文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
June 2012

社説とコラム

新聞には社説とコラムがある。朝日新聞なら天声人語、読売新聞は編集手帳、よみうり寸評、毎日新聞は余録をはじめ、膨大な数のコラムを擁する。東京新聞は筆洗。日本経済新聞は春秋。ここに、社の見識と人で言えば人格が現れる。この中の王者が朝日新聞の天声人語で、朝日新聞は、自ら書いている、「大学入試問題に非常に多くつかわれる天声人語。読んだり書きうつしたりすることで、国語や小論文に必要な論理性を身につけることが出来ます」。
天下の朝日と言われてきた朝日新聞の天声人語は、お手本だった。が、だいぶ前からおかしくなっている。いま、これを手本としていたらどうなることか。いまごろ言うか、と笑う声が聞こえるが、表だって誰も言わないことである。
力を抜いてきているのなら話は簡単だが、そうではない。まじめに書いているのは分かるのだ、一般読者のみならず、社内でも当然読んでいるだろうに、この「おかしさ」に気づくことがない。ここでいう「おかしさ」とは、面白い、笑いたくなる面白さではない。冷蔵庫から、おかずのパックを出して、お勝手にいる誰かの鼻先に持って行って訊ねる、これ、おかしくない? そういうおかしさ、である。おかしいよ。捨てたら? うん。ダメだね。と続く会話。腐ったら、鯛でもダメなのだ。腐敗は、内部、深部から発生し、崩壊するしかない。
私の鼻がどうかしているのかしら? 捨てた方がいいよ、と感じているのだが。これは社会の問題としないで、文学のジャンルに入れよう。
ついでに言うと、読売新聞は、あのとおりだが、意見の方向はそれとして健康体だ。いま一番魅力的で、溌溂として勢いがあるのが東京新聞だ。

ドラマ

演劇、映画、TVドラマ、どれもが魅力で、ドラマ一筋に情熱を燃やしてきた。これが憑きものが落ちたかのように熱が冷めてしまい、我ながらとまどっている。結局は「感情の転がし」ではないか。人間、感情の波乗りで人生を送るのはもったいない。大切な事柄を決めるときに、感情を入れてはダメだ、と私は日頃自戒しているが、ドラマは、どうでもいいようなことで大騒ぎをしてみせる。およそ1年近くテレビを見ないで過ごし、最近、数局が映るようにしてもらったので大喜びで見始めるが、どうしたことか、つまらなくなって切ってしまう。とくにドラマを見るのが苦痛になった。気合いを入れて制作された映画は、これはよい。とてもよい。しかし、量産されるTVドラマは役者もいい加減で、学芸会だ。表情も表面だけの作り物で見ていられない。しかも、朝っぱらから叫びたて、怒鳴るのには辟易する。
人って、家庭で大声で怒鳴ったり、叫びたてたりはしないものだと思いませんか。戦争映画で怒鳴るのは結構だけれど、ホームドラマでは、止めてくれ、と思う。静かに台詞を言う自信が、脚本家にも演出にも、役者にもないのだ。ここまで書いてきて、やはり良いドラマを書きたくなった。
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