒、骨がバラバラだ。体力、脳力、現時点での判断が必要なのだ。現時点での判断を的確に行うのが犬であり、猫である。彼らと共に暮らすと、学ぶ事が多い。千早もメロディも見事だった。
私は、周囲の人たちの対応によって、肉体の一部である脳の老化は、だいぶ違ってくるのではないか、と感じている。自分自身でおのれの尻を叩き鼓舞するのも効き目があるが、周囲の力がバカにならないと思う。親切の余りに先回りして、荷物を持つ、柔らかいモノを食べさせる、雑用はしてあげる、さらに判断し、決定する役割を取り上げてしまう。見計らいのモノを提供する。温泉に連れて行けば大喜びで、それ以上のなにかを思いつこうとせず、満足する年下の親切者たち。シニアホームのケアが、これである。至れり尽くせりにすることが最上であると信じている。これは、認知症へと誘っているようなものだと、私は感じている。
至れり尽くせり型のほかに、きわめて辛い境遇にあり、それが精神的なもので傍目に見えない場合でも、耐えられないばあいに、人は眠りたくなり、休みたくなり、これに孤独が加わると認知症へと誘われてゆく。この世の苦しみから逃れるために。医者は、こんなばかげたことを言わないが、私は、こんなことってありますよ、と言いたい。この年寄りは、もう我が家には不要なんだ、そんな思いが家族のなかに生まれ、ときに理性で打ち消しても、存在するような場合、対象となる本人の感覚は、想像を超えた鋭敏さで捉えている。そして、そんなことを言われたって死ねないんですもの、と悲痛な叫びをあげるのだ、心の中だけで。そうして生きながら眠りについて行く。
ほんのちょっと、人を取り違えたり、ありもしないモノが見えたり、聞こえたりしたとしても、打ち身が治るように、腹下しが治るように、回復するのではないかしら。私は、あなたを必要としています、こんな声が届いたら、振り向いて戻ってきてくれる人たちが、箱の中にいるような気がする。もっとも打撃を受けるのは、判断し、決定することを取り上げられることではないか、とも思うのだ。

悪質な多数決

自公連立政権というのは、悪質な多数決政権だ。こういうコバンイタダキというかコウモリというか、力のある方にくっついて、多数決の時に恩を着せる党は唾棄すべき汚い集団だと思う。民主主義を冒涜している。政治家は百も承知で、あれは力のある方に付く党ですから、と割り切っている。割り切られたらたまらない。この党が基盤とする善男善女に勉強して貰い、「上の方」の言うことよりも自分自身の頭で考え、感じて判断して貰うしかないが、カルトに吸収される脳は、もともと吸収力に優れ、自発脳ではない。

靖国神社

安倍総理大臣は、自分が総理大臣になった日を記念して、誕生日祝いのつもりなのだろう、去年のこの日に総理になりました、と前説をして、公の形を取って靖国神社を参拝した。あちこちから批判された時点で、戦争しない誓いを云々と後付けしたが、最初に誕生日祝いなんだ、と言ってしまっているのだから噴飯物だ。文字が読めなかったり、できあいの言葉しか操ることが出来ない安倍総理大臣の様子を観察して思うのだが、この人は貧乏だ。人間が貧だ、と思う。さらに感情を先に立てて行動する。これは小人である。自分では経済を上向きにして、経済優先の政策だと見せているつもりだろうが、実は憲法改正、国防軍を作る、というところに狙いを定めている。これも個人感情であり、日本という国の将来を見通し、熟慮を重ねた上での政策ではない。これも見破られていることに気づいているのだろうか。
それはさておき靖国神社は、日本の軍人、軍属などを祀っている勅祭社で、はじめは東京招魂社という名だったのが、靖国神社と変えられてしまった。さらに、A級戦犯の人たちも祀ってしまった。ずるずると変容してきているのではないか。幕末から明治維新以後の軍人が祀られているが、各人の墓所は別にある。魂だけを祀っている。私は、中国や韓国が容嘴するのは無礼と思うが、心穏やかではいられない心情はわかる。
私は、こんな社を作らなければよかったのに、と思っている。明治維新を立派なことと称揚する歴史観を批判したくなる、あのころの人たちは、バカなこともたくさんした。この社もそのひとつで、バカなヤツが思いついたのだろう。何をもってバカというか、というと、人がいじってはいけない物に手を出したからバカだと思っている。日本の社は、縁起を持ってはいても、煙が集まり、無から有がかもし出される気配で産まれたのだ。だからご神体が山だったり、大木だったり、石ひとつ、巌ひとつだったりする。農耕の人々が、稔りを祈り、死者を悼む、必死の暮らしの心の拠り所として社が生きている。現世に生きている誰彼の頭から出た、単なる思いつきで、ここに魂を招きましょう、と作るものであってはならないのだ、と私は考えている。つまり、人為的にしてはいけない世界なのだ。そこに手を出してしまい、結果として、拝め、拝めと拝まされたのが私の世代である。拝む、祈るが重なると、そこに霊魂が集まる。こうして一片のお骨もない靖国に、人の気が集まってしまっているのが現状なんだろう。もともとが、お上が拝めと命令する社として作ったのだから、政治的な色合いが濃い、どころか政治的な社といえる。だから政治家たちが、あーだ、こーだ、と言いながら参拝したがるのだ。いま活動している政治家たちの親族の、どれほどが靖国に祀られているのだろう? ほとんどの戦死者は、農村、山村、漁村の若者ではないか? 私は怒り噴出である。日本の神様は、さっぱりしている性質だから、ここで各人、各墓所にお戻り頂きたい、と大祭礼を催し、お開きにしたらよい。これが私の主張です。

依存ということ

依存ということについても考えることがあります。たとえば、車を運転している。後ろから煽ってくる車がいる。少し早く走ると、もっと走れと迫る。この場合、追ってくる車の方が依存している。見かけは、おっかなそうで、強そうで、追われる側は弱い立場と見えるけれど反対です。ハラスメントという言葉がさかんに使われて、なんとかハラスメント、なになにハラ、と言う具合に濫用されているけれど、これも車の動きと似ていて、強そうで、正しく見えて、立派な感じの責める側が、実は相手に依存しているんだと思う。つまり、相手の変化が、自分にとって必要なのであり、自分が変化することはしないし、できない。車でも、ほんとうに早く走りたいのであれば、前車に要求してその尻について走るよりも、追い抜いて行けば済むことです。いかなる理由付けをしようとも、道徳や倫理をふりかざそうとも、相手に変化を求める一方、自分はじっとして動かない場合、依存症を疑わなければなりません。とくに、正義、道徳を振りかざされると、それを主張している人間を見なくなり、正義、道徳の内容に意識が集中してしまう。すると、まことにもっともだ、と考えるほかはなく、否定するどころか従おうと努力する。しかし、これは蟻地獄のようなもので、脱出はむずかしい、破滅への道です。いじめの現象も、そのなかのあるケースについては、こうした依存する側がいじめているのだと思います。依存する性質は、いわば蔓草のようなもので、他者に絡んでいないと生きていられない、他者を必要とする種類ですから、早い内に見分けて遠ざかることが肝要です。
しかし。国民は、その国から容易なことには脱出できません。結論として置きたいことは、政治家という人種は、依存症だ、ということです。

DNAというけれど

論理的な思考を進める能力がないというか、そのための材料の持ち合わせがないので、単なる妄想というしかないのだが、人間について思うことがある。樹上生活だったヒトの祖先が地に降り立った。これだけの推測でも、ある学者は、勇気ある種が地に立った、と考え、ある学者は、弱い集団が追われて、やむなく地におりた、とし、別の学者は気候変動で樹木が枯れてやむなく地上生活を強いられた、とする。要するに確定していないのだ。ここに隙間があり、私の妄想が入り込めるというわけです。
犬と猫の祖先は同じひとつの動物だったという。枝分かれして犬と猫に進んでいった。ヒトも、枝分かれしたのではなかろうか。体形のことではなく、性質の枝分かれが生じたのではないか、というのが私の推論です。群れになって生活してゆく犬的種と、単独生活を好む猫的種に分かれた、といえないだろうか。多くの人は群れることを好み、群れの中で生きる事に抵抗がない。安心もする。放れ駒、一匹狼といわれるように単独で動く人は、群れることが下手だし苦痛なのだろう。一人でいて落ち着くし、寂しいわけではない。これは教育でも環境でもなく、持って生まれた、それこそDNAのようなものではないか。これを、一斉に教育して、同じようにさせようとしても、無理なんだと考えます。

老人ホーム

老人ホームのダイレクトメールが何通も来た。お墓のCM電話も受けるが、これには関心がない。老人ホームの豪華なパンフは楽しんで眺める。リゾートホテルみたいだなぁ。いや、実際、人生のリゾートホテルと言えるかもしれない。後ろ盾に病院がついており、3度の食事はリクエストするだけで欲しいものが出てくるところもある。仲良しの友達が都内新築のホームに入ったので、始終電話しておしゃべり遊びをしている。私は言う、台風たいへんなの。メダカが流れちゃうの心配。返事は、いいわねえ〜。秋の虫が鳴きだした! と私。いいわねえ、聞こえるのね? あ。聞こえないんだ? 何も聞こえないわ。そうか、エレベーターで上の方に上がった部屋なんだわ。当たり前のことを、何気なく喋っても、いいわねえ、という声が返ってくる。つい、この間までは、ほんとよねえ、と言い合っていたのだ。なにが変わったのかしら。
私は、大きなことを一つ、見つけた。それは、どんな高級ホームにもないものだ。ホームから生まれて巣立ってゆく命、これがひとつもない。当たり前。事実。ホームから静かに立ち去る命は、あの世へ消えてゆくのだ。それは、長かろうと短かろうと、いずれ必ず我が身にやってくる定めであると、入所者は納得してはいる。
泥棒の心配をし、火の用心をし、台風にうろたえ、ヤダヤダと文句たらたらで暮らす俗世には、さようならがお目出度うの場合がたくさんある。卒業。転勤。結婚して引っ越し。ホームに育つ命を作って欲しいと切に願う。メダカ飼ったらタマゴ産んで、子メダカが育ち、目が離せない。小さな命の躍動は素晴らしい。タニシだっていい。タニシは単身でジャンジャン子タニシを産むから景気が良い。
繰り返すことになるが、人は死ぬ一方の世界に閉じ込められたら、その時点で死んだも同然ではないか。いかなる悪行を積んだとしても、死刑囚となった瞬間に、死んだも同然なのではないか? しかし、死刑囚には、まだ道が残されている、脱獄という道が。ホームから脱走者がでるだろうか。生きる者らには、生も死も必要だと思う。

