文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
世相 主張 

アレクシェーヴィッチの旅路

スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチさん、福島を訪問
アレクシェーヴィッチさんは、2015年にノーベル文学賞を受賞しました。ジャーナリストとして初めての受賞です。
1948
年、ベラルーシ人の父とウクライナ人の母のもと、ウクライナに生まれた女性、国籍はベラルーシ。
ノーベル賞受賞理由は「我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して」です。
ノーベル賞受賞の時の演説で、このように述べています。「フローベールは自分を「ペン」だと言いました。私は自分を「耳」だと申し上げましょう。私はこの演壇に一人で立っているのではありません。私の周りには声、たくさんの声があるのです。私が耳を澄ますのは、心の歴史、暮らしの中にある魂です。」
アレクシェーヴィッチさんは、フクシマの人々の声を聞きたい、とかねてから願っており、5年経った2016年に、その機会が訪れた、この記録をテレビで見ることができました。
タイトル=BS1スペシャル アレクシェーヴィッチの旅路ーチェルノブイリからフクシマへ
では、この中にある彼女の言葉のいくつかを紹介します。以下、断片と私の解説。

 アレクシェーヴィッチ=チェルノブイリの話になると、私たちの国ではすべて、アンダーコントロールと言ったわけです。でも、コントロールとは何か、誰も知らなかった。炉が消火されても現地の関係者は言っていました、「中で何が起きているか、わからない」フクシマも同じ状況ではないかと思います。要するに「人間は自然に勝る力を持っている」という、昔と変わらない発想なのです。人間は社会の階層を信頼しがちです。お偉いさんがいうことを、例えば首相が、私たちのところなら書記長が「コントロールしている」ということはできる。でも、事故直後被災地で養蜂家は、なぜミツバチが10日間も巣から姿を現さないか、わかっていなかった。ミツバチは人間には聞こえない何かを聞いていたのです。私の両親はウクライナとの国境に近い村に暮らしていました。チェルノブイリ原発から約100キロの汚染地帯です。医者だった妹はチェルノブイリの近くで働いていました。その後妹は、癌を発症して亡くなりました。
  注=残された一人娘、ナターシャを彼女は養女として育てている。
    小さな声を聞いて歩くアレクシェーヴィッチは、小柄で地味。いつも出会うおばさん、という感じ。
    チェルノブイリには、ゾーンと呼ばれる汚染地域がある。半径30キロ。「立ち入り禁止区域」の大きな標識。ゾーンのゲートは、年一回、元住民に開かれる。墓参りのためだ。
    ゾーンの中にはサマショール(自発的帰村者)と呼ばれる人が生活している。故郷で暮らすことを望んだ人々。高齢者が多い。
    子供達の被曝状況を調べてきたベルラド放射能安全研究所の所長さんが言う、牛乳の汚染状況は、原発から200キロ地点でも、ひどいです。
    前半でチェルノブイリの状況が描かれ、後半が福島となる。
    トンネルを抜けて行く常磐線列車内のアレクシェービッチ。小高(おだか)駅下車。
    国は小高村の地にも避難区域解除を次々に進めてきた。飯館村のほとんどは、今年、331日に解除される。
    このブログを書いているのは翌4月
1日で、バスの運行開始を告げ、祝いの様子を伝えている。
    飯館村も放射線量は高く、人口6200人全村避難となった。村に積まれているフレコンバッグ(汚染土を詰めた袋)は230万個と言われる。

 アレクシェーヴィッチ=(小高の農家の主婦にインタビューをして)放射能は、まず農民を撃った。大地と生きる自然の人々を。居場所をもがれた、まさに根こそぎ折られた花です。
しかし彼女は言った、「これも私の人生。生き抜かなければ」。彼女の生命力には、心が震えました。
(前田地区の長谷川健一区長との会話で)私たちのところでは、国家は人々に線量計を全く与えませんでした。人々が真実を知ることを恐れていたのです。

