文房 夢類
文房 夢類
myExtraContent1
myExtraContent5

壺猫

文房 夢類

東京とは

東京とは何者か。山中湖を背にしていま、私は東京の中心地へレンズを向けている。おりしも都知事選の最中で、今夕は手元に選挙公報を広げている。16人の候補者が、それぞれの主張を書いている。16人全員が生き生きと興味深い自説を披露し、東京を良くしようとしている。そのうちの2人が東京オリンピック返上、中止を主張していた。オリンピック反対は、私だけかと思っていたが、細川さんも決定以前は反対だったのだ。決まったから、それなら東北と東京でやろうじゃないか、と言っている。原発反対を主張する人は、輸出禁止を含めて7人。原発問題に触れていない人が5人。異色の候補者として、例の発明家と並び、革命家という職業の人がいる。費用もかかり力も要る立候補をする人たちは、今の時点で尊敬してやまない。
選挙を眺めながら感じていることは、東京とは、場所的に東京地域があるが、それが東京のすべて、ではないということだ。地方にいて東京を眺めている人、東京について発言する人、東京と往復している人なども又、確かな東京人なのだ。日本の各地から東京を指さし、考えを述べる人たちも又、たしかな東京人だと私は思う。

悪質な多数決

自公連立政権というのは、悪質な多数決政権だ。こういうコバンイタダキというかコウモリというか、力のある方にくっついて、多数決の時に恩を着せる党は唾棄すべき汚い集団だと思う。民主主義を冒涜している。政治家は百も承知で、あれは力のある方に付く党ですから、と割り切っている。割り切られたらたまらない。この党が基盤とする善男善女に勉強して貰い、「上の方」の言うことよりも自分自身の頭で考え、感じて判断して貰うしかないが、カルトに吸収される脳は、もともと吸収力に優れ、自発脳ではない。

新しい車の夢

私は歩いているときに頭が活発に働く。だれでも同じかもしれない。知っているのはベートーベンで、彼は散歩が大好きだったという話だ。彼の散歩は、ちょっと独特であり、森の中をとんでもない早さでめったやたらと歩き回るのだそうだ、それも単独散歩らしい。これは散歩とは言えない姿に見えるが、これをすると曲想が湧くのだという。ベートーベン氏が頭にあるものだから、私も歩こうとする。しかし、しみったれた性分であるから、駅前に用足しに行くなどタダでは歩こうとしない。
歩きながら浮かんだのは、新しい車の白昼夢。私だけが持っている特別の車。燃料は核融合を使う。信じられない話だが、ITER(国際核融合実験施設)が無害のエネルギー源開発に成功したことを掴んだので、遠隔透視を使って入手したのだ。燃料源は海水である。トイレ、キッチン、ベッドなど生活空間があり十人程度は乗れるので怖がらないという約束が出来る人に限り乗せてあげる。自動操縦可能。激突しても、ボールのように弾み、傷つかない装置がついている。外気は遮断して良質の空気を生産循環している。いいなあ。
特徴は重力コントロール装置をつけていることで、これを作動させると駐車場の心配から解放されるのだ。つまり、空中に浮かべておく。乗りたいときはリモコンで誘導して地上に降ろす。実は、車で走れるが、本質は航空機である。水中、地上、空中、宇宙を自在に移動できるヴィークル。いいなあ。私は駅前をめざして気持ちよく歩き続ける。
私は、この車で自由自在に走り回り飛び回る。ステルスなんか真っ青になるハイレベルの忍者車で、レーダーなんて気にならぬ。どこを飛んでいても、空飛ぶ円盤に間違えられるようなヘマはしない。レーダーに映らないのだから、目視した航空機だけが大慌てをする程度だ。いままでは国内にくすぶっていたが、我が新車では地球一周なんて朝飯前なのだ。私はこみいった操作が嫌いなので、操縦は単純、おおむね音声操作。おまけに各国の言語を自動翻訳して送受信するから、交信は楽々。付け加えると、あんがいアウトロー的なので、出入国などは忍者モードで自由自在無断通過。
どこへ行こうかな。マッキンレーのてっぺんがいいな。マチュピチュというのをテレビで見た。あそこへ行ってみよう。アマゾンに行かなくては。忙しいなあ。日本海溝へもぐってこなくては。とりあえず地球面をくまなく回ることだ。国際宇宙ステーション訪問は、そのあとでよかろう。宇宙飛行士たちは船内を浮遊しているが、あんな子供だましは遊びだけにして、重力コントロール装置を起動させれば地上と同様の暮らしができるのだ。火星にも行きたいが、なにしろ年が年なので、あ、駅に着きました。

車の夢

車を降りてから、私は車の夢を見るようになった。
いままでも、数知れず運転している夢を見てきたが、車を降りてから見る車の夢は、苦しい。苦悩に満ちている。うなされる。夢の光景は同じだ。いつものように独りで自分の車を走らせている。私は道の行く手を見ている。前に来たことがある道だ。あれ? 今日は工事中らしい。通れない。
別の夜には、この道が一歩通行に変わっている。巨大トラックが道をふさいでいて通れないこともある。とにかく、非常な現実味を帯びて、通れない状況が具体的に現れるのだ。
この道の先に帰るべき家がある。しかし行かれないという困惑は、夢の中では絶望的な苦悩となって迫る。
年が明けて、また車の夢を見た。年明けの夢では、運転はしていなかった。ディーラーにいる。真っ赤な車、美しくも鮮やかなイタリアンレッドの小さな車が目の前にあり、なんだぁ、と私は笑っている。営業の人の声も姿もない。丸っこい、小さな赤い車だけがある。よかったじゃない! これだったら大丈夫。これで車に乗れるわ。もう諦めたのよ、本気で。一度止めた決心したのを覆すのは気が引けるけど、これに決めます。夢の中で私は結構、細かい気持ちの変化を味わっている。喜びが胸一杯に満ちて、幸福感に包まれた。
醒めたときの、信じられない、夢だったとは、という落ち込みはすさまじかった。私はどれほど車に密着して生活してきたかを、改めて噛みしめた。