オリンピック その2

オリンピックという世界を一つにするスポーツの大祭典は素晴らしい。前の東京の時は入場式を従妹と見に行った。従妹の父、私の叔父が入場券をくれたのだった。初めて見る見知らぬ国々の人たち。一堂に会した世界の国々の人々を見た、はじめてのことだった。世界には、こんなに多種多様な人たちがいる。その姿を目の前に見たことが、印象につよく残った。駆けっこをしようが、走ろうが、球を追いかけようが、それは精一杯やったらよい。今回の東京オリンピック開催決定で思ったことは、東京は辞退すべきだったのに、という思いである。一度、経験させて貰ったのだ。まだ開催していない国があるならば、そして未経験の国が希望しているならば、まず譲るべきだと思った。やりかたが下手だってかまわないじゃないか。それより、経済発展の呼び水にしようとか、自国の利益ばかりに目を向けて喜ぶのは、私にはできません。
大喜びをしている人たちに水を差すようなことは言いたくないし、私だって、7年後に生きていたら、喜んでテレビを見ると思う。でも、やっぱり辞退した方がよかった。

オリンピック

昨日の日記で私は、東京にオリンピックを招致することに反対したが、いまも変わらない。安倍晋三首相は、国際オリンピック委員会総会で、東京が放射能汚染に関して大丈夫だと主張する科学的根拠はなにか、という質問に答えて、状況はコントロールされている。海洋に流出した汚染水もブロックされている。東京は安全だ、と明言した。この答えを聞いて黙る方もいい加減だが、言い放った日本の首相には、呆れてモノが言えない。疑問視されている当事者が、自分の事を如何に弁護しても言い訳にしかならない。この場合ドイツなど現場を検証している第三者の出したデータを提示して客観的な判断材料を見せることしか、納得する答えはないはずだ。しかも、いったいどれほどの人々が、福島第一原発事故が完全にコントロールされていると判断しているだろう。タンクの継ぎ目から漏れた云々の事故についても、あれこそ偽装であり、事実は地下水脈に流下しているのだ、という噂もある。もしコントロールされているならば、たしかな根拠を出して、風評であると否定して見せて欲しい。東京の水道水、神奈川の水道水、これらは表層水である。山々からダムに集められた水が都会の飲料水だ。どこまで安全か。ダムと山の場所を地図で確かめて欲しい。私は飲んではいけない水と思っている。高齢者は影響が出る前に寿命が来るかもしれないが、今日、生まれた赤ちゃんたちの何十年後が案じられる。病院通いの人口が爆発的に増えたとき、それが30,40,50年後であったとしたら、国は因果関係を認めるだろうか。
現在の状況は、絶望的なモグラ叩き行為をしているに過ぎない。そうして。肝心なことは福島を中心とする被害を被っている人たちに対して、どれほどのことをしているのか。いまだに仮設にいる人たちが大勢いるのだ。猪瀬都知事の、東京、カネ持ってるもんね、みたいな宣伝文句を並べ立てた演説は厚顔無恥、聞いているこちらが恥ずかしくなった。
大丈夫と宣伝されて日本に来る外国の人たちに、申し訳が立たないと思い、こうして生活している2013年の日々、一日も休まず、汚染水が海に放出され続けていることを世界に申し訳が立たないことと思う。

原発について

北海道の友人からメール、そのなかで「泊原発が止まるなら、電気料金が倍になっても我慢できます」とあった。泊という場所を、どのくらいの日本人が知っているだろうか? 訪れたことがあるだろうか? ここは日本列島の中でも、きわめて美しい海岸線。その最も美しい場所を無残にも破壊、誰も近寄ることのできないプラントに変貌させているのだ。日本の国を引っ張ってゆく政治家たちは、どうして、我と我が身(国)を汚し、破壊したがるのだろう? 国が、如何に甘言を弄したとしても、どうして地元は許してしまったのだろう? この海辺を守ろうとしなかったのだろう? 怒りが沸々と湧く。美しい日本、と言ったのは誰だ? 私は、安倍政権のすべてを否定する。
9月2日の朝日新聞、ベルリン特派員松井健からのレポートが報道されている。概要は以下のごとし。
「ドイツのメルケル首相は1日、22日の総選挙に向けたテレビ討論で、東京電力福島第一原発の放射能汚染水漏れを念頭に、『最近の福島についての議論を見て、ドイツの脱原発の決定は正しかったと改めて確信している』と述べた。ドイツメデイアは汚染水漏れについて批判的に報じている。メルケル氏はまた、ドイツが米国主導のシリア攻撃に参加しないとの方針を表明。以下略」メルケル首相の事態の把握と理解、そして的確な判断は迅速、適切だ。フクイチについては、日本の国民は報道よりも先に事実を掴んでいる。今回の安倍総理の決定、東電に任せないで国がやる、などは、何を今更、の感がある。
太平洋は既に汚染された、とはドイツの分析、検証による。太平洋の海産物はおしまいなのだ。残念なことだが、事実を見なければいけない。また、今回のシリア問題についても、イギリスが拒否、ドイツもシリア攻撃に参加しないと表明した。日本はどうだろう? 例によってうじうじと事態を見守り、米国の顔色を読み取り、イヤな顔をされないような決定をする、というよりも追い込まれる。自分の頭で考えて判断し、表明することを「愚」と考えているにちがいない。

武相荘

婆たち その2の一人、白洲正子さんの武相荘についての感想。
白洲次郎・正子夫妻の経歴や業績については触れない。戦争中の1943年に、当時は僻地だった鶴川の農家を買い取り、改造して住み着いた。この旧宅と庭園が2001年から、お子さんの牧山桂子氏により有料公開されている。場所は東京都町田市能ヶ谷、小田急線の鶴川駅という近さもあり、オープン直後に近所の誰彼とともに出かけた。農家は、茅葺き屋根と構造体は農家であるが、土間はタイル敷きにするなど、内装は好みに従って手が加えられている。裏手の小山は鈴鹿峠と名付けられて、散策山道が作られている。植木、野草の見事さと建物内外の夫妻の趣味が横溢する飾りつけは、四季それぞれに展示を替えて、何度でも訪れ楽しめる趣向が凝らされている。小林秀雄や青山次郎などとともに選んだ骨董の数々とは、このようなものであったか、と実物を目にする楽しみも大きい。
私は知人友人を案内して足を運ぶこと度々だが、訪れるたびに色あせてゆく気配に失望している。何に失望したか。オープン当初の生のままの佇まいが失せて、あとからの「思いつき」で手を入れた部分、これが失望の元である。具体的に言うと、ここで食事をしていた、とある場所に、大皿一杯の生牡蠣やレモンなど、数々のご馳走を並べたこと。使っていたテーブルが置いてあれば充分であるのに、ラーメン屋のガラスケースの中じゃあるまいし、作り物の生牡蠣やらなにやら並べ立てる神経には辟易した。見る人の想像力を信じない故だろうか。ラーメン屋をやって楽しんでいるのだろうか。それとも、これでもか、と豪華に見せたら入館者が増えるとでも期待しているのだろうか。私は、人を案内するたびに喜んで貰っていたのが、最近は期待はずれだった、という感想を聞くようになり、案内を止めた。夫妻は、我が子に何を残したのだろう。

小皇帝

中国が一人っ子政策をして、一人っ子が溢れた。この子供たちは4人の祖父母と両親に囲まれて大事に育てられている。おチビちゃんに叶わぬ望みはない。なんでも手に入る。して貰える。ダメッ、と叱る大人はいない。この子たちが小皇帝と呼ばれている。中国では、この小皇帝が問題になっているという話を聞いた。おチビちゃんの時は可愛いで済んでいたが、青年期に入ったら、それでは済まなくなり、いろいろ問題が起きるのだそうだ。なにしろ忍耐力がない、抑制力がない、我が儘だ。欲しいとなったら待てない。すぐに欲しがる。手に入って当たり前。うまくいかないことは、みんな相手が悪いんだ、という思考経路が出来上がってしまっているのだそうだ。日本でも、たまに「我が家の皇太子」と言われている子どもがいるが似たようなものである。だいたい捨てものになる。その代表格が、いまの総理大臣と副総理だ。安倍総理は、憲法改正の3分の2を過半数可決に変えたいと言っている。我慢できないのだ。辛抱を知らない。欲しいものは、いますぐ欲しい。世界中の憲法改正時の議決は、3分の2が多いのではないか。過半数とは暴挙だ。だって欲しいんだもん、と安倍ぼっちゃんは、ぐずっている。麻生坊やは、歪んでいるヤツだから、いいさ、ずるして取っちゃえ、となる。この両人はジジ様の位牌を磨くなどして引っ込んでてちょうだい。

