文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
主張・世相

発言する勇気

石原慎太郎さんが自身のツイッターで尊厳死についての意見を述べた、というニュースを読んだ。この方は女性蔑視の発言多々あり、私は、これに関して随分批判してきた。
今回の彼の意見は
「業病のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で『殺害』容疑で起訴された。武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ」(原文ママ)というものだ。「裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい」とも。
この件は『高瀬舟』以来、私も思い続けてきた重い課題だ。同時に多種多様な考え方があり、一つを主張すれば必ず他方が反駁する、難しい課題だ。それを百も承知の上で堂々発言をする姿勢を、勇気ある行いとして高く評価します。
顔を伏せ、左右を横目で盗み見つつ、大勢が決まる時期を伺う態度を賢いこととして実践している諸々を常日頃軽蔑しているので、このスッキリした態度に出会い清々した。
ところでわれらの時代の旗手、大江健三郎さんはなんか発言なさらぬか。一言も二言もあって良いのではないか。もっともわれらの時代の年齢を思えば、健康上の理由から思うにまかせぬ場合多々あることだから文句をつけるわけではない。
それにつけても闘病中にもかかわらずの石原慎太郎さんの発言は気力充実、あっぱれ。
追加に私自身の意見なしでは、腑抜けになるので付け加えます。私は本人の精神を第一に尊重し、その希望に沿った態度をとることが、真の生命尊重に当たると考えています。これは、人間個人にとって、生命とは何かという基本的な問題です。
バカの一つ覚えで、イノチのタイセツさ! と叫び立てて、何が何でも肉体の存続方向へと首に縄をつけるようにして引きずってゆく態度は、鈍感+残酷だとしか言いようがない。残酷の土台には実体験に基づく単細胞思考があるのではないか。

高齢者の務め その6

イノシシからネズミの年に入った時、まさかこんな困難な年になるとは思わなかった。世界中の誰もが思っていると思う。
2月初旬のことだった、今までお世話になっていた近所の内科医が、諸般の事情で閉院。新しい医院を訪れたときのことだ、毎月通うようにと指示された。
高齢ではあるが、特に急を要する治療が必要ではない。私は医師に頼んだ、時節柄、と私は言った、毎月の通院はしたくない、せめて2ヶ月に1回、できることならもっと期間を空けてほしい。
医師には伝えなかったが、通院回数を減らしたい理由が二つあった。ひとつは、例年のことだが通院によって風邪をもらう機会が増える、特に冬の間は。これを避けたかった。
二つ目の理由は、新型コロナウィルスを警戒する気持ちがあった。ウィルス関連のニュースも増えていた。私は肺炎を恐れている。家に引きこもっていれば罹患の機会は減るはずだ、と考えていた。
通院回数を減らして欲しいと頼んだ私に対して医師は言った、「いうことが聞けないなら、ウチに来るな」。
女性一人で経営している町の医院である。
はっきりモノを言うのは大歓迎だが、鈍感だと感じた。相手の心の内を感じ取ろうとするセンサー、新型ウィルスに対するセンサー、この二つが欠けていた。
なぜ、毎月の通院が必要なのですか、と私はさらに尋ねた。
答えは、高齢者はしばしば管理する必要がある。毎月通わせることで、当院への縛りをかける意味もある。
ありがたいことだ、はっきりと答えてくださった。

医者は治療してくれる人、という通念があり、実際、その通りなので、感謝尊敬雨あられである。お医者さんが言うことは、即従う。
ではあるが、ある医師から聞いた事だが「すべての医師は、職業についている期間内に、必ず一人は殺している」。

さて、高齢者の務めとして、医者にかかった経験を若者よりより多く持っているのだから、医者選びについても、若者たちに助言をためらうべきではない。
逆に言うと、良い医師の、どこがどのように患者にとって良い医師であるかを、経験に基づいて伝えるべきだ。
もう一つ、この新型コロナウィルス・パンデミックの渦中にいて、高齢者の務めとは何か、を考えた。
一にも二にも、感染を防ぎ、罹患しないことだ。病院も医師も看護師も大忙しなのであるから、急を要する人たちのために、高齢者はじっと動かず、子供らには近寄らず、
嵐の過ぎ去るまで物忌みスタイルで蟄居するべきだと思う。これは自分の命を守ろうという意図ではない。高齢者のために手をかけさせてはいけない。思いやりを持って我慢したい。
高齢になるまでに身につけた知恵を活用し、迷惑をかけないように引っ込んでいることが、一番の応援だ。

