文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

個人化

私は長らく同人誌と関わりながら生きてきた。断続的に同人誌の同人となり、今は個人誌を発行しているが、かれこれ60年を越えた。
最近の同人誌というと、漫画・アニメ・ゲーム系二次創作の同人誌が隆盛を極めており、ビッグサイトに行ってびっくりしたのはだいぶ前のことだ。オリジナル作品に限って発表している一次系は、少ないのか目立たない。
だいたい、同人誌というものが生まれたのは明治時代で、小説・俳句・短歌などを寄り集まって書いて作っていたものだ。今は俳句・短歌専門に発表している集まりを結社と呼んでいる。秘密結社というと迫力があるが、俳句などが結社という呼称を好む理由は知らない。
本家というべき文芸同人誌は、高齢化に加速度がついて年々減少の一途をたどっている。高齢者は肉体的ハンデに加えてパソコン使用がネックで、高額の制作費を捻出しなければならないことも減少の原因ではないかと思っている。
最近は紙の媒体をやめてインターネットからのダウンロードで伝え合う「デジ同人」が増えつつあるのだから、伝統的文芸同人誌の先細りは止まらない。私も「デジ誌」にしたいのだが、これに移行すると読者のほとんどがアクセス不能状態、存在しないも同然となるので困っている。
このような惨めな有様であるのに、文芸個人誌が増えてきていることを最近になって知って意外な感じがした。個人誌こそ希少種、絶滅種だと思っていたのだ。
そこで世の中を見回してみると、カラオケではワンカラという、一人用のカラオケが人気で増加している。先日、新宿で見つけたのだがTSUTAYA BOOK APARTMENTでは、24時間営業で個室ブースのレンタルがあった。独りで何するんだろうな、とカウンター周辺をうろついていたら、次々と利用者がやってくる、対応が間に合わなくて並んでいる、という繁盛ぶりであった。女性も多い。
お笑い芸人のヒロシさんは、一人でキャンプに行くそうだ。キャンプファイアを囲んで歌を歌って、というキャンプではないという。独りで、自分流儀の火を起こして、一人分焼く。焼いたりしないで途中のコンビニで買ってきて食べることもあるそうだ。
これに人気が集まり、ひとりキャンプのヒロシさんに、ぞろぞろとついてくるそうだ。キャンプ場に着くと散らばって、それぞれが一人キャンプを始めるという。ひとりは寂しくはない。ひとりは疲れない。

校正と校閲

「夢類」第26号の発行が12月になったことから、発送などの仕事が年をまたいだ。十日になってようやく一段落した。
「夢類」は個人誌だから著者校に始まり著者校に終わる。三校の後、もう一度見て責了として印刷所へ渡す。ここでさらに校正が入り校了となる。
今回は写真の仕上がりも満足行く出来で印刷所共々喜び、もちろん校正ミスは考えられなかった。「夢類」はカラーを使わないので色校正はないので簡単だ。
印刷所から手元に届いた、パッケージを開いて表紙を見る、そして本文ページを開く、この時のワクワク感が、今までの労苦を帳消しにしてくれる。

最初に目に入った見開きページの下段。あらら、ら。校正ミスだった。あれだけチェックしたのに。完全無欠のはずだったのに。最初に開いたページに間違いがあるとは。
漢字一文字の間違い。結局、校正ミスはこの一文字だけだったのだが、ゼロにならなかった悔しさは一通りのものではない。
校正とは、生原稿を希望のフォント、希望の配置にして入力したものを、元の原稿と突き合わせて誤りを正す作業のことだ。
簡単に言うと、カラスとあるべきところがガラスとなっていたら、カラスに直さなければ意味が通じないというわけだ。

もう一つ、校閲という作業がある。これは同じく「校」の文字がついているが仕事は全く違う。内容の正誤を確認する仕事だ。出所の確認である。俗な言い方をすれば、ウラをとること。
例えば人物の名前、住所、生年月日、有名な事件が起こった年月日。地名、気象は言うに及ばず、ありとあらゆる事象を確認する。これは踏み込んだら最後、終わりはない。古今東西森羅万象に及ぶ。
校閲が優秀な出版社がある。私は読者として、この出版社を心底尊敬している。創業者が校閲を大切にした、これが伝統となっているに違いない。今度生まれ変わったら、こんな世界に身を置きたい。
私は校閲も自分自身でやるから、自分の尻を叩きながら進むようなものだ。滑稽な有様だが、この緊張が生命に張りを持たせているのかもしれない。
最近の事だが、ある人が某出版社は校閲部を持っているのか、ないのではないか、という疑問と批判の言葉を発した。
名指しされた本についてはさておき、校閲部があるのかという言葉は、出版社にとっては、お前は人間かと問われているに等しい刃だ。