参議院選挙

今回の参議院選挙に関して無言でいたが、いまもって頭から離れない。新聞各紙を仔細に読み比べると、意外と言っては失礼だが、スポーツ紙、産経、読売などのなかにも、非常にすぐれた記事があり、それは目立たないのだが、よい記者がいることを示している。TVの業界にもまじめに、本気で考えている人がいるのだが、表面に出しては貰えない。高齢になって時間がある故だろう、丁寧にみているせいであれこれが見えてくる。岩手の当選者、無所属の平野達男さんは自民党に入るだろう、と私は予想している。そんな些細なことはどうでもよいのだが、総力を挙げて操作し、大成功をおさめた選挙だった。
いまの日本は大政翼賛会の時代の再来だとしか思えない。陰湿に隠微に、しかし徹底的に封殺される正論。大政翼賛会のやり方は、まだ大っぴらだったが、いまの与党のやり方は卑怯下劣の人でなしだ。日本の行く手は、たとえようもなく暗い。
安倍政権は張り切っている。民主主義国家を表向きの旗印にしながら実は、NHKをはじめ主要新聞各社、メディアを抱え込み、一路独裁へ向かっていると思う。財務官僚は政治屋たちを手玉にとり、日本を動かしているのは、誰あろう、頭のよいわれわれだ、と腹の底から思い込んでいる。
こうした日本列島を覆う巨大な天蓋はアメリカだ。アメリカは世界中をドル建てで支配する。売りつけるのはオスプレイだけではない、原発も、シェールガスも売りつける。極東で放射能汚染が続く事態を意に介すると思うか。何十年後に日本人がガンで総倒れになっても、あらまあ、それはそれはと言うだけだろう。中国はヘナヘナになった日本を分捕りに来るだろう。原発を推進し、TPPで勝手口の鍵を渡した日本に残されている道とは、どういう道でしょうね。
対抗できる気力のない日本は、いずれ消滅するしかない、と残念だが、私は大まじめで思うのだ。なにが肝心と言って気力が大事だ。私は小説書きだから、言葉から人々の弱々しさ、無気力ぶりを読み取る。たとえば、「元気を貰った」「〜だったら、いいかな、と思います」という語尾。元気を得るのではない、貰うのである。なんとだらしがないことか。これこれだったら、いいかな、と断定を避けるが、願望はあります、と言う。虫ずが走る。誰かが使うと、共感する人々が好んで使うようになるのが言葉遣い。最近は誰もが断定を避けて、曖昧で尻切れトンボの言い回しを好むのだ。やっぱり言いたくなる、豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ!

訴状

組織に対する訴えの場合が多いように見受けるが、原告が裁判所に民事訴訟を起こす。原告の相手が名のある組織である場合にニュースになる。ニュースでは、双方を取材した結果を報道するのだが、たいていの場合、訴状を受け取った組織の回答は判を押したように同じ、訴状をまだ見ていないのでコメントしかねる、というものである。これで報道は、報道した、として終わりにしてしまう。怠慢なのだろうか、それとも一方に肩入れをしていて、コメントしかねる、というパターンで逃げ切れると読んでやっているのだろうか。報道と組織は連んでいるのではないか。真の報道であるならば、翌日なり、翌週なり、しつこく取材を重ねてコメントをとるべきだと、私は思う。なれ合いの芝居は見たくない、という気持ちから一歩進んで、報道を信用せず、その存在までをも不要と思うに至っている。

戦争と女性

慰安婦問題が大阪の橋下徹さんの発言から炎上して、ついにはノーベル平和賞受賞の女性たちからの意見も聞こえてきた。そしてあっというまに収束へと下降して、昨日今日はアフリカ問題で賑わっている。橋下さんが袋だたきにあい、記者会見でバカにされ、アメリカへ行くのを諦めて、それで問題が下火になり、やがて人の口に上らなくなる。「政治家は、本当のことを言ってはいけないんだ」と発言した与党の議員もいた。
人々が、この騒動から学んだことは、この問題を軽々しく扱って口にしてはいけないんだ、ということだったのか? いったい、これでよいのだろうか。橋下徹さんの発言に対して怒り、意見を述べることに、私は大賛成だが、どの発言者もこの問題を橋下徹個人の発言に集約していて、なんら解決への考察をせず、ただ非難することで非難発言者としての自分自身の存在をアッピールしているだけのように感じる。
どの国の人たちも、自国の歴史を背負ってモノを言って欲しい。どの国にも、戦争の時に女性を犠牲にしてきた過去があると思わないか? 浚われて、敵国の男に子を産まされてもなお、望郷の念耐えがたく、故郷に脱出したい、しかし我が子がいる、こうした引き裂かれる心の女性の物語を聞いたことはないか? いまもって拉致されたままの「めぐみさん」たちの問題の根源が、国際間の軋轢にあることを知らない人がいるか? ひとたび戦争となると、何万、何百万という男たちが殺される。この兵士たちに母がいて、どれほど悲痛な思いで涙していることか。戦乱の中、強姦され、強姦のあげく殺された女性がどれほど多くいたことか。
いっときスポットライトを当てられた問題、慰安婦問題をきっかけに一歩前進して、戦争と女性について考えを深めていきたいと思う。戦争はやめよう、と声を上げることが大切なんだと思う。 

大浴場のシャワー

温泉というか、大浴場の洗い場について。正面に鏡があり、温度調節のできる蛇口とシャワーがついている。これを使い、シャンプーしたり身体を洗うのだが、隣の人や背中合わせの人の使うシャワーの湯がかかることがある。自分が、隣の人に飛沫をかけてしまうこともある。気をつけていても、シャワーの先の湯が遠くへ飛んでゆく。そこで私は考えた。このシャワーの水圧を変えずに、湯が飛んでゆく距離を短く出来ないだろうか。50㎝も飛べば十分ではないだろうか。1メートル以上も横に飛ばす必要はないのだから、短く出来て、しかも水圧があればよい。シャワーのノズルの穴に、様々な方向に向きをつけて、50㎝先で水の流線がたがいにぶつかりあうようにすればどうだろう。なんだか、うまく行きそうな気がします。

北関東の野菜

生協に加入して食品を買うことにした。毎週、決まった時間帯に配達してくれる仕組み。留守をしても保冷ケースに入れておいてくれる。配達時に次週の注文のためにカタログを置いていってくれるので、その中から選んで注文する。
私は加工食品をほとんど買わない。以前は、はんぺん、さつまあげ、ちくわなどを好んだが、最近は買わない。昔と製造方法が別食品のように変わってしまった故である。添加物の問題もある。欲しいのは素材であって、温めればすぐに食べられるといった調理済み食品は欲しくない。ところがカタログのほとんどが加工食品だということに気がついた。目当ての野菜の頁は少ない。果物は華やかにたくさんあるが。この少ない野菜の中から選ぼうとするのだが、産地を見ると群馬、茨城、栃木が大半を占めていて、買えない。これでは、なんのために生協に加入したのかわからない。官庁の食堂で使う米は福島産だと読んだことがある、確かめたわけではないが。しかしテレビの報道も精一杯、福島を応援していることは事実である。福島を訪ね、物産を買い、経済的に応援しようというわけだ。
しかし、汚染は拡散し続けている。けして消え去りはしない。ニュース性が薄くなっただけのことだ。いまや神奈川、千葉、東京も汚染区域に入っている。xxベクレルだ、基準値以下だというが、これを信じて安全だと思う人がいるだろうか。薄めて計ればすべて基準値以下である。誰も言わないことだ、福島に遠慮して言わないことだが、北関東一帯の野菜、魚、穀物、すべて食べるべきではないと、私は思っている。高齢の人ならいいじゃないか、高齢者がどんどん消費したら良い、とも聞く。そういう場当たり的な問題ではないだろう。食べてはいけない。作ってはいけない。魚を捕って売ってはいけない。
だったら福島の汚染区域の人たちはどうしたらよいか。汚染地域を広範囲に閉鎖するべきだ。知事がいなくなっても、選挙区がなくなっても政治家以外は困らない。この地域の人たちを、日本全体で吸収、受け止めて生活する、これしかないと思う。情緒的に涙している状況ではないはずだ。日本国民が努力することは、故郷を追い出された人たちを迎え入れて苦労をともにすることしかないと思う。こうした「我慢」「こらえ性」を発揮することが、唯一の救済の道だと思う。
くどいようだが、今のようなやりかた、買いましょう、食べましょう、を続けていたら、何十年後には満足な健康体の人間がいなくなってしまうだろう。子孫をそのような身体にしてよいはずがない。今現在の我慢こそ、大切なのだと思う。

地下鉄サリン事件

1995年の3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。私は予備知識が全くなく、弁護士一家殺害事件との関連さえも知らなかったから、非常に驚いた。この日、東京築地の聖路加国際病院では、突然の事件に素早い対応をした。受付や待合のためのホール全体を、瞬時に野戦病院のような救急病室に一変させたことは、常に非常時を心に置いていた故にできたことだろう。日頃は奉仕する曜日が決まっているボランティアの人たちも、自発的に各地から集結して医師、看護師を助けて働いた。この病院は、院内にキリスト教の教会堂を持っている。キリスト教の精神が自発的にわき出るように現れて多くの人々を助けたのであった。
この事件で明るみに出たオウム真理教という組織は、目を覆うばかりの酷たらしい加害の団体であった。教祖と名乗る男は、当初偽薬を売り、掴まった経歴からして、元来偽者なのだ。宗教は、単なる衣である。空虚な核に依存性のある弱者が蝟集して膨張した集団は、このあと瓦解するのだが、私は、この事件を過去の特異な事件として見てはいない。形を変えて、いつも、そこいらへんにある現象なのだと感じている。
ある政党があって、選挙が近くなると関連の基盤宗教の信者が夢中になる。信者は、普段買わない店にも行き、買物をして候補者を盛り立てようと宣伝する。遠く離れた土地から電話をくれて、お宅の選挙区の誰それは、とても良い人だから投票してくれ、とせがむ。見たことも会ったこともない、調べたこともない候補者の名は、上のほうから教えて貰ったのだ。なんで、そんな会に入信したかと問うと、病気を治して貰ったから、などという答えが多い。日常生活では常識のある人が、会の上の方からの声を耳に入れた途端、我を失うのである。店の者に馬鹿にされても気がつかない。盲目になっている。面と向かって悪口を言われた時だけは反応して、執拗に恨み、仇をする。政党は、こうした人々の票を集めて不気味なコウモリのように政治世界に羽ばたいている。
本物の宗教と、別の目的を内蔵する団体とを見分ける力を持ちたい。オウム関連の事件の犠牲者のためにも過去の事件として終わらせず活かさなければならない。

