文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

不毛の抵抗

ノーベル文学賞を受賞したジャーナリスト、アレクシェービッチさんが福島を訪ねてくれた。去年の11月のことだったが、その日々をNHKBS1が放映してくれた。彼女の感想の中に、日本人には抵抗の文化がない、という言葉があった。
それで私は、私個人がいつ、どのように抵抗してきたかを振り返ってみて、まずはタバコの抵抗を書いたところだ。もう一つの思い出を書いてから、改めてアレクシェービッチさんの番組を見た感想を記そうと予定している。
こっちの話は、私の子供たちが大学に通っていた頃のことだ。近所で騒動があった。一家四人の家庭の夫が逮捕された事件だった。この家との付き合いはなく、顔は知っているが話したことはない。
留守宅に取材記者が押し寄せた。住宅街で、どの家も似たり寄ったりの一戸建て、猫の額の庭と車、そういう場所である。取材者は皆、機動性に富むハンターだった。奥さんは買い物に出なければ暮らせない。やむなく出るとハンターの群れが発するカメラの視線を浴びるのである。これはTVでよくみる日常風景だ。でも私は、これはしてはいけないことだと思った。許してはならぬ行為だと思い、たちまち憤激が身体を貫いたのだった。
当時私が持っていたカメラの一つにモータードライブを装着していたので、これにズームレンズをつけて道に出た。そして取材記者たちを狙って撮影を始めた。嫌がった。顔を背ける。
どう? と私は言った、どんな気持ち? 私も取材なんですよ、文芸誌「夢類」の河合です。
あの時、一声もあげることなく顔を伏せた記者たちは、この時のことを覚えているだろうか、私は引き続き憤激中だけれど。
余計なことを付け加えると、この事件は政治的な要素の強いものであり、経済界の一分野で神様と呼ばれる人物が被った災難であった。
振り返ると私は、不毛の抵抗を続けて生きてきたと思う。なぜ不毛続きかというと、団結せず、共闘せず、声をあげることもない、うちうちの抵抗だったから、なきに等しい所業である‥‥のだ。

煙草の話

煙草を好む人たちの肩身が狭くなって久しい。昔は「恩賜の煙草」というものがあった。天皇陛下が戦地へ赴く兵士たちに下したという、その煙草を見たことはないが、歌は知っている。恩賜の煙草をいただいて〜〜🎵 という歌。煙草は、たいそうな待遇を受けていたのだ。
禁煙の場所を作ることは良いことだけれど、際限もなく規制する傾向は、いささか常軌を逸しているように感ずる。こんな有様だったら、禁酒法みたいに禁煙法でも作るのかと思うくらいだ。煙草の火の不始末で火事が多いと言っていた。今は火災の何位なのかしら。
煙草を使えなくなって困っているのがドラマ作りだ。手持ち無沙汰になって格好がつかない。ここでシュポ。ゴルゴだけじゃない、大根たちはどうしてよいのやら、最近のドラマの間抜けた芝居ぶりはいじらしい。
いかにも煙草喫みを擁護するようだが、実は私の育った環境には1本の煙草もなかった。祖父、父が揃って煙草を遠ざける人だったから、客用の灰皿があるだけだった。昔話になるが小学校卒業の時、謝恩会の計画をして私も、その中の一人だった。先生のために煙草を買いましょうと、という話になったとき私は反対した。皆は煙草を嫌がる私を不思議そうに見て、取り合わず計画は進んだ。憤激した私は謝恩会をボイコットした。高校卒業の時の謝恩会も原因は忘れたが同じことをしたから、もしかすると私は腹をたてるタチだったのかもしれない。付け加えると、このエピソードをオープンしたのは今が初めてで、当時、謝恩会を欠席しても親は全く気付かなかったことも覚えている。親の目なんて、その程度の眼力である。
ところで前々から心配していることがある。油煙は健康に悪いのではないかということだ。家庭のレンジの換気扇の汚れは天ぷらやフライの油煙が多い。炒め物もある。この執拗な汚れが肺胞にこびりつく様は想像するだけで息苦しくなる。まして職業として厨房で働く多くの人たちの健康はどうなのか、このことが頭から離れない。