アメリカのテクノロジー企業googleは日本でも情報サービスを行い、いまやなくてはならない情報源となっている。しかしここで手に入る情報は校閲を通ってきていない情報だ。誰の保証もついていない情報である。このことを承知の上で利用するには問題はない。
最後に言いたいことは、まともなメディアは校閲を通さない情報を流すべきではない、という一言だ。この一言を言いたいがために校正、校閲のゴタゴタを述べてきたのだ。
マスゴミと呼ばれる数多の雑多メデイアは、それなりにやっていたら、それなりの受け手がそれなりに楽しんでくれるだろうから文句はない。
しかしNHKは違う。NHKだけは、校閲を通さない情報を流してはいけない。反則だ、とまで言いたい。
どういうことか、というと、「関係者への取材で分かりました」という前置きのもとに言いたい放題。「有識者の意見では」という前置きで、言いたい放題。
この枕詞を聞き流して、内容だけを聞き取ってしまう視聴者は被害者だ。
有料視聴をさせられている「みなさま」は、まさに入れ食い状態で「私たちのNHK」の、故意のデタラメもありうる情報を丸呑みし、釣られている。
いまどき、朝日、毎日、読売、産経、東京、共同などなどを、まともに信じて受け入れるバカがいるか。この人物ならと選んだ個人ブログへ走っている。
私は個人誌の主だから、自身の発言に全責任を背負っている重さが身にしみる。今や存在力を持つのは組織ではない、個人だ。
責任を回避し、責任を他者になすりつけ、嘘つき冷酷のアベ政治、このアベ政治の水先案内人と化したNHKは、亥年の本年、豆腐の角に頭を打ち付けてくたばってしまえ。

白内障

年明けに白内障の手術を予定している知人が二人もいる。去年は、やはり二人いた。
揃って60歳以上の方々で、欧米のように早期に手術に踏み切る人は少ない。
夫の伯母が白内障の手術を受けたのは、やはり相当高齢になってからだったが、これは50何年も前のことだった。その時伯母はもちろん入院したのだが、術後の3週間を上を向いて寝たきり状態で過ごした。
トイレに行けない、上体を起こして食べることもできない、想像を絶する固定状態。私に言わせればミイラスタイルの3週間だった。
退院した伯母は涙を流した。随喜の涙であった。見えるようになった嬉しさのせいか、ずいぶん素直になったように感じたものだ。

他人事と感じていた白内障が我が身のこととなった時、時代は進んでいて15分足らずの手術時間、1日の入院、あとは通院で視力を回復してもらったのだ。今はどうだろうか。
通院環境にもよるが、日帰りも可能なほど負担が軽くなり、まるで常識であるかのように、この微細な高度の技術を必要とする治療が普及してきた。
一昔前に伯母が手術に踏み切った頃までは、諦めるしかなかったのだ。視覚障害者となって耐えるしかなかった。この有難さは表現できるものではない。
水晶体の中、液体に微細な粒がたくさん浮遊して、これが邪魔をして見えなくなるので、眼鏡による補正が効かない。朝日に向かったら、視界は輝くすりガラスだ。テレビに出る大写しの顔の目鼻が見えない。目と口の位置がなんとなくわかる。

近く手術をする方に、お風呂に入っている時には見えました、と手紙を出したら、なんと同じだった。お風呂に入っている時は、少し見えるそうだ。面白い現象。水蒸気の作用かしら。
近く手術を予定される方々に伝えたいことがある。それは、濁った水晶体を除去して人工的な内容に置き換わることにより得られるものは、視力の回復だけではない、ということを強く伝えたいのだ。
病院で丁寧な説明を受けた内容の受け売りだけれど、生まれたての赤ちゃんの水晶体は、それはもう澄み切っていて美しいものなのだそうだ。年月を重ねるにつれて、自分の手の甲の色と同じくらいの色に濁ってゆくのだそうだ。よく見えていても無色透明な水晶体ではないのだそうだ。
手術によって、生まれたての赤ちゃんレベルになる、だから世の中が鮮やかに、あるべき色合いに映るのだそうだ。
治ることで、テレビの目鼻が見えるだけではない、空の青とは、こういう色だったんだ、椿の葉の色は、こういう緑だったんだ。
見るものの鮮やかさ、新鮮さに感動する日々が待っています。

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