心と繋がっている言葉

もう一度、池袋の母娘殺人車のことを言いたい。
お弔いをした夫であり3歳の娘の父でもある人が、うなじを垂れたきりの姿で語った。
それは、家族3人が当然持っているものと思い込んでいた未来が断ち切られた、まさに絶望の心を、訥々と言葉に絞り出したものだった。
どのメディアも反芻し、再現、再放映を繰り返す。力を込めて叫んだ言葉ではない、ようやくの思いで振り絞った言葉だった。これを受けとめて心揺さぶられる人々で日本が溢れていることもわかった。
先日の、元野球選手の清原さんの言葉も同じだった、頭で考えて作った言葉ではないのだ、心と繋がっている、技巧も作為もない、ハートそのものの言葉だ。
この哀れすぎる悲劇が、運転免許を返納する決心へと繋がってくれることを願っている。
市街地に住む高齢者に強く訴えたい。免許返納こそが、悲嘆にくれる父への弔辞であり、命を落とした母娘へ捧げる一茎の花となろう。

一方、加害者である高齢の男は入院中とのことだが、意識不明ではなさそうだ。一生を一所懸命に生きてきた最後のキワに、取り返しもつかぬ殺人行為をしてしまったことを、どれほどの思いで受け止めていることか。
なぜ、沈黙するのか? なぜ、言葉を発しないのか?
まさか、何も思わない、感じてもいないということもあるまい。
事故発生直後に息子に連絡をして、できる限りの防衛対処をしてのけているという。共謀である息子も沈黙しているが、おそらく弁護士をつけて万全の備えをしているのではないか。
過失であれ人殺しである。3歳の幼女は、行く手の人生を断ち切られた、この男は、過去を失ったとも言えるのだ。
ここで不用意な発言をすることが不利益につながると計算するような未練の男であるか。
赤裸の心を、なりふり構わず吐露することが、せめてもの人生終末期の態度ではないだろうか。憎悪心を持ち、狙い殺したのではないのだから。
この男こそが、同時代、同年輩の人々に向かい、免許返納のお願いの言葉を発するべきなのではないだろうか。
たぶん無言を貫いてメディアから逃れようと図るだろうこの男と息子に災いあれ。

自動車運転免許について。全国全員の高齢者が免許を返納することは、決して現実的ではないということを付け加えて言いたい。
電車、地下鉄、モノレール。駅前タクシー、流しのタクシー、高速バス、路線バス。
こういうものに囲まれた地域で生活している人は、日常生活で自家用車を運転しなくても、不自由なく暮らせる。車椅子を使う人でも単独行動が可能なこともある。
しかし日本は市街地だけではない、モノレールも地下鉄もないし、バスだって1時間1便のところがたくさん、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県などにも、いくらでもあるのが現実。
運転を諦めて、30分ごとに来るバスを待つことは大きなストレスだし、体力も持たないから荷物が持てない。そのバス停まで、どれほどの距離を歩いてくるのか、途中で腰を下ろして一息入れる石段も決めている。
1時間1本のバスに乗るために1時間歩く。このような地域は広いけれど人口が少ないので声が小さい。
運転を止めた後の受け皿なしに、やめろやめろと強要するのは、単細胞で無慈悲な態度だと思う。

高齢者運転免許

高齢者が引き起こす自動車事故が深刻な状況だ。今回は87歳の男が3歳の女児と、その母親を即死させた。悲惨さに胸塞がれる一方、高齢者の運転免許返上が話題に上る。
自分のことを言うと、去年の誕生日で返上した。最寄りの警察の交通課で、自主返納する理由を訊かれた。なぜ、理由を尋ねるのかと係員に問うたところ、アンケートを集計してデータを分析するのだという返事だった。
免許返納を決めた理由の、当てはまるものに印をつける。家族に勧められたから。同年輩の知人が返納したのをを見習って。必要がなくなったから。ひやりとしたことがあったから。自信がなくなったからなどが並ぶ。
どれ? と係員。う〜ん、どれでもない。と私。じゃ、なんで? と係員。
2つ理由があってね、一つは、ジジババがハンドル握ってるのを見るでしょう、停止線で停まるかな? 不意に飛び出さないかな? ってね、すごーい疑いの目つきで見ちゃうんですよ、あたし。
同年輩の人たちですからわかるんです。信用できないわよ。でね、私だって疑いの目つきで見られてるわけじゃないですか。ヒトにそういう心配させつつ続けるのって、どうよ?
あのジジババと私は別よ、って言える? 言えないわよね。いや、言っちゃいけないんだわ。
いいから。もひとつは? と係員。
こっちが肝心なんです。それは、車から公共交通機関に、いつか切り替える時期がきます。市街地に住んでいるのですから。切り替え時期が、あまり遅いと変化に順応できにくいでしょ。
適応できる力がある年齢のうちに切り替える必要があると考えているからです。車、好きだけど。すごく必要だけど。
困ったな。「その他」に丸するかな?
その他か。あたしの人生っぽいなあ、その他って。 
いいね? これ、穴あけちゃうよ!
悲しかった。もう走り回れないんだ。ギザギザパンチを入れたカードを返してもらった。
でも切り替えなくちゃ。先を見つめて元気に進むためだ。