教育勅語

教育勅語の話

昨今話題となっている大阪の小学校設立に関する諸々の事件で、注目したのは幼稚園児に「教育勅語」を暗唱させている事実だ。私は衝撃を受けたというか、現実のこととして受け入れられず、唖然とした。
金のことなど、どうでも良い。金に群がる人種が目の色を変えてやっている、それだけのことだ。が、教育勅語暗唱は、違う。精神の根幹に関わる問題である。洗脳と言うに憚らぬ、これは罪悪だ。
私は国民学校1年生の時から教育勅語を暗唱させられていた経験と、敗戦後小学校4年生の教室で、自発的に教育勅語を暗唱した経験を持っている。長くなるが我慢してください。
毎朝、校庭に全生徒が整列する。号令台の上に校長先生が立つ。教頭先生が真四角の漆塗りの盆を目の上に捧げ持ち号令台へ進みでる。盆の上には紫の袱紗に包まれた巻物が載っている。一礼して校長へ盆を差し上げる。校長が一礼して屈み、号令台の下から差し上げる盆を受け取る。号令台の上に置かれた簡易台の上に盆を置き一礼。全生徒と、生徒と向かい合って並ぶ教師たちも一礼する。校長は再び盆を取り上げて捧げ持ち一礼、盆の向きを180度回して簡易台の上に戻す。一礼。全員一礼。再び盆に手を伸ばして校長は、細長い袱紗の包みを取り上げて、額の上に捧げて一礼。全員一礼。袱紗を盆に戻して一礼。全員一礼。袱紗を開き、巻物を取り出して額の上に捧げて最大級の拝礼をする校長。全員直角のお辞儀をする。巻物を開き一礼。全員一礼。教育勅語を読み上げる校長先生。終わるまで全生徒は直立不動の姿勢を保つ。教頭先生が進み出て盆を受け取るまで、これまでの逆道が行われる。この後校長先生の訓示がある。食糧難が激しくなってからは、よく噛んで食べなさい、という時に、水を飲むときも噛みなさい、と訓示されたことをハッキリ覚えている。
敗戦前後、学童疎開参加を拒否した両親の方針のために無学校状態で過ごしていたが、焼け出されて仮住まいのとき見知らぬ学校に入ることになった、その初日のこと。母が手に入れてくれた鉛筆一本と紙を持って登校。ランドセルやノート、筆箱はない。教科書もない。先生が一番前の席の子から順に立たせて国語の教科書を読む、という授業だった。担任がすべての教科を受けもっているから、私が新入りであることは知っている先生である。次、と言われても徒手空拳。周りの子は知らん顔。この時立ち上がって暗唱したのが教育勅語だった。当時、暗唱していた唯一の文章だ。反抗心が充満していたと思う。たった一人の抵抗。はっきり言葉にならないけれど、たくさんの種類の怒りが逆巻いていた。この時の抵抗心が続いて、今がある。

手元に『資料・教育勅語』ー渙発時および関連諸資料ー 片山清一編 高陵社書店 昭和49年(1974)という本がある。内容は勅語発布(1890)までの資料と以後の資料、特に敗戦後の論議やその取り扱いについての文書、年表、資料目録を収録している。興味深い部分は、国会参議院文教委員会の教育勅語に関する審議録(抄)で、各人の思想が見て取れる。
年表には、昭和23年(1948)9月に衆議院が「教育勅語等の排除に関する決議」及び参議院が「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行ったことが出ている。
当時の排除・失効への道筋と同時に、この頃に、すでにくすぶっていた復活の執念もまた本書の各所に垣間見える。金の行方に気を取られて、肝心の心の部分を見逃してはならない。

