文房 夢類
文房 夢類
myExtraContent1
myExtraContent5

壺猫

文房 夢類
February 2015

笑いの種類

創作でもっとも高度の能力を必要とするのが、受け手に笑いをもたらすことである。怒りや悲しみを伝えるほうが容易いというと語弊があるが、一直線に万人の胸に飛びこんでゆく。しかし笑いは一筋縄ではいかない。笑い転げる人がいる反面、くそ面白くもねえ、とそっぽを向く者もでる。笑いを作る芸術家を、私は花祭りのひな壇の最上段に飾りたい。笑いを醸し出せる俳優はすてきだ。そういう意味で選ぶと、男雛はフランスのルイ・ジューべ。女雛はアメリカのマリリン・モンロー。いまどきルイ・ジューべを知る人は少ないだろう。お二人とも故人であるが、芸術は永遠です。
と、これは枕で、今日話したいことは、笑いについての大発見についてです。『社会脳からみた認知症』というタイトルの伊古田俊夫先生の著作のなかに、笑いの分析を見つけました。この本は、あらためて読書評で紹介しますが、私の書架にある何冊もの笑い分析本とはまったく異質で、しかも納得の神髄があります。
認知症になると笑わなくなるということから、笑いを追っている。人が笑うためにはユーモアを理解することが必要で、落語を聞いて笑うのもおかしさが分かるから。一方、ユーモアに関係ない笑い、それは自虐的な笑い、作り笑いなどで、この笑いは、脳の中の別の部分、運動野(随意運動中枢がある)を使っているというのです。ユーモアを理解して笑うほうは、前頭葉など別の2カ所を作動させていて、運動野ではないから、自然とこみ上げてくる笑いだといいます。笑いは不眠症がなおるし、免疫力も強くなり、疼痛の緩和にも役立つのだと、書いてありました。
洋の東西を問わず、笑いの分析者は数多く、しかしそのすべてが文人によるものでした。脳の世紀と呼ばれる今世紀に入り、ますます進む脳内探検は、笑いの分野へも踏み込んできたのだという感慨を持ちました。
それで思い出しました、度重なる失意の入院生活の折々に、私が心血を注いでいたことは、回診の医者たち、巡回の看護師たち、掃除の係など、ベッドサイドに現れる人たちを短い一言で笑わせることでした。瞬間芸。よくまあ、これほど苦々しい顔になれるもんだ、とこっちも口がへの字になりそうな大先生が、片頬でかすかに漏らしてしまう笑みに、その日が猛烈嬉しくなってしまう。友人の夫が外科の勤務医で、陽気な患者は傷の治りが早い、と言っていたそうですから、陽気がどうであれ、また雪が降るにしても、良質な自然に湧く笑いとともに生活したいものです。

今の日本は新しい。前と違う。

識者という名の妙な人種は誰が作り出したのか知らないが、彼らがしたり顔に言う、今の日本は、戦争を始める前の日本の空気とそっくりだ。それは分からんでもないが、あの時代は反対意見を発言できなかった。特高が怖かったことが一つ、もう一つは、一般の人に発言の場がなかったことだ。せいぜい、自宅のちゃぶ台の前で、つぶやくだけだった。安倍首相と、彼を囲む人々は、自衛隊が参戦できるようにしたいし、言論弾圧・統制もしたいし、国民からもっと金を搾り取っていいように使いたい、そういう魂胆は、たしかに戦争前夜と同じだろう。現に、物騒な方向に進みつつあって、報道なんか、文句を言われる前に大人しくなって言いたいことも言わない有様だ。しかし、今の日本は前とは違う。普通の人々が誰かの意見に反対し、あるいは賛成し、自分の意見を公表する。ツイッターだか、ブログだか知らないが、とにかく広場に立って大声を上げるよりも、もっと効果がある方法で、声を上げることができるのだ。この点が前とは違う。実は自分も、そう思っていたんだ、と今時代につぶやく者は、卑怯者か、意気地なしだ。私も古賀茂明氏の意見に賛成なので、I AM NOT ABE.と唱和します。日本国民だからと言って、安倍と同じ意見と思われたくない。

節分は季節の分かれ目

豆まきの宵。とりたててなにもしないけれど、この冬ごもりの季節に私は、コツコツと保存食を料理する。去年の春から夏にかけて収穫されて乾燥され、漬けられ、保存されてきた食物を消費するのが、この季節だ。海苔、昆布の味、干芋、干柿の甘味、さまざまな豆たち。ほとんど食品を買いに出ずに過ごすやすらかさ。そう、懐も温かい。人生にはバイオリズムがあるが、節分をピリオドとして繰り返される波もまた、すてきなバイオリズムだ。

歴史を学ぶ

私は、石原慎太郎が嫌いで、ダイッ嫌いだ。何が嫌いと言って、彼の女性に関する発言のすべてが唾棄すべき暴言である故である。けれども、今回の大事件、二人の日本人がISISに殺されるに至った何日かにわたる緊張の経過の中で、石原慎太郎の一文が産経新聞(2105.1.23)に出た。タイトルは「イスラムテロに絡む歴史の背景」。主張するところの土台は、中世期以後の歴史の本流が、キリスト教圏の白人による、有色人種の土地の一方的な植民地化と収奪による白人の繁栄だった、という点にある。歴史を見よ、と言う。私は、これに大賛成だ。あのゴロツキ共が述べたてたなかに十字軍という一語がある。見過ごしてはならないことだ。歴史は、現在を如何に生きるべきかを学ぶためにある。二次元ではなく三次元四次元の座標軸の中に日本という国を置いて眺めてみたい。
そうすれば、今回、いよいよ川向こうの火事ではなくなった、日本だってテロにやられる可能性が出てきた、なんて騒がなくて済むのだ。これは慎太郎が言ったのではない、私が言っていることです。慎太郎は、続けてアメリカを罵倒し、村山談話くそ喰らえ的なことを書いている。この部分も、決して無視すべき内容ではなく、むしろ村山談話は、歴史を土台に置かずに発言した皮相的な舌先、と見る故に、村山談話に限って慎太郎を支持しますが、それはさておきです。
イスラムに対して日本は、決してキリスト教圏の国と組んではいけなかった。一本立ちの姿を見せるべきだった。日本は、キリスト教国でもなく、イスラム教でもありません、と表明すべきだった。地球上でただひとつの神道の国です、という立ち位置を示すべきだった。殺されて悲しみ、怒るのは、相手が望む反応を与えているに過ぎない。許さない、なんて言うべきではなかった。相手の思う壺にはまっただけだ、と壷猫が嗤う。
殺されないように努力の限りを尽くし、それでも殺されてしまったならば、内々で如何に嘆き苦しもうと、相手には平然とし、昂然と頭をあげているだろう、私だったら。で、言いたい。
「お前らが、お前らの土地で流した日本人の血は、実はいま、その一滴一滴が生きているのだ。お前らの地に染み入り、天の太陽と合体し、お前らに、これから報復を始めるだろう。日本は神道の国だ。日本人は、世界中の誰であれ、同じようにつきあってゆくつもりだ。しかし。お前らによって殺された無垢なる日本人の血は、太陽の力を受け、お前らの地に染み入り、神道の力を持って永遠に報復を続けるだろう」。
さあ、日本の首相は何を言うか、と世界中が聞き耳を立てている、視聴率からいったらダイヤモンドタイムであった。日本の姿勢のみならず、首相個人の人格も、人間性も表現できたはずだ。どうして、あれほど無にしたのかしら。
myExtraContent7
myExtraContent8