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壺猫

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教育勅語

教育勅語の話

昨今話題となっている大阪の小学校設立に関する諸々の事件で、注目したのは幼稚園児に「教育勅語」を暗唱させている事実だ。私は衝撃を受けたというか、現実のこととして受け入れられず、唖然とした。
金のことなど、どうでも良い。金に群がる人種が目の色を変えてやっている、それだけのことだ。が、教育勅語暗唱は、違う。精神の根幹に関わる問題である。洗脳と言うに憚らぬ、これは罪悪だ。
私は国民学校1年生の時から教育勅語を暗唱させられていた経験と、敗戦後小学校4年生の教室で、自発的に教育勅語を暗唱した経験を持っている。長くなるが我慢してください。
毎朝、校庭に全生徒が整列する。号令台の上に校長先生が立つ。教頭先生が真四角の漆塗りの盆を目の上に捧げ持ち号令台へ進みでる。盆の上には紫の袱紗に包まれた巻物が載っている。一礼して校長へ盆を差し上げる。校長が一礼して屈み、号令台の下から差し上げる盆を受け取る。号令台の上に置かれた簡易台の上に盆を置き一礼。全生徒と、生徒と向かい合って並ぶ教師たちも一礼する。校長は再び盆を取り上げて捧げ持ち一礼、盆の向きを180度回して簡易台の上に戻す。一礼。全員一礼。再び盆に手を伸ばして校長は、細長い袱紗の包みを取り上げて、額の上に捧げて一礼。全員一礼。袱紗を盆に戻して一礼。全員一礼。袱紗を開き、巻物を取り出して額の上に捧げて最大級の拝礼をする校長。全員直角のお辞儀をする。巻物を開き一礼。全員一礼。教育勅語を読み上げる校長先生。終わるまで全生徒は直立不動の姿勢を保つ。教頭先生が進み出て盆を受け取るまで、これまでの逆道が行われる。この後校長先生の訓示がある。食糧難が激しくなってからは、よく噛んで食べなさい、という時に、水を飲むときも噛みなさい、と訓示されたことをハッキリ覚えている。
敗戦前後、学童疎開参加を拒否した両親の方針のために無学校状態で過ごしていたが、焼け出されて仮住まいのとき見知らぬ学校に入ることになった、その初日のこと。母が手に入れてくれた鉛筆一本と紙を持って登校。ランドセルやノート、筆箱はない。教科書もない。先生が一番前の席の子から順に立たせて国語の教科書を読む、という授業だった。担任がすべての教科を受けもっているから、私が新入りであることは知っている先生である。次、と言われても徒手空拳。周りの子は知らん顔。この時立ち上がって暗唱したのが教育勅語だった。当時、暗唱していた唯一の文章だ。反抗心が充満していたと思う。たった一人の抵抗。はっきり言葉にならないけれど、たくさんの種類の怒りが逆巻いていた。この時の抵抗心が続いて、今がある。

手元に『資料・教育勅語』ー渙発時および関連諸資料ー 片山清一編 高陵社書店 昭和49年(1974)という本がある。内容は勅語発布(1890)までの資料と以後の資料、特に敗戦後の論議やその取り扱いについての文書、年表、資料目録を収録している。興味深い部分は、国会参議院文教委員会の教育勅語に関する審議録(抄)で、各人の思想が見て取れる。
年表には、昭和23年(1948)9月に衆議院が「教育勅語等の排除に関する決議」及び参議院が「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行ったことが出ている。
当時の排除・失効への道筋と同時に、この頃に、すでにくすぶっていた復活の執念もまた本書の各所に垣間見える。金の行方に気を取られて、肝心の心の部分を見逃してはならない。
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