しつけ二題 の本番

今朝のブログで「教育勅語」を取り上げましたが、これはしつけ問題というより洗脳に類するものと言えそうです。実は生活の中の「しつけ」について言いたいことがあったのでした。
一つ。昨今、トランプ大統領のスタートにあたり、ワシントンをはじめ各地で、数々の催しが開かれました。高揚した雰囲気の場面がテレビに映ります。丸テーブルを数人が囲んでいる風景、トランプ大統領と夫人、安倍晋三総理大臣と夫人、ほかに男性も。何を話し合っているのかは分かりませんが、和やかな談笑風景です。
安倍晋三夫人の姿を見て、これは見苦しいなあ、みっともないなあと感じて眉をひそめ、トランプ夫人は、と見ると彼女は、背筋をすっきりと立てて顎を引き、微笑しています。これがまともでしょう。安倍夫人は背をまるめて顎を突き出していたのでした。この姿勢は、自宅のキッチンテーブルで寛いでいるスタイルではありませんか。公の場で見せる姿勢ではない。

もう一つは大昔の話。かつて、昭和天皇が皇太子時代にイギリスに行った時の話。
1921年3月3日、96年前の今日、皇太子裕仁親王は軍艦「香取」に乗船、旗艦「鹿島」を供奉艦として横浜港を出発、5月7日にイギリスのポーツマス軍港に到着した。
船旅しかない時代であった。まず沖縄県中城湾に到着。与那原、那覇、首里を訪れた。話が横に逸れるが、昭和天皇の沖縄訪問は、これが最初で最後であった。
香港、シンガポール、セイロン島のコロンボ、エジプトのポートサイド、イギリス領のジブラルタルなどでゴルフやオペラなどを楽しんだが、道中、西洋式のテーブルマナーの泥縄特訓を受けたという。全くの白紙状態だったらしい。およそ一ヶ月間をイギリスで過ごしてのち、フランス、ベルギー、オランダ、イタリヤなどをめぐり、9月3日に横浜港に入港した。
この話を私は父から聞いたのだが、天皇を天子様と呼ぶほどの天皇崇拝ぶりであった父は、残念そうに言った、「イギリスで、裕仁親王は貴族ではない、と笑われたんだそうだ」
「どうして?」と私。ちゃぶ台を囲んでの話である。
「首だけを回して後ろを見たんだと。貴族ってぇもんは」と東京弁である。「首だけ回しちゃいかん。回れ右をするもんだと」。我が事のように恥じ入っている。
テーブルマナーは頑張ったけれど、その他のマナーは白紙だったらしく、スコットランドの貴族、8代目アソール公爵に「しつけ」てもらったそうだ。私の推測だが、これが日本の皇室のマナーの基本になったのではないだろうか。今の私だったら、知らない外国の流儀を教えてもらうことは恥ではないわよ、と父に言うと思うのだ。

しつけ 二題

私は国民学校に入学した世代です。「修身」という教科書があり、表紙の見返しに「教育勅語」が出ていました。これを組全員で毎日、大声で読み上げました。組とは、今のクラスのことですが、英語は敵の言葉であり、使ってはいけないと教えられていました。でもラジオはラジオと言っていましたから、いい加減なことでしたが。さらに、この教育勅語を暗唱しました。チンオモーニ、ワガコーソコーソ。何のことやらわからんチン。
これは一種の「しつけ」なのかもしれません。ダンスの振りを覚えるのと一緒で、とにかくできると先生が褒めてくれる。褒めてもらうと良い気持ちになる。だから暗唱します。これをやらされていると自由発想がせき止められて、鋳型に流し込まれて固まってしまう気持ちの人間が出来上がるような気がしますが、いかがなものでしょうか。
当時、国民学校で叩き込まれた中国人、韓国人に対する偏見の衣を自ら脱ぎ捨てるために、私は相当長い年月を費やしました。脱出のきっかけは我が子たちでした。伸びのびと育って偏見の曇りのない子を見てショックを受けたのです。
いったん鋳型に流し込まれて冷えて固まった鉄を、再び身動き自由な液体に戻すことは容易なことではできません。柔らかい心で生まれてくる子供たちの心を、有無を言わせず型に押し込める行為は、悪魔の仕業そのものです。
森友学園という大阪の幼稚園が国会の問題として取り上げられている今、タイムスリップしたかのように「教育勅語」を暗唱する園児たちの姿をテレビで目にした衝撃は、言葉では言い表せないほど強く、おぞましく、過去の亡霊に出会った気分になりました。二度としてはならないことだと思います。
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