長谷川が答える、「日本の場合は、線量計そのもの、なぜかしら、そういう人たちが持っているものより、我々が持っているのが低く表示をするということがあるんですね」
  注=長谷川は村に設置されたモニタリングポストと、研究者が持ち込んで計量する数値の差に疑問を抱き、研究者の持つ線量計と同じものを購入した。
    以来、村の計測してきたモニタリングポストあたりで、(数値が)2倍に上がった。
    2011年、20倍以上あったのが、除染後は、2倍程度にまで減少。しかし問題は山。除染できない。雨風で1.23以下は難しい。
     これが長谷川の実感だ。
 アレクシェーヴィッチ=誰か、どうすべきだ、とか、これは食べてはいけないとか、教えていますか?
 長谷川=一応、教えてくれる人はおります。でも、この飯館のきのこなんか、すごーい汚染度になっています。
     しかしみんな、それぞれに、少しくらいならいいだろうと、そういう思いで食べている人がたくさんいる。
 アレクシェーヴィッチ=わずかな線量が徐々に蓄積されます。チェルノブイリでは、そうですが、フクシマでも。
 長谷川=行政とかが出れば、絶対ダメだと、そういうことを言わない。だから食べられますよ、というものだけが放送される。
 アレクシェーヴィッチ=それは残念ですね。私たちの事故後の記録は、ここでも読まれる必要があります。10年、20年後に、あちらでは病気が始まっています。
  注=牛舎で首を吊った人の遺書が、壁に白墨で書かれていた。
        壁の遺言ーー姉ちゃんには大変お世話になりました。
        ごめんなさい、大工さんに保険でお金を支払ってください。
        残った酪農家は、原発に負けないで頑張ってください。
        ケサヨさんには、言葉で言えないくらい、お世話になりました。
        何もできない父親でした。
        原発さえ なければ
 アレクシェーヴィッチ=私は、思いました。社会主義であれ、資本主義であれ、国家は似たようなもの。
        国家と役人たちは国家と自らの救済に忙しい。人間を救うのではなく、人々はそれぞれ孤独に苦難を耐えているのかもしれない。
        しかし、皆がそうは行きません、彼にはできなかった。
        それに、私がフクシマで見たのは彼ばかりではなかった。おじいさんが自殺してしまった女性もいました。
 自殺したおじいさんの家族の美枝子=やっぱり、私は自分の胸にしまっておくことは可能だと思っているの。
        でも、こういうことがあったと、皆さんにわかってほしいし、あの、私のような気持ちを持った方が、まだ、たくさんいらっしゃる。
        皆さん、やっぱり、(自殺されて)困っていらっしゃる。
        やっぱり、恥だと思ってると思って、やっぱり、世間に知られたくないと思われてる。
アレクシェーヴィッチ=より多くの人々が、このことを知る必要があります。
        そこに、抵抗の力も生まれます。
アレクシェーヴィッチ=なぜ、絶望して首をくくらなければならないのか?
        だから、どのように抵抗すれば良いのか、人々には経験がない。
        あの人たちは社会から切り離され「のけ者」のようにされています。
        被災を免れた人々は「あの人たちは兄弟、同じ人間だ、これは自分の身にも起こりえたのだ」と実感できない。
        多くの人にとってチェルノブイリ・フクシマは、医学や経済の「数字」に過ぎません。しかしあの人たちにとっては「生命」そのものなのです。
        チェルノブイリとフクシマの文化を創らねばなりません。新しい知を、新しい哲学を。
        私はフクシマでチェルノブイリと同じ感覚を抱き続けました。
       「私は過去を見ているのではなく、未来を見ているのだ」と。

福島から東京へ来たアレクシェーヴィッチは、東京外国語大学で若者たちと向き合った、その時の言葉幾つか。
アレクシェーヴィッチ=私は昨日、福島から戻りました。私のいちばんの感想は、チェルノブイリの時と同じでした。
        国家は人間の命に対して完全な責任は負わない、ということです。最低限の補償をし、あとは「好きにしなさい」です。

        社会における抵抗のなさにも驚きました。
        私たちの社会もそうですが、あなたがたの社会には「抵抗の文化」がありません。
        これは私たちの国では、全体主義国家という問題と不可分でしたが~~。
        さて、あなた方の国はどうでしょうか。
        残念ながら人間は未来ではなく過去にすがろうとします。
        人々は古き良き時代に想いを馳せます。こういう日本がかつてあったと。
        トランプ大統領誕生も、失った、あの偉大なアメリカを人々が欲したためです。
        そして過去は守ってもらいたがる。しかし、過去はフクシマやチェルノブイリからは守ってくれません。
        「自」「他」という区分けは過去のものとなり、もう機能しません。
        人々は未来を恐れています。過去とは似ても似つかないものになる。
        それがわかっているから恐れます。
        ですから若い世代に私が言える唯一のことは、孤独でも「人間」であることを、丹念に続けるしかないということ、

       「人間」であり続けること、それ以外にあなたをこの世界で守ってくれるものはありません。

アレクシェービッチの締めくくりの言葉
        私の歩んだ道は、すでに数十年になりました。重荷を感じたこともありました。
        人間に感動し、怯えました。
        ドキュメントは、人が心の奥底に秘めたものを語れます。タブーは、ありません。
        一人一人の真実の叫びによって、私たちが何者かを理解するのです。
        大切な問いの答えは、まだ見つかっていません。
        どうして私たちの「苦悩」は「自由」へと変換できないのでしょう。
        私は時代を、そして人間を追い続けます。              終
以下は私の感想
私は、インタビューを受けた中のひとり、菅野さんの言葉がリフレーンして耳から離れない、
菅野さん=飯館村に帰ります。ただし、
     村と国と企業が私たちに安全と安心を、どれほど担保に入れるかが問題だと思う。
     我々が作った26ベクレルの蕎麦。100ベクレルから見れば低いです。
     ところが北海道の蕎麦はゼロベクレル。26のと、どっちを買います? 