真実は揺るぎなく強い

007のスター俳優、ショーン・コネリー Sir Thomas Sean Connery が言った言葉、として私が書き留めている一句があります。
「常に真実を話さなくては。なぜなら真実を話せば、あとは相手の問題になるから」
簡単なようで難しい言葉、というのがあって「はい」と「いいえ」が、その代表格でしょう。もう一つ加えると「真実を話すこと」だと思うのですが、この3つに共通することは、思いのほか勇気が要るということ、強い精神を持っていてこそ使えるということだと思います。
その場を荒立てたくない、あるいは言を左右に取り繕ってしのごうという思惑から、曖昧な言動で逃げる。追い詰められると、あの時はコミュニケーション不足で、と常套句を出してさらに逃げるというのが氾濫しています。

安倍晋三総理大臣を筆頭に、彼を担ぎ支える一団は、この権力を他者に渡してなるものか、という強い執念を持って国政をほしいままにしています。国民なんかどうでも良いのです。彼らが掴んで離さない「権力」、これさえあればわが世の春というわけです。
どうしてこんな理不尽な有り様が続くのでしょう。地から天へ向かって雨が降る、安倍政権がしていることは、これほどひどい行いなのに、これほど長く続いているのはなぜでしょう。続くことを許しているのは誰であり、なぜなのでしょう。
昨今、スポーツ界でもいくつもの出来事があり、日本大学のアメリカン・フットボール部の問題が注目を浴びていますが、安倍政権の有り様と、そっくり重なって見えます。
国にとって最も大切な国民をないがしろにして、我欲に溺れる安倍総理。大学にとって最も大切な学生をないがしろにして、我が身の保全を図る監督、コーチ、理事長、学長など。
さて、このとき選手の周辺の人たちは、どうしたでしょうか。長い物には巻かれろ、と我慢することにしたでしょうか。この先は、明日以降に展開されて行きます。今はまだ、わかりません。
子供向けの絵本にして、結末をつけてみましょう。
あるところに悪い殿様がいました。嘘をついて村人を騙し、自分と、自分の家族と友人だけが贅沢をして威張っていました。次のページ。これを眺めていた東村の村長が、俺も真似しよう、と村人をそそのかして隣の西村の川の水をせき止めさせました。西村の田んぼは干上がりました。
次のページ。西村の村人たちが集まりました。俺たちの村長は、悪い殿様の真似はしなかった、東村はひどいじゃないか、と騒いでいるところへ南村と北村からも村人が集まってきて、悪いことは許さない、と相談が決まり、川の流れを元どおりに直してしまいました。
最後のページ。東村の村長は、おらが悪かった、と謝りました。そして一番悪いのは殿様だ、と言いました。東西南北の村は相談して、田んぼでできたお米を、殿様には一粒もあげないことに決めました。

イルカより

和歌山県太地町で昔から行われている追い込みによるイルカの捕獲について、世界動物園水族館協会から止めて欲しいという趣旨の意見が出された。賛否両論あることは、以前から知っていた。しかし太地で捕獲したイルカを、国内の水族館のみならず中国や東南アジアの国国にも売っていたとは初耳だった。水族館は、伝統的な漁法を持っている太地から容易に入手できるために、繁殖による方法を開発してこなかったのではないだろうか。
上野動物園にオオタカが展示されている。このオオタカは傷ついて飛べなくなっていたのを動物園が引き取り、治療し、説明をつけて展示している。傷は癒えたが飛べず、野生に戻ることができないオオタカだ。私は、上野動物園の大きなケージの中でじっと佇むオオタカに会いに行く。彼はふたたび飛翔できないことを知っている。ほとんどの客が通り過ぎ、わずかの人が温かいまなざしで見つめる目を見る。種が異なっても生き物同志だ、温かさは伝わりあう。
 元気一杯な生き物を捕まえてきて、珍しいでしょ、可愛いでしょ、と見せるのは不要だ。まして「芸当」をさせるのは残酷だ。イルカショウなんか、止めてくれ。芸当させられている囚われの者。もしかするとヒト以上の能力、感覚を秘めているかもしれない者。サル回しのサルたちの寿命が短いのは、ストレスが原因なのだ。そんなことを言ったらサーカスもなくなる、というだろう。なくしてしまえ。ヒトは傲慢に過ぎる。パンダだって、法外な金額で借りてきて、何様かと思うほどの設備のなかに置かれている。あんなもの、原産国でのびのびしているだけで充分だ。見たくもないわい。
 水族館では見たこともないような珍種が勢揃いしているが、入手方法を公開できるか。誰に委託し、何処で捕獲した個体か。平均寿命は何歳で、現在何歳かも公開して欲しい。水槽内で死なせてしまう数多の生物たち。華やかな水槽の裏側、殺風景なコンクリートの作業場に充満している死に、私は我慢できない。いままでは、これでよかったかもしれないが、映像技術が発達した今の時代は、映像の方がより多角的に情報を受け取ることができる部分が生まれた。先日、上野の国立科学博物館で「大アマゾン展」を見た。水槽内の生きている魚、動物の剥製、そして映像の展示があった。ここで最も人だかりのしているのが映像+音声だった。そこには現地の森林があり、のびのびと動き回る動物たちがいて、声を上げている。解説が入る。目が離せない。剥製の鳥や獣の前では、眺め、名前を読み、次の展示へ移動するだけだ。水槽では、どこどこ、と隅っこにいる魚を探し、いた、と言って次の水槽へ行く。
3Dの展示が発達したら、密林の中や、大湿地帯の中を歩き回り、アマゾン川を舟で遡る映像の中に身を置くこともできるだろう。将来の動物園、水族館は、介護、治療、研究の場として大働きをして欲しい。