小さな綻び

『永遠の0』の読書感想を書いたことで、小説や映画のほころびについて考えた。『永遠のゼロ』は、私はとても好意的に受け止めていて、よくまあ、資料を読んで、ここまでやったなあ、と拍手している。この場合は、厳然と存在する過去の厳しい事実が立ちはだかっており、それも各説入り乱れている部分もあり、評価もまちまちであり、今現在、アメリカで過去の資料の幾ばくかが公開されつつあることもあり、非常に困難な状況下で書いているのだから、酷評は酷というものだ。
私が白けるのは、消耗品の三文小説や映画なら黙っているが、いちおう胸を張って発表する作品の中で綻びがあるときだ。わざわざ題名を出すには及ばないが、例を挙げると、戦時中の少年。主人公である。これが半ズボンをはいている。半ズボンのゴムが、表布と一緒に縫い合わせている現代のものだった。当時は、袋縫いにして、中にゴム紐を通していた。作り手が、その時代に対して愛情を持っていないと感じた。これひとつで名画が色あせる。針穴写真機が主人公のマイナーだが力のこもった映画があった。映画祭で上映されたのだが、木箱に針穴があいているだけの、30分も動かさずに置いて撮影する珍しい映画なのだが、アップにしたら、この木箱を止めているネジが十字ネジだった。大勢で制作する映画のスタッフの、誰一人として気にかけなかった仕事だ。こういうのを綻びと思う。これがあると、色あせてしまう。烏合の衆が寄り集まって作ったのか、と言いたくなる。古い映画だが「アマデウス」。この映画ではモーツァルトの音楽がふんだんに使われるが、この楽器も演奏法も、モーツァルトが活躍していた時代の音を出すことに意を注いだ、と読んだことがある。緊張して全力を出そうっと。

同性婚

同性で結婚する人たちが認められる時代になった。性同一障害など、さまざまな障害や事情を持つ人たちだけに関わる問題として受け止められているように感じる。自分とは関係ないが、という立場から眺めて同意したり反対したり無視している。法律が結婚という制度に与える経済的利益を、同性婚にも認めるところが眼目なのだ、と私は理解しているのだが、結婚が持つすべての要素を同性婚が望むのは自然に反することだと思う。従来の結婚とはまったく別立てにして、共に生きてゆきたい人に、法的な保護を与えるようにするのがすべての人のためだと思う。結婚などと表現するから話がおかしくなって、激怒して反対する人も出てくるので、この反応は自然だし当然のことだ。同性婚を望む人たちも、自分たちのことだけを考えるのではなく、すべての人に思いを馳せるべきだろう。共生契約を結びました、という形では不満か。文句があるか。
それはともかく、この問題を自分も含めて考えてみると新しい世界が広がる。神話の時代から一直線に進んできた産み増やす道がいま、行き詰まっている。人口減少が見られるのは、自然のなせることではないだろうか。結婚にこだわらずに生きてゆこうとする人は、ますます増えるだろう。こうした進んだ感覚の人たちのためにも、共に生きる同性の人たちを保護する制度は有益だと思う。

月刊「マスコミ」市民 大治浩之輔

 以下の文は、月刊「マスコミ市民」編集代表の大治浩之輔氏が「マスコミ市民12・12号」に載せた全文です。大貫康雄氏( 1948年生まれ。ジャーナリスト、元NHKヨーロッパ総局長)が了解を得てブログに紹介したものをここに転載します。
 大治浩之輔氏は、元NHK社会部記者で数々の公害問題の取材で知られる。日本の報道界の大先達。77歳。

 「小沢一郎事件~今様政治家暗殺事件」
 東京地検特捜部が「小沢一郎事件」を始めたのが、2009年3月3日。戦後初めての本格的な政権交代が実現する2009年8月30日の総選挙の直前であった。政権交代必至の野党党首に政治資金規正法で強制捜査、バランスの取れない異例の非常識な捜査である。
 2012年11月12日。その「小沢一郎事件」を東京高裁が無罪判決で締めくくった。
 小沢の政治団体・陸山会が秘書寮新築のため2004年10月に3億5200万円で東京世田谷の土地を買った。その取引の届けを、本来の2004年でなく翌2005年の政治資金報告書で届けたのが犯罪になるか。担当秘書は、届がずれたのは、土地の移転登記が翌年にずれたのに合わせたので適法だと思っていたと抗弁。
 検察はこれを認めずに秘書を起訴。そして、検察審査会が小沢を強制起訴。『秘書に任せていた』といえば政治家本人の責任は問われなくていいのか」「市民目線からは許しがたい」という、罪刑法定主義を無視した衆愚の暴論で小沢をも起訴すべしという議決を繰り返し、小沢は強制起訴で被告になってしまった。
 高裁判決は、「小沢は秘書が違法な処理をしていると思っていなかった」として“共謀”の成立を認めず、一審に続いて無罪。そればかりか、そもそも担当秘書も「登記に合わせて所有権が移転すると信じていた可能性がある」と認めて、刑事責任を否定した。犯罪は無かった、火の無いところに煙を立てたようなものだ。いったい検察は何を目的として、「小沢事件」を仕掛けたのか。と言いたくなる判決だ。この間に、季節は移り、政権交代への期待と希望は、幻滅と失望に変わっている。
 高裁判決の翌日、「小沢事件」が無ければ首相になっていたはずのない野田が、かつて、へなへなと政権を投げ出した自民党の安倍を相手に「11月16日に衆議院解散」を宣言して、幻滅の政権交代の終わりを告げた。
 小沢事件と民主党政権は、「始まり」も「終わり」もほぼ同時である(「小沢事件」は検察役の弁護士側が上告をすれば、まだ引き伸ばして小沢を被告の座に置いておくことが可能だった。しかし、野田の「解散宣言」のあと、検察役弁護士は上告を“断念”した)。

 この“政権の消長”と“事件の推移”との時期の一致は、「小沢一郎事件」の政治的な狙い・意味を、わかりやすく示している。政治的狙いとは、〈本来、この政権交代を党首として主導するはずであった、一人の政治家を、無実の罪にひっかけてでも、すくなくともこの交代政権が続いている期間、政治の表舞台から追放する〉、ということである。「小沢一郎事件」とは、今様の政治家暗殺事件、つまり「小沢一郎暗殺事件」であった。
 日本の戦後の政治の流れからいえば、2009年8月30日の地滑り的な政権移動は、革命であった。それが掲げたのは、内政ではアメリカ型の新自由主義(金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になる自由)からヨーロッパ型の社民主義的な福祉社会への基本的な転換。外に向かっては、アメリカ隷属からの相対的自立とアジア重視、であった。もちろんこれは、旧政権・自民党とそれにつながってきた旧体制支持派(経済界・官僚組織・大マスコミ)と、日本=自民党として対日政策をとってきたアメリカとを、同時に相手に回しての大難問であった。
 崖っぷちに隘路を切り拓いていくような仕事だった。政治的なリアリズムと緻密さ、相手の手の内を充分に知り尽くした剛腕も必要だった。鳩山のようにヴィジョンだけというのでなく、ヴィジョンに到達するため、敵に応じて闘いを組み立てられる、味方に引き込むこともできる、リアリズムが必要だった。地滑り的に大勝した民主党の中で、それが務まるのは「小沢一郎」以外にいなかったろう。それを一番よくわかっていたのは、民主党ではなく、旧体制の側だった。だから、彼らは、「小沢一郎事件」が東京地検によって仕掛けられるや、一致協力して、表舞台から消す“暗殺”に手を貸したのである。
 12、13日を経た11月14日の朝日の論説面。社説が2本『マニフェスト バラ色に染めるな』『週刊朝日問題 報道の自覚に欠けた』。その右側に政治漫画、「オレの不名誉な日々を誰が返してくれんだ!?」と題して、『無罪一郎』と大書した紙をかかげて“小沢一郎”が道を走っている。つまり、せいぜい言って被害者は小沢一郎・個人どまり、という認識だ。しかし、この認識は間違っている。
 検察の強制捜査は、戦後最大の政治の転換点に介入し、いまだ成長過程のデリケートな日本の民主主義化の芽を摘み、自然な成長を破壊した。被害者は国民である。
 かりに、小沢一郎という政治家が妨害を受けなければ、この3年間の政治展開は全く別物になっていたかもしれない。政権政党としては素人ばかりのような民主党集団の中で、彼は、例外的に、旧勢力の手口も攻め口も自民党の面々以上に、熟知しており、革命派にして旧勢力にだまされないという隘路を、切り拓けたかも知れなかったから。対米関係も、中国、韓国との関係も、過去の経緯を熟知したうえで対応し、現状とは別の展開になっていた可能性が高い。それらの可能性のすべてが、検察の不当な政治介入捜査で国民から強奪された、盗まれた。そのうえに、自ら小沢外しを強行した民主党の未熟な連中の手で、政権交代は幻滅と荒廃感しか残さないものになった。日本は歴史のターニングポイントで、道をそれてしまった。悲劇だ。われわれは遠回りをすることになるだろう。
 公判で、検察の黒い工作が暴露された。秘書の一審公判では、“被告の供述調書が検事の違法な「威迫や利益誘導」で作られた”として、排除された。それどころか、検察審査会の議決を受け、元秘書・石川知裕議員を再聴取したとき、担当検事は検察に有利な架空の内容を盛り込んだ捜査報告書をつくり、特捜部幹部も「小沢共謀の証拠となりうる」という報告書を検察審査会に提出。一審判決で「事実に反する捜査報告書で検察審査会の判断を誤らせることは許されない」と、断罪された。にもかかわらず最高検は、担当検事の「記憶が混同した」「故意ではなかった」と放免している。自律能力も責任感も無い。


