January 2016
床の間の掛軸
19-01-16 20:14 更新
先日、黒田記念館で黒田清輝の絵を観てきた。この記念館は、黒田清輝の「遺産で美術館を建ててくれ」という遺言にしたがい、岡田信一郎が設計した建築である。岡田信一郎は、大正昭和初期に活躍し、様式の天才と呼ばれた建築家である。
設計作品に、北海道小樽の金融資料館(元日本銀行小樽支店)・歌舞伎座・鳩山邸などがある。黒田記念館に来たかったのは、絵のほかに建物が目当てだった。半地下のある二階建てで、左右対称の美しい外観、階段を上がり扉を入ると、一方の階段は地下へ、一方は一階へと導かれる。建物の内部は古びてはいるが、深々と息をつきたくなる穏やかな空間が広がる。
高村光太郎作の黒田清輝の胸像が置かれ、多数の作品とデッサン、スケッチ帖などの展示がある広い部屋、もう一部屋が、お目当ての室で、ここに代表作が飾られてあった。暗い矩形の部屋の壁面には、一面に、ただひとつ「湖畔」が、もう一面には「智・感・情」の組作品のみが置かれていた。こういうかたちで観てみたかったのだ。
尊敬してやまない大画家・吉留 要氏から直に伺ったことだが、絵を鑑賞する際、観る絵の周囲に他の作品がない、これが理想だと。しかし大きな企画展や、常設展にしても、そんな見方は望むべくもない。必ず隣に並んでいる。凄いのになると上下左右、満員電車的展示である。
「智・感・情」。これは等身大女性の裸体画で、顔は日本人だが、身体は理想化されたかたちであると言われる。代表作の「湖畔」と並ぶ有名な作品で、奥に哲学思想を含むとして論議されることもあると聞いている。私は、このなかの「感」が大好きだ。よいなあ、贅沢だなあ、とため息をつきながら壁一面に一作、を味わった。
上野公園では何本か桜が三分咲きで、珍しがってカメラを向ける人があちこちにいた。書き忘れたが黒田記念館は芸大の向かいにある。せっかく上野に来たのだから、企画展「兵馬俑」を見物していこうと博物館へと歩きながら、いま観賞してきた絵を味わった。
一面一作の絵画は、床の間の掛軸ではないかと、ふと思い至った。床の間の書画を拝見するときに、どうして他の書画が目に入るだろう、存在しないのだ。なんという贅沢、なんという見事さだろう。あらためて日本の美意識に思い至った。
美術館で屏風を展示する場合、平面にして展示している。自ら立つようにと曲げて立たせていない。一枚の絵のように展示しているではないか。本来、和室で使用する際は、ジグザグに折り曲げて立たせていたのだ。それを坐って眺めたのだ。屏風絵を、本来の使用形態にして鑑賞したら、画家が意図したところを受け取ることができるのではないか。襖絵も同様だ。部屋の角に位置する襖絵は、角を意識して描かれたに違いない。屏風絵はジグザグに置いたとき、二次元から三次元へ移行するだろう。あれは正面から見る絵ではないのでは?
寒中、手袋も要らぬ風のない日に、上野公園を池之端へと歩きながら、あれこれと世迷い事を思い巡らせた。
設計作品に、北海道小樽の金融資料館(元日本銀行小樽支店)・歌舞伎座・鳩山邸などがある。黒田記念館に来たかったのは、絵のほかに建物が目当てだった。半地下のある二階建てで、左右対称の美しい外観、階段を上がり扉を入ると、一方の階段は地下へ、一方は一階へと導かれる。建物の内部は古びてはいるが、深々と息をつきたくなる穏やかな空間が広がる。
高村光太郎作の黒田清輝の胸像が置かれ、多数の作品とデッサン、スケッチ帖などの展示がある広い部屋、もう一部屋が、お目当ての室で、ここに代表作が飾られてあった。暗い矩形の部屋の壁面には、一面に、ただひとつ「湖畔」が、もう一面には「智・感・情」の組作品のみが置かれていた。こういうかたちで観てみたかったのだ。
尊敬してやまない大画家・吉留 要氏から直に伺ったことだが、絵を鑑賞する際、観る絵の周囲に他の作品がない、これが理想だと。しかし大きな企画展や、常設展にしても、そんな見方は望むべくもない。必ず隣に並んでいる。凄いのになると上下左右、満員電車的展示である。
