文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
September 2016

批評の達人

秋台風最中の世迷いごとですが。
ノーベル文学賞受賞作家の川端康成さんは『雪国』をはじめ数多の作品があり、小説家として認められているのだと思っています。重ねて、世迷い事ですと前置きをしますが、彼の小説はフツーだと、私は思う。
『雪国』を、日本小説の中で20世紀第一の名作と評価する人がいること、彼が『雪国』を、どれほどの長期間にわたり彫琢し続けていらしたかも仄聞しています。
それでも川端康成さんは、評論の方が優れている、評論家と呼ばれないかもしれないけれど、際立った、ゾッとする眼力で刺し通す、そういう評論をなさった方だと思います。
小説作品に対する眼だけではない、眼に入ったもの全てを「見て」しまう。見えてしまって、どうしようもなかったのではないか。だって見えるんだ。多分、そうおっしゃるのではないかと想像します。
私は川端康成さんの「眼」と、それを言葉に置く姿勢を、この上なく良いものと感じて尊重しています。彼の眼は自分自身の肉体、目玉以外の我を忘れきったところで、モノと対峙している。無の境地と表現するかもしれません、宗教家でしたら。私が感じているのは、全く私心がない、純粋な眼だということです。
ですから骨董も見ることができていたのでしょう。
人物評となると、けっして力んで書いているのではない、しかし私は震え上がるのです。とてもここまで見ようとしても見えるものではないが、本当だ、この通りだ、と感じ入ります。
川端康成さんは、あるとき自分自身を見たのでしょう、と思います。
 世迷い事の付録。
彼の奥さんについては、名前も知らないのですが、ひとつだけ、これは本当の事だろうと思いつつ読んだ資料があります。
それは、奥さんも「見える人」であった事です。「でもわたし、見えてしまうのですもの」と、おっしゃっているような感じを持ちました。見える同士の結婚、だったのだと感じます。
ただ奥さんの方は、異世界が見える人であったので、三島由紀夫に続いて夫が自殺したとき、無責任な誰彼が、三島さんが(あの世へ)誘ったのではないか、と噂をしたときには、きっぱりと、それは違います、と答えられたそうです。そして、あの人を連れて行ったのは……、と続けられたそうですが、これ以上は当ブログの範囲外ですから、ここで止めておきます。


パラリンピックを見つめる

リオデジャネイロでオリンピックに続き、パラリンピックが開催されている。私は、見つめる。
こうして大活躍する選手たちは、障害者の中の、ほんの少しのエリートだろう、と思いながら見る。
選手たちは、明るい、強い、勢いのある空気を身にまとい、存分に競技をする。
放映される笑顔を見つめながら、今、ここに華々しくいるけれど、生まれながらに背負う障害の重み、あるいは突然、障害を抱える状況になった瞬間の衝撃と絶望の日々、この深淵から瞳をあげて笑顔が生まれるまでの長い日々を選手たちの土台に見る。称賛の気持ちが湧き、その周りに、数多の専門家集団が、身の回りにどれほど多くの助っ人がいることだろうと、称賛の気持ちが高まる。
翻って思うのだけれど、健常者という、この言い方ほど顔を背けたくなる表現はない。一見、元気な人たちだって、完全無欠はない。何かしら傷がある、困った部分を抱えている、傍目には見えない、見せない弱い部分を持っている。
このことを思うと、種類分け、区分けをして、別の箱に収めておくような存在ではないのではないか、障害者も健常者も。ただ、支援が必要か否かと見極めたところで、できる側が手をかすのが自然で、だから、ほんとうは区別なんかないのだ。だいたい想像するまでもなかろう、加齢により万人が不自由になるのです。

手ぶらで、帰れない

卓球の愛ちゃん。あの、よちよち歩きのチビちゃんの時から頑張ってきた福原愛選手が、今回のオリンピックで銅メダル、続いて結婚という幸せな時を迎えた。よかったねえ、おめでとう、とテレビに向かってお祝い。
取材に応えて、ホッとした、を繰り返している愛ちゃん。嬉しかった、の言葉が出ない。
手ぶらで帰さない。こんな言葉を聞いたのは、以前の水泳のときだったが、愛ちゃんの後輩選手も、同じ言葉を使い、試合前の意気込みを語っていた。海外の試合から帰国するときの空港での手ぶらの辛さを聞き、胸が痛んだ。
バカなことを思うもんじゃない、一所懸命にやった、それで十分でしょう、と声をかけたくなるのは、家庭であれば年寄りの役目かもしれない。しかし昨今、意気込みを通り越して重圧に変わってきていないか、案じられてならない。
1964年、東京オリンピックの時の男子マラソンで銅メダルを受賞した円谷幸吉選手を思う。日本人でメダルを手にしたのは、円谷選手ただ一人だったのだ。彼は、4年後には、もっと頑張りますと決意を語ったが、日本全国の、想像を超える重圧を受けて圧死した。この時の、言いようのない衝撃と悲しみが、今も胸を刳る。
リオのオリンピック前にも、メダルを取る、頑張ります、の決意が各所で語られた。メディアは、メダルの数を予想し、数える。そんなところにオリンピックの精神があるのだろうか。四年後には、たぶん東京オリンピックが開催されることだろう。そこまで生きているかどうかわからないが、一人でも多くの人が、バカなことを思うもんじゃない、と言って欲しいと願っている。

泉田知事のこと

危機対応について一般向けに書かれた本の中で、管見ではあるがアメリカのものが最も有用だと感じている。
その中に、こういうものがあった。
街中で暴力を振るっている有様に出会ったらどうしたら良いか。決して止めに入ってはいけない。離れるべきだ。しかし逃げ去るのではなく、大勢で遠巻きにして、声を限りに非難の声をあげましょう。これが最も効果的なのです、と書いてあった。
小競り合いに毛の生えた程度のものであっても、見て見ぬ振りをして、自分だけが安全圏へ、素知らぬ顔で移動することはすべきではない、と読んだ。積極的危機対応である。
新潟県の泉田裕彦知事が、10月投開票の知事選への出馬を取りやめるという声明文を出した。今年2月に出馬表明をしていたものを撤回したのだが、一旦表明した出馬表明の撤回は、極めて異例なことという。
私は越後に住んだ親しみから、いつも新潟に注目しているが、泉田知事は、誠に素晴らしい知事さんだと感じてきた。柏崎刈羽原発の再稼動を食い止め、東日本大震災の時には大掛かりな受入れ態勢を作り活躍、県内の行政でも見事な業績を上げられてきた。
支持層の厚い泉田知事が、一旦出馬を決意しておきながら断念した理由は奈辺にあるのか。ここで誰しも思い起こすのは「僕は自殺しませんから。遺書が残っていても、自殺ではない」という泉田知事の発言だろう。
命が風前の灯なんだ、佐藤栄佐久元福島知事の時のように。
佐藤栄佐久さんは、原発に反対したために、周辺に逮捕者・自殺者を出し、贈収賄0円で有罪判決を受けたのだ。
私たちの暮らす街中で起きている理不尽な暴力を、黙って見ていては平和はこない。
お茶碗1杯のご飯は、一粒、一粒のお米がまとまったものなのだ。お米粒一粒がつぶやく言葉を、絶やさず、粘りを出して1杯のお茶碗に、1個のおむすびにしましょう。
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