 東京新聞は判決翌日の朝刊一面コラム「筆洗」で、「▼検察審査会に出された捜査報告書は偽造だった。検察は認めようとしないが、今回の強制起訴は素人の審査会を欺き、有力政治家を葬り去ろうとした東京地検特捜部の『権力犯罪』だった疑いが濃厚である。▼傲慢な検察の世直し意識を助長してきた責任の一端は、マスメディアの側にある。猛省しなければならない」と指摘。社説で、「検察が市民の強制起訴を意図的に誘導した疑いが晴れぬ、生ぬるい内部検証ではなく国会が『検察の“闇”を調べよ』」と主張している。同感である。            転載以上
 NHKがまるごと悪いのではない。このような見識の方々がいる。
 私は、読んでほっとした。フォローしてきた通りだった。あのとき民主党を支持したことは、大きな意味があった。あれは革命だった。そのことも、改めて確認できた。今度の選挙では、1票に無力感を感じた。1票が大河の一滴という意味ではなく、正常に機能していない1票だと感じた。選挙の不正が常識である国も多々あり、我が国もそのようだと知った選挙だった。でも、諦めたら、そのときが終わりなのだから、諦めないで見守り、考え、発言しよう。

何年生まれ?

男性女性を区別して言わないことにしているが、これは女性だけに見られる現象。あなたは何年生まれですか。この問いに率直に答える人と、正直に明かさない人がいる。隠す人、でたらめを言う人もいる。著書の経歴にも生年を記さない人がいる。戯れに干支を言い合っていても、キリンだ、シマウマだのとごまかす。男性から訊ねられると、女性に年齢を言わせるなんて失礼よ、と怒る。
私には、そうまでして実年齢を隠そうとする意図がわからない。若く見せたい? まさか。いくら引っ張ったって縫い縮めたって、山田五十鈴さんがアラフォーに見えたわけがない。たとえば40歳の女性が25歳にしか見えない、としよう。喜べるだろうか。ガックリするのが自然だと思うが。40歳までの積み重ねの英知が瞳に現れず、25年しか生きてこなかった色合いにしか映らなかったとしたら悲しいことだ。しかしそれでも若く見えた方がよいという人は大勢いることだろう。まあ、やってくれ、と言いたい。
それでは済まないのが、私の世代である。第二次世界大戦。大東亜戦争。太平洋戦争。なんと呼ぼうが「あの戦争」をくぐり抜けてきた世代にとっては、何年に、どこで生まれたか。あの戦争の時、どこにいたか。このことは命と並ぶ大切な、重要なことである。そこから出発している。そこに立ち返る。原点を常にそこに据えて生きてきている。嘘を言ったり隠したのでは、いまの自分がいなくなってしまう。繰り返しになろうとかまわない、あるだけの記憶を記録として残して次世代の参考書にしたい。ところが、私の世代のなかにも、キリンだ、シマウマだと身をかわす日本女性がいる。人間とは、とことんわからないものだ。

記憶力

私が小学生の時、日本列島の白地図に、炭鉱の場所を書き込んだ。北海道から九州まで炭鉱の場所と名前を暗記した。炭鉱が消滅したいま、無意味な記憶だったと振り返る。検索すれば手に入る膨大な情報を使える現在、どこまで記憶することが求められているのだろう。わざわざ頭に叩き込まなくても、クリックひとつで目の前に現れる膨大な量の知識の集積。手に入れる手段と、大海の中から必要なものを選別する能力が求められるが、記憶する必要は薄れてしまった。
すでに私は計算力が衰退している。今、私は毎日歩くようにしているが、それは目的地に移動することが目的ではなく、歩くことが目的化しているのだ。
都会の人は歩かなくなった。それでは農村地帯の人は歩くだろうか。やはり歩かなくなった。30分も歩けば行かれる公民館へも、車で行く。時間がもったいないから車を使ってしまう。畑に行くのも車、コンビニに行くのも車だ。足の不自由な高齢者は、電動車いすのような一人乗りの椅子を運転して移動する。こつこつと歩く姿が激減した。
痴呆症の人たちが物忘れをするというけれど、普通の人たちは、忘れる以前に、ものを覚えることをせず、歩かず、暗算もせずの生活態度だから、相当衰退した能力の人間に変わってきているような気がする。
人間の最も凄い能力は、考えるということだと私は思う。自力で考えることは、猛烈な重労働だ。そして瞬時に使える数多のデータが要る。クリックしている暇はないはずだ。やはり強力な記憶力が必須である。そして見る、聞く、声を出す、歩くなどの動物の基本が揃っていることが何より大切なんだと思う。

いじめについて、再び

 去年の2月に「差別といじめ」について書いたが、この先も続くだろう問題について再び考える。最近、いじめられて自殺した中学生のニュースをきっかけにして、さまざまな対処法が考え出されている。しかし、大人を見よ、と私は言いたい。社会に出て働き、家に帰れば子どもがいる、そういう社会人としての大人たちが、社会生活の場で何をしているか、振り返って欲しい。お手本になれるかどうか。
 野党、自民党の総裁選挙があった。石破さんという人は、党内派閥を否定する考えの人である。派閥を形成し運営してきた長老たちは彼をつぶそうとして何をしたか。いじめたのである。いったん腹痛で責任放棄した人物を引っ張り出して派閥票を入れた。派閥を持たず、実力一本で地方票を大量に獲得した石破さんを無視できずに幹事長に決めたが、副幹事長には彼にブレーキをかける人物を置いた。これを政治と表現することで納得するのは当事者だけだろう。汚いいじめである。大阪で維新の会を発足させようとしている人について、メディアは連日報道する。まだ党として生まれていない卵である。一方、国民の生活が第一、という党については、次回選挙では100人を越す候補者を立てる計画が進んでいるにもかかわらず、まったく報道しない。メディアは中学生たちの言うシカトをした。報道の基本を破り、国民を裏切っている。組織はさておき、個人として胸に手を当てて考えたとき、我が子に堂々と言える行いか? これが社会人のすることか? なぜ、シカトするかというと「国民の生活」の党は、メディアの腐れ体質にメスを入れようとしており、また、その力も持っている、と恐れる故である。成人した大人たちが、本番の社会生活の中で汚い「いじめ行為」を続けながら、どうして子どもたちのいじめを非難できるのだろう? 育ち盛りの命は、すべてを見、聞き、感じて吸収してゆく。空の青さが湖に映るように、美しい社会人の行為は、子どもたちに反映するだろう。子どもたちのいじめは、大人の行為を映しているのだ。

アフガニスタン

アフガン、と書かれているのを目にするので、アフガニスタンとの違いを調べた。アフガンというのは、日本だけで通用している略した言い方で、アフガニスタンのことだった。私は、今年の大盤振る舞いとして、アフガニスタンの女性が山羊の毛で織った敷物を買った。長さが125cm、幅が75cmほどで、方向性のある三角模様が織られている。
この国は、スンナ派とシーア派が同居するイスラムの国だから、もしかすると、この敷物は、お祈りのときに用いられるものかと想像した。訪れたことのない国の女性の手が織り込んだモノに触れ、書斎の壁にかけて見ている。山羊の荒毛が語る。文様の声が聞こえる。
売ってくれた人とは、もう20年ほどになる顔見知りで、店を覗いて沙漠の話などを聞かせて貰ってはいたが、いままでご縁がなかった。この方は、しばしばアフガニスタン、イラン、イラクなどの国々を訪れている。標高の高い土地で、水はない。まるで富士山の頂上に住んでいるようなものだ。高い山は7000mを超える。世界のラピスラズリは、この国の山から出ているので、奈良時代後期、藤原薬子の持っていたラピスも、この山の石であり、絹の道のように作られていたラピスの道を通って奈良まで辿り着いたのだった。
いまでも平均寿命が48歳、世界第二位という短命の土地である。人々は生きるにも精一杯の状況なのに、両脇の大国に蹂躙されて殺される。この国の人は、先進国の工業製品を欲しがらない。今、の生活の質と水準を維持して、いままでどおりに生きていたい、それだけの望みを持っているという。先進国は、どうして彼らに現代的な物品を売り込もうとするのか、まず、土地の人たちが何を望んでいるのか、虚心になって知ることが大事なのに、と思う。天然ガスが出る、銅山がある、ああだこうだといじり回して、それが結局は先進国の利益を追求しているわけだから、止めたらよいのに、と思う。植民地を持って豪勢な暮らしをしていた国々は、時代の趨勢で植民地はダメになった、しかし、違うやり方で同じ事をしているのではないか。他人のポケットに手を突っ込むような態度は最低だ、傍観している国も罪国だ。