「智・感・情」。これは等身大女性の裸体画で、顔は日本人だが、身体は理想化されたかたちであると言われる。代表作の「湖畔」と並ぶ有名な作品で、奥に哲学思想を含むとして論議されることもあると聞いている。私は、このなかの「感」が大好きだ。よいなあ、贅沢だなあ、とため息をつきながら壁一面に一作、を味わった。
上野公園では何本か桜が三分咲きで、珍しがってカメラを向ける人があちこちにいた。書き忘れたが黒田記念館は芸大の向かいにある。せっかく上野に来たのだから、企画展「兵馬俑」を見物していこうと博物館へと歩きながら、いま観賞してきた絵を味わった。
一面一作の絵画は、床の間の掛軸ではないかと、ふと思い至った。床の間の書画を拝見するときに、どうして他の書画が目に入るだろう、存在しないのだ。なんという贅沢、なんという見事さだろう。あらためて日本の美意識に思い至った。
美術館で屏風を展示する場合、平面にして展示している。自ら立つようにと曲げて立たせていない。一枚の絵のように展示しているではないか。本来、和室で使用する際は、ジグザグに折り曲げて立たせていたのだ。それを坐って眺めたのだ。屏風絵を、本来の使用形態にして鑑賞したら、画家が意図したところを受け取ることができるのではないか。襖絵も同様だ。部屋の角に位置する襖絵は、角を意識して描かれたに違いない。屏風絵はジグザグに置いたとき、二次元から三次元へ移行するだろう。あれは正面から見る絵ではないのでは?
寒中、手袋も要らぬ風のない日に、上野公園を池之端へと歩きながら、あれこれと世迷い事を思い巡らせた。
歌と踊り
06-01-16 09:56 更新 カテゴリ:文学
歌と踊りは人間の営みの根源と思う。岩戸の前で踊るウズメ。ジャマイカでは市井の人々が毎晩のようにダンスを楽しんでいるが、ついこの間までの歌と踊りは奴隷化された人たちの命綱だった。昔、ニューヨークに住んでいたときは、隣家が毎週末にダンスパーティだった。歌が魂を慰め、踊りが命を庇う。私はジャマイカで、足が使えなくても踊れることを知り、声が上手く出なくても歌えることを学んだ。言葉が生まれる以前の人類から受け継いできた拍動と旋律は、いまもすべての人の肉体に宿るのだ。
昨年末に加島祥造さんが亡くなられた。「荒地」の詩人。亡くなられたが彼の詩句は生きている。手元にあるフォークナーの『八月の光』の訳が加島祥造さん。おなじ「荒地」の田村隆一さんの訳本も、彼の詩集と共に書架にある。詩人の訳したものは、小説であれ童話であれ日本語が美しい。小説を書く人でも、詩から入った人の言葉には愛情が籠もっている。言葉に対する敬意と愛が伝わってくる。そして思うのだが詩人はいつも心が踊っている故に、しかも時空を超える術を体得している故に、無限大の言葉のダンスに興じることができるのだ。このような詩人たちの言葉に添うて生きる私は幸せだ。
年末年始にかけて、カウントダウンのバレエ、シルヴィ・ギエムの「ボレロ」をTVで観た。バレエに詳しい友人から教えて貰って観たのだが、深紅の円盤の上で踊る女性は、ウズメと自然に重なった。身体一杯の感動だった。ウズメはギエムのように面(おもて)を上げて堂々としていただろうと思った。
昨年末に加島祥造さんが亡くなられた。「荒地」の詩人。亡くなられたが彼の詩句は生きている。手元にあるフォークナーの『八月の光』の訳が加島祥造さん。おなじ「荒地」の田村隆一さんの訳本も、彼の詩集と共に書架にある。詩人の訳したものは、小説であれ童話であれ日本語が美しい。小説を書く人でも、詩から入った人の言葉には愛情が籠もっている。言葉に対する敬意と愛が伝わってくる。そして思うのだが詩人はいつも心が踊っている故に、しかも時空を超える術を体得している故に、無限大の言葉のダンスに興じることができるのだ。このような詩人たちの言葉に添うて生きる私は幸せだ。
年末年始にかけて、カウントダウンのバレエ、シルヴィ・ギエムの「ボレロ」をTVで観た。バレエに詳しい友人から教えて貰って観たのだが、深紅の円盤の上で踊る女性は、ウズメと自然に重なった。身体一杯の感動だった。ウズメはギエムのように面(おもて)を上げて堂々としていただろうと思った。