年末の選挙

国民が、一人一票の選挙権をつかって投票した総数の中で、現政権に投票した数よりも、野党に投票した数のほうが多いと聞いている。安倍政権が始まった瞬間から、不満である国民のほうが多かった。野党が結束して立ち向かえば、国民の総意が政権に反映される、と野党は主張している。その通りなのだが、今回は苦々しい気持ちで野党を見ている。いつもなら応援するのだが、今回は素直になれない。その理由は、野田佳彦前首相が、民主党内閣の時に、民主党支持の核心の部分を破棄して、まるで安倍さんが喋っているのではないか、と耳を疑うような転換をした故である。当時も、野田よ、だったら自民へ行け、という怒りの声があったのだ。あのとき民主党は、なぜ支持されたのだろう。主張する政策を支持したのだ。肝心の政策内容を変えるのであれば、そのときこそ総選挙をすべきではないか。夜陰、誰かにそそのかされて方針を転換か、とも罵倒された野田。こうした連中を含む民主党は、支持できない。自民も悪質だ。ウチワだ、ワインだ、ネギだ、など、どの議員もやっているようなことで2名を辞任に追い込んでおきながら、三権分立に抵触する行為を犯した片山さつきを沈黙の鍋底に隠した。それを知らないメディアではないはず。黙っているのは、荷担しているのだ。NHKはいつものとおり悪質だ。今回の選挙は、アベノミクスを評価しているか、どうかが問題です、と枕詞のように繰り返している。ここに有権者の目を引きつけようという魂胆が丸見えだ。問題は、腐敗しきっている安倍政権、野田のような変節漢を含む民主党、うじうじした小競り合いに明け暮れている他のみんな。いったい、この日本をどうすればいい? 選挙よりも、このことを国民が考えなければ始まらない。ひとりのこらず白票を入れたらいい。

素直な日本人

私は経済に疎いので利いたような口をきけないけれど文句を言いたい。4月から消費税が8%にあがる。私は大反対だったし、いまでも大反対だ。理由は、一般生活者の経済力が衰えていて体力が弱っている、と感じている故である。さらに10%へ上げるなんて狂気の沙汰だ。ガソリンを上げ、大手製造企業に圧力をかけてベースアップをさせ、インフレへ持って行こうと値上がりを目論みる安倍政権。デフレ脱却を強引に推し進めようとしているが、痩牛の尻を叩いても、幾筋の縄をかけても、動けぬものは動けない。春の青草の丘を見せれば黙っていても丘を登るだろう。
それはともかく、消費税を上げることが決まったとたんから、国民の反応は、うじうじと反対を呟くことから一転して、上がった後の対応に向かった。何を買いだめすべきか、に関心が移った。昨今の狂騒ぶりはなんなのだ。スーパーの出入り口に積まれたトイレットペーパー。ガソリンスタンドに入ろうとして行列する乗用車。いまのメディアは安倍政権の太鼓持ちだ。国民のために力を出す気がないのだろう。一般の生活者が目覚めて力を出す以外に道はない。私は余分に買いだめをせず、さらに来月からは8%の節約をするつもりだ。決まっちゃったんだから、しょうがない。こんな寝言をいう高齢者もいるようだが、それでも抵抗する道はある、と言いたい。余りにも素直な日本人の群。素直なのではなくて、アメーバのような脳なし骨なしなんだと私は思う。
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