殺陣師+乱交

殺陣師(たてし)という仕事がある。これは舞台やドラマで擬闘を行う、いわゆるチャンバラのこと。武器を使ったり格闘したり、見ている方は手に汗を握るけれど、実際は怪我をしないように演技をする。脚本では「このあとチャンバラよろしく」結果は武蔵の勝ちなどと決められています。当然のことで、殺陣師が勝手に勝敗を決めるわけではないわけで、見ている方は百も承知です。
国会中継では、与党野党、本気で質疑応答をするものであると、見ている方、つまり国民は信じて見、聴く場である筈。ところが、答えにならない答えで受け流し、それを容認する質問者がいることに、ずいぶん歯がゆい思いをしてきましたが、本気になって聴いている私は愚かしいことであったとがっかりしています。いまごろ何を言うか、と笑われることを覚悟で書きますが、国会で殺陣師のワザを見たくない! 
ひととおりチャンチャンバラバラとやって見せたところで切り上げて、あとは密談でよろしく。あるいは、誰それに一任の形で合意した……。
これは民主主義ではない。非常に狡く汚いやりかたで国民を侮辱している。ここまでコケにされておとなしくしている国民はどうかしている。
さらに、与党が野党に助けを求めて3党合意で事を推し進める。これは乱交パーティー極まれり、といった観がある。与党野党が対立し、各々の意見を出し合い、戦わせて進めるのが民主主義ではなかったか。それを手をつないでちょうだい、私の願いに賛成してよね、という。まともな人間なのだろうか。世界中が見ているところで乱交パーティーやって、ああ恥ずかしい。黙っている国民もたまらなくイヤだ。どうしてくれよう。

ヒトの悪口

この私が言うことである、そのつもりでお読みいただきたい私の意見です。(実は、カワイさんでなくて、だれか有名な人が言ったのなら皆が耳をそばだてるんだが、と言われたことがあるのでして)
政治家、小沢一郎について。この際、有名人故に敬称を省略させていただくことにします。
私が、初めて彼に注目したのは、幹事長になったときで、まだ40代だったはずである。名が出るようになってから、小沢一郎ほど悪口を言われる政治家も珍しい。「政治とカネ」という表現で非難され続けた。が、私には政治がどうしたのか、お金がどうしたのか、さっぱりわからなかった。西松事件と言われる一連の事件も、結局はでっちあげの大嘘コンコンチキ。フォローしてきたおかげで私は、日本国が民主国家でなく、三権分立さえもお題目のヘドロ国家であることを知ってしまったのだが、それはさておき、いまは悪口の話です。
出所不明の悪口が漂う一方で(実はメディアの作為だが)個人が公然と悪口を言う。石原慎太郎などは、小沢は大嫌いだという。仙谷由人も、渡部恒三も軽々と言う。ほかにも雲霞のごとくいる。
さて、ここからが私の意見で、この行為が悪い、この考え方について反対だ、という発言は、とても良いことだと思う。言わねばならない。
一方、具体的なことを何も挙げずに、漠然と悪い空気を広めて多くの人に、それを共有させようと図るのは、卑怯、悪質な態度だと思うのだ。誰しも好き嫌いはあるだろう、虫ずが走るほど嫌いだったら、胸底で(嫌いだあ)と思っていればよいではないか。悪口を拡散する人たちや組織は、表だって言えない理由を抱えている。公言すると差し障りが出る、個人的な利得が絡んでいる、そう勘ぐられても仕方がない。悪口は言うべきではない。悪口は、自らを矮小化させる。これは国家を論ずる場合に限らず、自治会などのような泡沫規模でも同じことで、自分を汚し、小さくする。
この長期にわたる膨大な悪口に対して個人攻撃を一切しないでいる小沢一郎という人物を、私は胆力のある人だなあ、と感じている。肚にやましいものを抱えていると、どうしても表情に歪みが出るものだ。麻生太郎、前原誠司の歪みを見ると、よく分かる。

釣り糸

魚を釣るための釣糸の話。昔はテグスだったが、いまは合成繊維。細いのから太いのまでさまざま、私は手芸用に持っている。山中湖畔を歩いていると放置された釣糸が目につく。引き上げられたボートの綱に絡んでいるもの、フェンスにからんでいるもの、木の枝に絡まっているもの、さまざまだが、外せる糸は外してまとめて捨てるようにしている。釣糸は、どんなに細くても強い。引っ張っても切れない。人間ならハサミで簡単に切れるけれど、これを脚に絡ませた水鳥は悲惨、命に関わるのだ。楽しみのために、まわりに迷惑をかけるのは罪悪だ。釣りを知らない私が言うよりも、はるかに詳しく知っている釣人たちの、ほとんどの人は、こんな風に放置したりはしないだろうが、現実にはたくさん見かけるのだ。海で、川で、湖で!
そこで私は提案する。ある一定時間、太陽光線を浴びた釣糸を劣化させる、ぼろぼろに崩れて土に戻ってしまう、そういう釣糸を開発したらよい、というものだ。結構高価なものだが、また買い直さなければならない。どんどん消費することになり、釣りグッズ業界も売り上げが伸びることになるから悪くないのではないでしょうか。

総理の責任

大飯原発を、総理大臣の責任において再開するという。野田総理大臣が責任をとる? いったい、どんな? どうやって? 最近ケイタイで頻繁に使われる笑顔のマークをつけたい。あるいはツイッターにあるwwマークを。
私は、これほど軽い弁舌をきいたことがない。二枚舌という舌があるが、羽毛の軽さ、溶けて消える儚い舌だ。信頼されていないヤツが力んでみても見向きもされない。
まだ決断しない自治体の説得に努めるというが、自治体を金で左右する自信があるということだろう。このために費やされる莫大な金額。このお金は税金ではないか。貧すれば鈍する。原発が無限の害毒と知りつつも、目先の困窮に耐えられず金に転ぶ。国民から搾り取った税金を投げ与えて転ばせる総理大臣も大臣なら、分かっちゃいるけどいただきます、ハイと言えとおっしゃるなら、ハイとでもイエスとでも申しましょう、という転び自治体も腐りきっている。どうしてくれようと力めども、一顧だにされぬ我が身かな。

バス事故から我が身を思う

日記にも書いた関越道のバス大事故では、主に法律面からの検証がなされているように見受ける。私は、自分の経験から別の一面を見ている。事故をおこす場所について、始めての道、崖っぷちの狭い湾曲道路、混雑している交差点など多々あって、このような難所でぶつかったり転落したりは沢山ある。でも、難所ではなし、よくよく知っている道でも事故は起きる。どうして? この場合についての私の思うところは、こうだ。
運転は知らない道を走る時は緊張するし、周囲は新鮮で発見が続く。わ、ここって凄い、こんどゆっくり来たいな、などと驚きながら走るものだ。峠越えなどは、ハンドル操作、対向車、おまけに後続車に煽られたりしたら気が抜けるものじゃない。どんなに疲れていたって、走行距離がオーバーしていたって、がんばってしまう。頼まれたって眠くなれない。こうした緊張のあとは、しっかり休みを取らなければならないが、事故を招くのは、平坦な道、アップダウんもない道、前に通った道である。それはなぜか。
よく知っている道だから、である。発見はない、いつもの通りの道だから、ワクワク感は眠り、驚き高鳴る心臓も眠る。前の晩に10時間寝ていたって眠くなるしかない道なのである。退屈している。腕はあるからハンドル操作に迷いはない。となると別のことに思いが向く。これからの仕事、帰ったら、アレしてコレして。アイツとトラブったいきさつの反芻。アマゾンでアレ買おうかな。
北海道では、独自の基準を作っているという。1日乗務距離の上限350km、高速道では420km。とてもよいことと思うが、それでも事故は防げないだろう、職業運転手であれ、自家用運転手であれ、「慣れた道」から逃れることはできないのだから。

夫婦別姓

国会中継で夫婦別姓に関する質問が出た。が、具体的な取り扱いをしようという気持ちの片鱗もない、受け流しの答弁で終わった。夫婦別姓は、本来は夫婦別氏という。
日本は、10年ほど前に「女子差別撤廃委員会」から、婚姻最低年齢、離婚後の女性の再婚禁止期間の男女差、非嫡出子の扱いについて、また、夫婦の氏の選択などに関して懸念を表明する、という勧告を受けている。この「女子差別撤廃委員会」は、国連に設置されている委員会である。
これを受けて国は20084月に「選択的夫婦別氏制度について、国民の議論が深まるよう引き続き努めている。」と報告した。しかし20098月に再度、「委員会は、前回の最終見解における勧告にもかかわらず、民法における婚姻適齢、離婚後の女性の再婚禁止期間、及び夫婦の氏の選択に関する差別的な法規定が撤廃されていないことについて懸念を有する」との勧告を受けた。しかし政府は「検討中」から一歩も出ようとしない。今回も、取り合わない、といった、あからさまな無視の態度を示した。
私は、福島瑞穂さん、千葉景子さんたちの意見を支持する。彼女たちは柔軟な意見の持ち主だ。是が非でも、全員が夫婦別姓にすべきだ、とは主張していない。選択的、と言っている。つまり、希望する人は、別姓を選ぶことができます、という社会にしたいです、と主張しているのだ。
私の意見は、夫婦別氏はもちろんのこと、戸籍を個籍にしよう、というものだ。生まれた瞬間に個人が確立する。赤ちゃんは、この父と、この母との間に生まれたという事実が記載される。認知云々のまやかしではない、もっと基本的な人間の存在、人間の命を尊重しよう、差別を消し去ろう、という考えに基づいている。現在の日本の状態と犬の状態を比べれば、犬の血統書のほうがまともな体勢を取っていると認めざるを得ない。いまの状態は、犬の血統書に及ばないのである。
今回の答弁で、家族の絆が崩れるという反対意見がでていた。それじゃぁ聞くが、氏・戸籍に縛られて絆を保っているのかと言いたい。親子兄弟の絆は、それほどヤワなものなのか。親子兄弟のつながりは、法律も、大津波でさえも太刀打ちできないほどに強いものではないだろうか。この問題をなおざりにし、意図的な先送りを続けることは、国の恥である。反対意見の人々は、なぜ選択肢の設定まで否定しようとするのだろう? なぜ、現況を強要したがるのだろう? 反対意見を掲げてムキになる人たちは、ぜひ胸に手を当てて、反対する真意が奈辺にあるかを再認識してみて欲しい。

