文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
February 2016

断捨離

最近になって「断捨離」という言葉を知った。造語だという。断行、捨行、離行という3つの行があるそうで、ヨーガの修行と聞いた。これを応用して人生や日常生活を洗い直して身のまわりをせいせいとして暮らそうということのようだ。実践している人がたくさんいるらしい。本棚はスカスカ、食器も僅かで、衣類も数えるほどしかない。徹底して物をため込まない方針を貫く暮らしだ。
もしも私が真似をしたら、ずいぶん、部屋が広くなるにちがいない。でもでも私は、物を捨てることが苦痛で、捨てる苦しみを味わうくらいなら、身の回りに堆積しているほうが気が楽だ。気分が安らぐではないか。つまり安心する。
あの3.11の時は、地震発生の当日から丸一ヶ月間を、食品を買わずに備蓄食品だけで生活した。突然、ある時点から食べ物が得られなくなったときに、どうするかというテストでもあった。結果、いまのような暮らし方をしているならば50日は籠城可能と確信した。
食品以外に、繊維製品が必要であり、これは服を何着か持っている、というだけでは非常時に対処できない。多用途に利用できるものを備蓄する必要がある。単独の目的にしか使えないものは減らし、変幻自在に使い回せる物は、手放すべきではない。
若い人たちは、必要なときに買ってくればいいと考える。お金を信じているのだ。お金があっても買うものがない世界を知っている世代が減った。猛烈なインフレを味わったことがない日本人が増えた。大丈夫だろうか、こんなにおっとりとしていて。
老人は、いましがたの出来事は忘れてしまい、大昔のことは、よく覚えているものだという。その通りに違いない、私は氾濫する豪華な製品群、贅沢に過ぎると感じられる料理などを、あっというまに忘れてしまう、というか見ていても信じていないのだ。確実に信じている物は、手の内の洗いざらしの手拭いである。

電車やバスに乗ると、あっちでもこっちでも小型の板ッ切れを手にしている。見つめている者、読んでいる者、操作している者、さまざまで、最近は老若男女あらゆる人種がたしなむのであります。なかにはイヤホンをつなげて聞き入る者もいて、板ッ切れの種類は多種多様。一昔前はすし詰め通勤電車のなかで新聞を広げる人たちが多く、いかに小さく折りたたんで読みたい頁を出すか、腕を競っていたものですが、まったく見られなくなりました。
代わりに目立つのが指先です。ネイルアートはさておき、若い人たちの指の、なんと細いことでしょうか。男女ともにです。とても器用で、細かい事に向きそうな指先。
戦後、いまどき戦後などというと場違いに聞こえますが、1950年頃から数十年の間に、日本人の身長は驚異的に伸びてきています。目安として、親より20センチは背の高い子供たちだと言います。さらに顎が細くなりました。私は電車に乗るようになり、若者たちの指先に目が留まり、あらためて生活の変化が肉体に及ぼす影響の大きさに気付きました。その気になってTVをみると、アナウンサーやキャスターなんかも、ほんと華奢な指してますよね。
このか細い、しかし器用な指先たちが一生のあいだ、キーボードを叩く、スワイプする、これだけで暮らせたら目出度しです。箸より重いものを持ったことがない人、という昔のたとえそっくりの姿です。
ある日、わが身の肉体だけが頼りだという場面に遭遇したとき大丈夫かしら。
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