文房 夢類
文房 夢類
myExtraContent1
myExtraContent5

壺猫

文房 夢類

校正と校閲

「夢類」第26号の発行が12月になったことから、発送などの仕事が年をまたいだ。十日になってようやく一段落した。
「夢類」は個人誌だから著者校に始まり著者校に終わる。三校の後、もう一度見て責了として印刷所へ渡す。ここでさらに校正が入り校了となる。
今回は写真の仕上がりも満足行く出来で印刷所共々喜び、もちろん校正ミスは考えられなかった。「夢類」はカラーを使わないので色校正はないので簡単だ。
印刷所から手元に届いた、パッケージを開いて表紙を見る、そして本文ページを開く、この時のワクワク感が、今までの労苦を帳消しにしてくれる。

最初に目に入った見開きページの下段。あらら、ら。校正ミスだった。あれだけチェックしたのに。完全無欠のはずだったのに。最初に開いたページに間違いがあるとは。
漢字一文字の間違い。結局、校正ミスはこの一文字だけだったのだが、ゼロにならなかった悔しさは一通りのものではない。
校正とは、生原稿を希望のフォント、希望の配置にして入力したものを、元の原稿と突き合わせて誤りを正す作業のことだ。
簡単に言うと、カラスとあるべきところがガラスとなっていたら、カラスに直さなければ意味が通じないというわけだ。

もう一つ、校閲という作業がある。これは同じく「校」の文字がついているが仕事は全く違う。内容の正誤を確認する仕事だ。出所の確認である。俗な言い方をすれば、ウラをとること。
例えば人物の名前、住所、生年月日、有名な事件が起こった年月日。地名、気象は言うに及ばず、ありとあらゆる事象を確認する。これは踏み込んだら最後、終わりはない。古今東西森羅万象に及ぶ。
校閲が優秀な出版社がある。私は読者として、この出版社を心底尊敬している。創業者が校閲を大切にした、これが伝統となっているに違いない。今度生まれ変わったら、こんな世界に身を置きたい。
私は校閲も自分自身でやるから、自分の尻を叩きながら進むようなものだ。滑稽な有様だが、この緊張が生命に張りを持たせているのかもしれない。
最近の事だが、ある人が某出版社は校閲部を持っているのか、ないのではないか、という疑問と批判の言葉を発した。
名指しされた本についてはさておき、校閲部があるのかという言葉は、出版社にとっては、お前は人間かと問われているに等しい刃だ。

アメリカのテクノロジー企業googleは日本でも情報サービスを行い、いまやなくてはならない情報源となっている。しかしここで手に入る情報は校閲を通ってきていない情報だ。誰の保証もついていない情報である。このことを承知の上で利用するには問題はない。
最後に言いたいことは、まともなメディアは校閲を通さない情報を流すべきではない、という一言だ。この一言を言いたいがために校正、校閲のゴタゴタを述べてきたのだ。
マスゴミと呼ばれる数多の雑多メデイアは、それなりにやっていたら、それなりの受け手がそれなりに楽しんでくれるだろうから文句はない。
しかしNHKは違う。NHKだけは、校閲を通さない情報を流してはいけない。反則だ、とまで言いたい。
どういうことか、というと、「関係者への取材で分かりました」という前置きのもとに言いたい放題。「有識者の意見では」という前置きで、言いたい放題。
この枕詞を聞き流して、内容だけを聞き取ってしまう視聴者は被害者だ。
有料視聴をさせられている「みなさま」は、まさに入れ食い状態で「私たちのNHK」の、故意のデタラメもありうる情報を丸呑みし、釣られている。
いまどき、朝日、毎日、読売、産経、東京、共同などなどを、まともに信じて受け入れるバカがいるか。この人物ならと選んだ個人ブログへ走っている。
私は個人誌の主だから、自身の発言に全責任を背負っている重さが身にしみる。今や存在力を持つのは組織ではない、個人だ。
責任を回避し、責任を他者になすりつけ、嘘つき冷酷のアベ政治、このアベ政治の水先案内人と化したNHKは、亥年の本年、豆腐の角に頭を打ち付けてくたばってしまえ。
myExtraContent7
myExtraContent8