これからの報道

人間社会を進歩させる動力は、政治力ではなくて科学力だと私は考えている。科学の発達と戦争は車の両輪のようにして前進し続けてきた、一段落すると一般の生活を潤すのである。原発は、平和利用という看板を先に掲げてみせた最初のヤツで、こんな大犯罪はない。この話は、また別の項目でしつこく続けることにして、いま考えているのは、カメラと報道についてである。
カメラは、撮影者が見たい対象にレンズを向ける。報道の場合も、いつ、何を、どの角度から見せるかは、ひとえに報道者にかかっている。この段階ですでに決定的な選択がなされている。当然のことだが、これは今までの話である。これからは変わると私は期待している。
先日、太重斉がメールで写真を送ってくれた。この写真はパノラマであった。マウスのポイントを動かすと、写真は360度上下左右、自在に移動し、まるでその写真の中に自分が立っているかのように見えるのだ。室内を撮影すれば、その部屋の中にいるかのように見える。カナダの友人もパノラマの風景写真を送ってくれた。みたい方向へポイントを動かせば、まるでカナダの原野に立つ心地がする。
このカメラを国会に据えては如何。常時見せる。テレビで受ける側は、自分が見たい議員へポイントを持って行けばよい。手元が見たければズームすればよい。
既に定位置のライブカメラはあるのだ、今回の大雪でもライブカメラをネットで見ることで、私は大垂水峠の雪の状況をつぶさに知ることができた。役に立つのである。国会中継でも、記者会見でも、小賢しい意思を含んだカメラアングルなど邪魔なのだ、パノラマ、ぐるぐる回しのカメラを据えてくれた方が気持ちがすっきりする。
いまの報道は、言葉では、形容詞・副詞の微妙な使い方で情報を操作し、カメラ目線も際限なく操作している。すでに信用を落として久しいメディアの人間力をカットして、かわりに器械で機械的に報道してほしい。

宗教法人への課税

今の世の中は、ずいぶん進んでいると思う一方、千年の昔とほとんど変わらない部分も持っているのだ、と感じる。日本の人口は、約1億2千万人、宗教法人が、それぞれの信者数を発表している、その合計は2億2千万人を超える。掛け持ち信者がいるだろうし、水増し発表もあるに違いない。それはともかく盛況である。人口の倍近い信者数とは恐れ入ったものだ。私の知人のあいだにも、「あんた、教祖にならないか」「まわりで盛り上げるから」といった冗談半分の企画もあった。儲け話である。
奈良時代に、ぞろぞろと真昼間に道を行き来している坊主が大勢いたと記されている。生きるに苦労多かった一般人は、男も女も坊主、尼になりたがったという。正式に認められる僧侶は、試験を受けて合格する必要があった。戒壇院が、その試験場であった。しかし自称坊主も、とがめられる事もなく生きて行かれた。私度僧といって、お坊さんの姿をすれば、即お坊さん、尼さんである。空海も、はじめは私度僧だったので、まじめな勉強家もいたわけではある。人気があった理由は非課税だったから。
いまでも、宗教法人には課税されない。私には、免税される理由が分からない。一般並に課税してやって欲しい。
宗教の人たちは、それなりに立派なことを言うのだから、非課税はふさわしくありません、税金を納めたい。という発言があってもよさそうなものだが、聞いた事がない。

耳よりの話

最近、難聴故に耳の本をよく読む。そのなかに書いてあったことだが、補聴器は両耳に装着するのが望ましい、その理由は、片耳につけていても充分聞こえる、しかし、補聴器をつけた側の耳だけに頼ってしまい、つけていない方の耳は、休んでしまうのだそうだ。ワタシは働かなくてもいいわけね、となるらしい。さて、こうして暮らしているうちに、なんと補聴器をつけていない方の耳は完全に聞こえなくなってしまうそうだ。恐ろしい。このような退化現象は、すこし入院した経験のある方なら、強くうなづかれることと思う。
歯も、たとえば下の歯がなくなった場合、すぐに部分入歯をつけることが大事で、ないままにしておくと、噛み合わせる上の歯が、徐々に伸びてくる。伸びる、という表現より、落ちてくると言うべきだろう。恐ろしい。
洞窟に棲む魚が、目が退化して目のない魚になっている。水族館で眺めて、へええ、と感心している私だが、サカナ事ではない、自分の持つ各所を始終使いこなさなければならないと痛感する。

二度あることは三度

二度あることは三度ある。三たび目のマイクロチップ。無理に三度目を作ったわけではなく、偶々今日、映画「トワイライトゾーン」のDVDを観ていたら、予期せぬ所に現れたのだ。
この映画は1982年製作,翌年公開された4編の連作。原作は、アメリカで1959〜64年に放映されたSFTVドラマシリーズ。とても人気があって日本でも「ミステリーゾーン」のタイトルで放映された。
このなかの第4話「 NIGHTMARE AT 20,000 FEET」にマイクロチップが出てきた。嵐の夜、飛行機に乗っている乗客のひとりが、翼に怪物を見る。信じない乗員、乗客。このとき、パニックになっている「見た男」の気を紛らわせようとして客室乗務員がいう、お客さん、なんという本をお読みなんですか。パニックの男は答えて、あ、これは「マイクロチップの未来」って本です。客室乗務員は微笑して、「まあ、お客さん、SFがお好きなんですね」。
SF世界の夢物語を好んで読む人物像を強調するための小道具として現れたマイクロチップの本である。このときから何年経っただろう。
いま、マイクロチップは非常に大切な場面で活躍し、さらに多方面で期待を寄せられている。SFではなくなった現在を思うと感動せずにいられない。どれほど多くの基礎研究者たちが、努力してきたことだろう。
今回、DSファーマ株式会社は、マイクロチップの欠陥商品の割合が15%だ、と公表した。これは異常に高い割合だと思う。これを、9月に「製品の中の一部に欠陥がみられ」たと軽くいなして、それっきり、いまもって解決の方向さえも見せないのは、この半世紀、SF世界にいたマイクロチップを現実の世界に持ってきて、役に立つよう努力を重ねてきた多くの人々に対して、申しわけが立たないと思う。

ふたたびマイクロチップ

サイの密猟について読んだ。TIME (タイム・アメリカのニュース情報誌)VOL177,NO24 2011号に出ていた。年々その数を減らしているサイを密猟するのは誰か。そして何故か。それは漢方薬として角が売れるからだという。そこで保護するレンジャーがヘリコプターで、サイを探し出して捕獲し、角の中にマイクロチップを埋め込む運動をしているという記事だった。無惨に殺されて角だけを持ち去り放置された大きなサイの死骸。その写真は目を覆うばかりだ。一緒に写っているレンジャーの人の様子からも、その衝撃と悲憤の感情が伝わってくる。こうしたことを少しでも防ぐために、マイクロチップが追跡の手段となって密猟が「絶滅」されることを強く願う。
先日来、マイクロチップが動物の体内で破損し、データが読み取れなくなり、チップのガラスにひびが入った(割れた)事故を起こした
DSファーマアニマルヘルス社のことを、読みながら考えた。同社がホームページに出したメッセージ「不具合な品が出ました。動物の体内に与える影響があるにしても、その影響は極めて少ない云々」という、いい加減、無責任な姿勢で製品を作られてはたまったものではない。
影響はある、しかしいまのところたいしたことはないという欺瞞語を、私たちは福島原発事故でさんざん聞かされたのだ。マイクロチップはさまざまな場面で動物の命を守る役目を担っている。事業を行う人々は、利潤よりも先に、土台として持つべき精神を忘れてはいけない。東電の人々も保安院の人々も、そしてDSファーマの人々も、人として持つべき根本精神を忘れたというより、最初から持たないために、言を左右に、あいまいな欺瞞語で切り抜けようと謀るのだ。このような腐蝕した魂の日本人が繁殖すると、早晩日本はダメになる。

路上の犠牲者

先日のこと、高速道路を走っていて、サービスエリアに入ろうとして「P」のサインから左へ上がり徐行した。その先で普通車と大型車が分かれるあたりでタヌキが轢かれて死んでいた。どうして轢くか、と私は悲しくてたまらない。徐行しなければならない地点、目の前に突然現れても、並のブレーキで防げるはずなのに。この場所で、止まれなかった、は言えない。言い訳にもならない。
もうひとつ。一般道路の車道の真ん中でカラスが轢かれて死んでいるのを見た。このときは歩道を歩いていたので、次の車に轢かれないよう、傍らの街路樹の根元に置いた。上の電線にはたくさんカラスがいて、仲間の事故に大騒ぎをして鳴いていた。たいへんだ、たいへんだ、と言っているように私には聞こえた。カラスが車道で轢かれるのは、車から落ちた食べ物を目当てに降りる故である。車が近づくと飛び立つのだが、間に合わずに轢かれてしまうことが、たまに起きる。間に合わずに、だろうか。目の前に生き物を見たら、すこし速度を緩めれば飛び立てるのだ。ブレーキを踏むまでもないほどの気遣いで済むのに。
タヌキ、カラス、もっとも多く犠牲になるのがネコである。横断中のネコをみかけると、「ひき殺してやれ!」とアクセルを踏む人がいるのだ、と友人から聞いた。背筋が寒くなる。ふざけて「それーっ、轢いてしまうぞ!」と言いながら、実は目の前を横切るネコが渡り切るのを見届ける人は、いくらでもいるものだ。こういう人たちは、ほら、怖かったでしょう? これからは気をつけるのよ、と思っている。でも、本気で生き物にぶつけるなんて。現実に自分の自動車の車輪で、生き物を、ネコをタヌキを、カラスをひき殺して走り去るという神経は、私は恐ろしいと思う。
話が横にそれてしまうが、私が轢かれたカラスを車道から街路樹の根元に運んだ時のことだが、すっかりカラスに誤解されてしまい、ひどい目に遭った。私を加害者と見て取ったカラスたちは、怒りに燃えて私を襲ってきたのだ。違いますって。あたしじゃないって! 説明しても、叫んでも彼らはカンカンである。しかたなく近くのお店に飛び込んだ。常日頃カラスと仲良しの私だが、このときほど困ったことはなかった。