菅野さん、村と企業と国が安全と安心を提供してくれることを期待するのですか? なぜ国は、避難区域を解除したのですか? 生き物の体にとって安全だと判断したからだとお考えですか?
そうじゃないでしょう! オリンピックまでに形だけでもアンダーコントロールと見せたいからでしょう? 補償の必要が減るからでしょう?
私は汚染された食物は買いませんし食べません。国は、台湾や中国に対して、買えと迫っていますが、これは暴挙です。台湾も中国も拒否して当然です。拒否しなければいけません。
臭わないし、味も変わらないから、ほんの少しなら大丈夫だから、産地が気の毒だから、などは理由として不適当です。汚染された山は汚染されたままです。その麓でどう生きろというのでしょう。
なんとかして汚染地域に帰らないで暮らせるように知恵を絞り、力を集めて助けたい。故郷へ戻ることだけが人生ではない、そこのところを考え直してもらいたい。こっちへおいでよ、と汚染地帯から引き離さなければ。それをなんということか、避難者がいじめられるとは。汚れきった者どもに災いあれ。
日本中の原発は海岸際に作られています。3.11の時の汚染拡大の地図を見て欲しい、膨大な汚染が海に拡散した、この部分は検証ゼロ、野放し状態です。そして今も、1日も休まず間断なく海に漏れているという現実を見つめて欲しい。日本政府は国民を汚染の渦に叩き込んだのみならず、太平洋を汚染し、今もなお汚染を続けているという大罪を犯している、このことを世界に対して、地球に対して、申し訳なく思っているのかどうか。
どこの港から水揚げされたから安全だなどという、おざなりなセリフを信ずる者の胃袋に災いあれ。
最近のNHKは、「日本人の二人に一人はガンになると言われています」と繰り返し放送しているが悪質きわまりない! こういう印象キャンペーンを張ることで、被曝による影響でがん患者が増加してゆく現象を消そうと計っているのは、誰が見ても明白です。政府と結託して国民を貶める下劣な報道者に災いあれ。
怒りと抵抗。これはわが魂をいとおしみ守ろうとする者に不可欠の人間らしい行為です。抵抗する魂が日本にもあるのだと知ってもらえるような生き方をするつもりですが、さて抵抗の文化がないという指摘には首肯せざるを得ません。これを乗り越えるには、事実の把握と連帯から始めなければ。そしてパンドラの箱の底に残っていた唯一のもの、「希望」を持ち続けることが必要だと思うのですが、陰湿ないじめが文化といっても良いほどに、子供だけではない、大人全体に代々染み込んでいることが、我と我が身の足を引っ張る原因となっているように思われます。

毎年、年の初めに、その年のテーマ文字を決めている。今年は勇。反論を慮り、発言を控えることをせず、勇を鼓して思うところを書く、という気持ちから選んだ。来年のことを半年も前から言うと、鬼もどう笑ったものか困るかもしれないが、来年のテーマ文字を選びました。「聲」。これは声の旧字です。「字統」(白川静)をみると、旧字の上半分は磬石(けいせき・楽器)を鼓(う)つ形。これに、その音を聴く意をもって、声を示す、とあります。
これは、今回の都知事選に立候補された鳥越俊太郎さんが演説の中で、声を聴くこと、人の声に耳を傾けることを大切にする、と仰っていらしたのを聴いていて、そうか、声って耳で聴くんだわ、声の旧字を見たらわかるわ、ちゃんと耳がついてる、と思ったのだ。
書くことは大切だが、書かれたものを読み取る力も大切。思うがままに喋りまくるのもよかろうが、人の声に耳を傾けて真意を聞き取る丁寧さと誠意も求められる。続けて鳥越さんの話題へ。

お待たせしました

最近は、ATM(現金自動預払機)をよく利用するようになった。銀行では相当数のATMを用意しているが、三等郵便局では一つあるだけだ。歩いて行かれる近くの郵便局のATMが使いやすいので、時に行列ができる。終わってATMを離れるときに、私は次の人に「お待たせしました」と言う。ちょっと会釈するくらいの軽い感じで言う。小さいときから親のすることを見てきている、自然な仕草の一つと思ってきた。同じような自然な仕草は雨の日の傘にもある。細い道で傘をさした者同士がすれ違うときに、傘を反対側に傾けるのだ。
ところが「お待たせしました」と言う人がいない。出会ったことがないことに気付いた。いつからだろう、皆、知らん顔をして去って行く。傘も知らん顔だ。余程困った人は、グイッと腕を上げて、傘を一段高くして通り過ぎる。日傘の女、男の日傘を見たことがないので、女だが、これがいちばん悪質だ。傘をささない周囲の人に目もくれず、信号待ちでも、雑踏でも傘をさし続ける。
こうしたことに気付いてからしばらくの間、近頃はかわったんだ、イヤだなあ、と思っていた。最近は自分の方が変化して、そうだ、若いもんがしないから、自分もやめてしまうのではなくて「お待たせしました」を続けようと決めた。町の年寄りがすることを見てたから、と覚えていて、私くらいの年になったときに真似する人が生まれるかもしれない。
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