文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

総理の責任

大飯原発を、総理大臣の責任において再開するという。野田総理大臣が責任をとる? いったい、どんな? どうやって? 最近ケイタイで頻繁に使われる笑顔のマークをつけたい。あるいはツイッターにあるwwマークを。
私は、これほど軽い弁舌をきいたことがない。二枚舌という舌があるが、羽毛の軽さ、溶けて消える儚い舌だ。信頼されていないヤツが力んでみても見向きもされない。
まだ決断しない自治体の説得に努めるというが、自治体を金で左右する自信があるということだろう。このために費やされる莫大な金額。このお金は税金ではないか。貧すれば鈍する。原発が無限の害毒と知りつつも、目先の困窮に耐えられず金に転ぶ。国民から搾り取った税金を投げ与えて転ばせる総理大臣も大臣なら、分かっちゃいるけどいただきます、ハイと言えとおっしゃるなら、ハイとでもイエスとでも申しましょう、という転び自治体も腐りきっている。どうしてくれようと力めども、一顧だにされぬ我が身かな。

トカゲとヤモリ

トカゲとヤモリは家のまわりに住み着くことが多いから、よく見かける。トカゲ、カナヘビは日の当たる石の上などが好きで「明」の印象があり、ヤモリは艶のない灰色の姿、手足には吸盤があり、日陰、暗がりを好むから「暗」といえよう。ヤモリは家守とも書き、これが家の中のどこかにいることは昔からよい印と思われて、居住を容認されてきた。どちらも臆病で用心深く、すばやく逃げ隠れてしまう。そのくせ鳥に食べられたり、猫に捕まったりするから、抜けているところもある。私は、庭のゴロタ石の隙間などをわざと作って、彼らが住みやすいように計らっている。ヤモリのためには、植木鉢を何個か伏せて重ねて南側に置くなどしてやると、安心して冬を乗り越えるのだ。ところが年々、数が減り、大きな個体を見なくなった。そういえば、以前はガマガエルが庭を横切って行ったりしたっけ。ガマの姿を見なくなって久しいことに気がついた。家まわりから、小さな生き物が減ってゆく。ダンゴムシもヤスデも減った。ミミズがいるとほっとする。
私は、真っ昼間に妄想することがある。虫園があり、そこにはトカゲ、ヤモリ、ダンゴムシ、アリなどがいる。何種類ものハエ、ゴキブリも飼育展示されている。昔、これらの虫たちは、自由に飛び回っていました、と書かれている。

小説の内側

小沢一郎という政治家が罪に問われて、長い年月のあいだ政治活動の自由を奪われ、いわば座敷牢に入れられていた。こんど無罪判決がおりたが、控訴期限が明日に迫っている。控訴されればこの先、ふたたび自由を奪われる。そして寿命は限られているのだ。私は、この事件を追ってきた。その道中に、村木厚子という官僚が逮捕される事件が起きた。これは周知の通り、偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安く用いたという、虚偽有印公文書作成・同行使罪だった。この事件も、発生直後の混沌とした時期から無罪となった時点まで見つめてきた。そして3.11 をきっかけに私は福島県知事だった佐藤栄佐久の辞職と逮捕、有罪の経緯を読んだ。核問題では、かつてアルベルト・シュバイツアーが核反対の旗印を掲げたとき、これを潰そうとして、シュバイツアーの身辺を洗い、暴き、彼を貶めようと画策したということも知った。世界を見渡せば古今、恐怖政治が蔓延していたのであり、事実は抹殺され、正義はなかった。イタリアを旅して震え上がる思いを味わったものだ。
ありがたいことに現在は、映像によって大政治家たちの表情を、態度を、つぶさに見ることができる。我を忘れて立腹してしまったのか、激怒してみせているのか。本心は違うが、事情に縛られての発言であるか。彼らの表情と仕草は、小説書きにとって魅せられる宝である。また、若手の未熟さ、性根の据わらぬ脆弱な表情。
ミス・ユニバースは、ミス・ユニバースに選ばれてから美しくなると言う。昔、山野愛子さんという美容家から直接伺った話だ。変わるのよ、と山野さんは言った。人は座によって変わる、このことについても映像は雄弁だ。
こうした進行形の人々を私は、奈良平安の人物群に重ねてみる。もう、ドキドキしてしまう。

バス事故から我が身を思う

日記にも書いた関越道のバス大事故では、主に法律面からの検証がなされているように見受ける。私は、自分の経験から別の一面を見ている。事故をおこす場所について、始めての道、崖っぷちの狭い湾曲道路、混雑している交差点など多々あって、このような難所でぶつかったり転落したりは沢山ある。でも、難所ではなし、よくよく知っている道でも事故は起きる。どうして? この場合についての私の思うところは、こうだ。
運転は知らない道を走る時は緊張するし、周囲は新鮮で発見が続く。わ、ここって凄い、こんどゆっくり来たいな、などと驚きながら走るものだ。峠越えなどは、ハンドル操作、対向車、おまけに後続車に煽られたりしたら気が抜けるものじゃない。どんなに疲れていたって、走行距離がオーバーしていたって、がんばってしまう。頼まれたって眠くなれない。こうした緊張のあとは、しっかり休みを取らなければならないが、事故を招くのは、平坦な道、アップダウんもない道、前に通った道である。それはなぜか。
よく知っている道だから、である。発見はない、いつもの通りの道だから、ワクワク感は眠り、驚き高鳴る心臓も眠る。前の晩に10時間寝ていたって眠くなるしかない道なのである。退屈している。腕はあるからハンドル操作に迷いはない。となると別のことに思いが向く。これからの仕事、帰ったら、アレしてコレして。アイツとトラブったいきさつの反芻。アマゾンでアレ買おうかな。
北海道では、独自の基準を作っているという。1日乗務距離の上限350km、高速道では420km。とてもよいことと思うが、それでも事故は防げないだろう、職業運転手であれ、自家用運転手であれ、「慣れた道」から逃れることはできないのだから。
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