マイクロチップの事故

9月半ばのことだった。ニューヨークのマンハッタンをうろついていた猫が保護された。名前はウィロウ、住所はフロリダと、すぐに判明。どうして分かったかというと、体内に情報を入れたマイクロチップを埋め込んでいたからだった。5年前に家出して、およそ2500キロはなれたニューヨークまできて遊んでいた。最近、迷子になった犬や猫が、マイクロチップのお陰でで助かっている。口がきけない彼らにとって大きな救いである。
ところが今回、ある会社の製品に故障が出た。チップを保護する表面のガラスに亀裂が入ったのだ。情報が読み取れなくなり、用をなさないばかりか、割れガラスの破片が体内に残った。この亀裂チップを埋め込まれた猫を、私は知っている。親友の猫だ。摘出手術をしなければならない、と友人は暗澹としている。会社に伝えたら、即座にチップ代を返金したそうだ。HPには、一部の製品で品質上の不具合が確認された。このマイクロチップが動物の体内に与える影響はあるとしても、極めて少ないと考えられる、として、飼い主様に多大なご迷惑とご心配‥‥、という常套句で結んでいた。詳細をお読みになりたい方は、以下のHPをご覧下さい。http://animal.ds-pharma.co.jp/ 
影響はあるが少ないという表現に確実性は見えない。言い訳に過ぎない、と言われてもしかたがない。欠陥商品だったから、じゃあ、お金返しますという。私は、摘出手術代を負担すべきだ、と憤慨した。友人は言った、「姿はネコだけれど、まさしく私の仲間、家族。モノではない」。
一所懸命に生きるちいさな命に対して、悪かった、の一言もない会社には、動物のための製品を扱う資格はないと、私は思う。

多読はよいことか

カートを置いている図書館が増えた。借りるときに、書棚からカートに本を入れて貸し出しの手続きをする。ひとり10 册借りることができるから、親子連れで借りたら相当な冊数を運ぶ場合も出てくる。子どもたちは実によく読むらしい。本をたくさん借りて、返して、を繰り返しているので、そう思う。そんなにたくさん、つぎつぎに読んで行かれるものだろうか、と不思議な気持ちにもなる。
私自身の子供の頃とはくらべるわけにはいかない。時代が違う、というのではなく、事情が違うから比べることはできない。戦争中で、本が少なく、手に入りにくかったし、図書館というものの存在を、私は知らなかった。買ってもらったわずかの本を、繰り返して読むことになる。何度も読んだ本を、また開く。いまでも、持っていた昔話の絵本の、どのページにどのような絵があったかを覚えている。菅原道真の事を書いた絵本を持っていて、そのなかに、太宰府に流された道真が石に腰を下ろし、まわりにしゃがんでいる子どもたちに、長く細い棒で、地面に字を書いて教えている絵があった。いまも、道真の、その表情も覚えている。
図書館でふんだんに借りて、どんどん読んでは返して行く子どもたちには、本への渇望、飢餓感は、理解できないだろう。
食べ物と、書物は似ているところがあって、どちらも、ぞんざいにしてはいけない。どちらも、丁寧に扱わなければいけない。味わうことも似ている。毒なものは取り入れてはいけない。大食もよろしくない。

女人禁制

高野山へ参拝した折りのこと、案内してくれていたお坊様が、女の方はここまででして、と会釈されて奥へ進んで行かれたことがあった。高野山は女性にも開かれたが、細かい部分では、今でも女性が足を踏み入れてはならぬ、という場がはっきりとある。仏教系、神道系、修験者系のそれぞれに女人禁制の場はあり、広く知られている場には相撲がある。土俵に女を入れない。以前、女性の大臣が土俵にあがると主張して話題になり、騒ぎにもなったが、その後どうなったのだろう。男女差はあるべきではない、どのような職業でも性別に関係なく進めるのが自然だし、当然という考え方は、大歓迎の大賛成、拍手喝采だ。しかし従来ある女人禁制の場については、私は現状維持に賛成である。お相撲の土俵に上がる、上がらせたくない、という押し相撲は、すべきではない。高野山の奥の院のその奥なども、女はここまで、と言われたら引き下がるのがよい。このことについて、私は不満はない。なぜ女人禁制としているか、その歴史を丁寧に示してひとつの伝統的風習として伝え、存続させて行くことは、あながち悪くないんじゃないか、という考えを持っている。この先、新しい女人禁制の場が作られることはないだろう。せいぜい、女性専用車両という、男子禁制の場は増えるかもしれないが。だから、あの土俵に上がることにこだわった人について私は、度量が狭いなあ、絶対作らねばならぬ、絶対守らねばならぬ職業の自由と伝統的風習を混同することはないんじゃない、と思っている。

イタリアとドイツ

6月14日の朝、イタリアの国民投票の結果が出た。これは原発再開の是非を問うもので、投票率が有効の50%を超え、反対の意見が90%を超えた。これで再開は断念された。先にドイツが原発廃止を表明した。日本などは、真っ先に、最初からしない方針を取るのが当然なのだ。
イタリアの判断、ドイツの決定は、福島原発事故を見たための決断にちがいない。先進国と言われる国の一つで起こったこと、世界中から津波対策のお手本として見学に来ていた地域が被った甚大な被害を見た、知った、が故の方向転換だと思う。日本は、どういう考えでいるのだろう? 日本の政府は、まるでアメーバみたいだ、ナメクジのようにのろのろと、はっきりしない緩慢な動きをして、しかも常に勘定と感情が入り乱れている。
電力はどうするのだ? 経済成長の遅延はどうするつもりだ? という考えは、過去に葬り去るべきだと私は考えている。価値観を大転換する必要がある。
右肩上がりじゃなくては、やっていけないのか? 水平で良いじゃないか。会社は拡大、拡張するのが運命なのか? 経済学のイロハも知らずに暴論だ、と見向きもされないとは思うけれど、学問や理論以前の土台に生きる人々が基本なんじゃないか。だいたい、がんばったって、ほんの一握りの人が巨万の富を手に入れるだけで、右肩上がりになろうが、バブルがどうなろうが、普通の人たちは関係ない、関わることができていないのだから。スポーツの人も芸能の人も、普通の人たちから見たら、桁違い過ぎて、凄くヘンだ。私が彼らから受け取るものは違和感だけであり、親しみでもなく、楽しみでもありはしない。
山梨県の観光案内所へ行った。カウンターの中に何台かのパソコンがあり、もちろん電話があり、人がいて、パンフがたくさんあって、親切細やか。楽しい催し満載。見回すとホールの周囲の壁に、主役の富士山をはじめさまざまな観光スポットの写真が張り巡らされている。それは全部、大判のガラス額で、内側から光を当てている写真。いつか友人の葵さんが話していたトイレのことを思い出した。彼女は羽田空港をしばしば利用するので、空港のトイレの話をしてくれたのだ。トイレの個室の中に、まさにこの観光写真的発光広告があるそうだ。どこぞの目立つ廊下の電灯を、目立つように薄暗くするより、考えることがありそうなものだ。

日本人の感覚は、おかしい

炉心溶解。メルトダウン。3月11日当日から知っていた、あるいは、そうだろう、と見ていた専門家が多数いたのだ、と今日の報道で知った。
原子力委員会の記者会見があった。ある記者が「メルトダウン」だということですか、と確認をした。そのときの原子力委の答。
「燃料が溶けて、、、原子炉の底が破れている、と言うことを、そう呼ぶのであれば、それでいいです」それでいいです、と平然と言ってのけた男は無表情だった。

今回の大震災で福島原発が崩壊したことは、大きな意味がある、ヒロシマとナガサキを抱える日本で、この大きな原発事故が起きたことに、大きな意味があると、私は書いたし、いまも同じ考えでいる。
世界に向けて、また自国の自分たちに向けて、8月がくるたびに原爆反対を主張してきた日本人が、一方の手で、国策として原発を推進し、日本列島54カ所にプラントを作り、崩壊した危険な工場について、「そう呼ぶのであれば、それでいいです」。
三陸の被災地を助けようという、がんばろう、のかけ声は頼もしい日本人の心意気だ、被災者への同情と支援、協力の努力があり、そしてなによりも取り返しのつかない死について、皆が心を寄せている。が、このことと、原発事故を混ぜてはいけない。津波と地震で原発事故を覆い隠してはいけない。独立した地球規模の注目すべき大事故なのだから、世界中の国に対し、地球に対し、永久に責任を背負わなければならない。
私は、もう、ヒロシマだ、ナガサキだ、を口に出来ないのではないかと思っている。もしも、今年の8月にも、それを主張したかったら、今、たったいま、声を大にして叫ぶべきなのだ、原爆の苦しみを知っている国民ですから、どれほど不自由な思いをしても、経済成長が思わしくいかないにせよ、それよりも大切なことを守り抜きたい。それは原子力を使わないで行きて行くことです。
私は、ゴマメだ、ゴマメだが、ここで、歯ぎしりをする。日本人として、そのくらいの決心が出来ないのか。日本は腐ってしまったのか、ハート、脳みそメルトダウンでうごめくゾンビになってしまったのか。
私だったら、世界に向けてこう言います。
「負けきっている国と承知の上で、落としてくれた原子爆弾だった。それを被ったヒロシマ・ナガサキを、日本国民は忘れない。世界中の誰が、どこの国が、原子力をいじろうと、知ったことではない。だが、日本だけはしません。そのためにひもじい思いをしようと、ぼろ屋に住もうと、断ります。風力、水力、波力、自然の力を借りて暮らします」。
日本人だったら、あの戦争の最後を思う人だったら、この原発事故に際して、黙っていて欲しくない。どうしてだろう、沈黙が漂い、木霊の気配もないのは。
myExtraContent7
myExtraContent8