都知事選

都知事選の争点を原発問題に置くことの不当性を主張しているのが現内閣である。発言した閣僚たちの名前を挙げて個別に批判するつもりはない。内容だけを取り上げると「(核施設)設置自治体でもないのに争点にするのは不当だ」と言った人がいた。
あなたは、ほんとにそう思っているの? と私は心の中で言った。新潟県の山奥をドライブしていたときのことだ、一車線分がかろうじて舗装されている農道の行く手が工事中の柵で塞がれていた。さてどうしよう。脇のジャリ場に停めて散歩。ようやく家回りで雑用をしている老夫婦を見つけた。
目的は迂回路を教えて貰うことなのだが、前置きの挨拶から雑談へ入ってしまった。
ほれ、見て見ろ。と老夫が私の目を見た。見回す私の目には、重なり連なるおだやかそうな山々と、目の前の一軒家。手前に里芋畑。今朝から走ってきた山道の、どこにでもある風景であり、特別にワシ、タカが飛んでいるわけでもなかった。なにかしら、と私は奥さんに言いかけたが老妻は、聞こえないのか土間の奥に消えた。あれだよ。と老夫が空を指した。そこには細く黒い筋が見えた。高圧線だった。山から山へ、そして次の山へ。高圧線が伸びている。
あれを使うのは東京だよ。あれは、東京のためにやってんだよ。老夫は、また私の目をのぞき込んで言った。
それから老夫と私は話し込んだ。んだからよ、おめえ。と彼は言う。んだなあ。と私は頷く。わたしたちは、わたしたちなんだ、と噛みしめながら話し合った。電力のこと、暮らしのこと、高圧線の鉄塔を設置する工事は地元の男たちが請けたこと、彼らの得た収入。里芋だけから現金が入る”おれんとこ”のこと。新聞を購読しなくて上々、テレビで上々。しかし察知力、推測力、判断力は、なまじの文字情報からは得られない根深さがある。
政治に携わる人たちは、根無し草が多いような気がする。そして東京人には、根無し草が多いとも感じている。東京の人口の中で、いずれ郷里に帰る人、郷里から出てきたばかりの人、親の代に東京に住み着いた程度の、浅い東京人などが、いったいどのくらい含まれているだろうか。彼らは東京を味わってはいるが、東京を愛しているわけではない。東京を守ろうともしていない。いっとき、東京ファッションを楽しむくらいの軽さで、東京の場所を占めているに過ぎない。

靖国神社

安倍総理大臣は、自分が総理大臣になった日を記念して、誕生日祝いのつもりなのだろう、去年のこの日に総理になりました、と前説をして、公の形を取って靖国神社を参拝した。あちこちから批判された時点で、戦争しない誓いを云々と後付けしたが、最初に誕生日祝いなんだ、と言ってしまっているのだから噴飯物だ。文字が読めなかったり、できあいの言葉しか操ることが出来ない安倍総理大臣の様子を観察して思うのだが、この人は貧乏だ。人間が貧だ、と思う。さらに感情を先に立てて行動する。これは小人である。自分では経済を上向きにして、経済優先の政策だと見せているつもりだろうが、実は憲法改正、国防軍を作る、というところに狙いを定めている。これも個人感情であり、日本という国の将来を見通し、熟慮を重ねた上での政策ではない。これも見破られていることに気づいているのだろうか。
それはさておき靖国神社は、日本の軍人、軍属などを祀っている勅祭社で、はじめは東京招魂社という名だったのが、靖国神社と変えられてしまった。さらに、A級戦犯の人たちも祀ってしまった。ずるずると変容してきているのではないか。幕末から明治維新以後の軍人が祀られているが、各人の墓所は別にある。魂だけを祀っている。私は、中国や韓国が容嘴するのは無礼と思うが、心穏やかではいられない心情はわかる。
私は、こんな社を作らなければよかったのに、と思っている。明治維新を立派なことと称揚する歴史観を批判したくなる、あのころの人たちは、バカなこともたくさんした。この社もそのひとつで、バカなヤツが思いついたのだろう。何をもってバカというか、というと、人がいじってはいけない物に手を出したからバカだと思っている。日本の社は、縁起を持ってはいても、煙が集まり、無から有がかもし出される気配で産まれたのだ。だからご神体が山だったり、大木だったり、石ひとつ、巌ひとつだったりする。農耕の人々が、稔りを祈り、死者を悼む、必死の暮らしの心の拠り所として社が生きている。現世に生きている誰彼の頭から出た、単なる思いつきで、ここに魂を招きましょう、と作るものであってはならないのだ、と私は考えている。つまり、人為的にしてはいけない世界なのだ。そこに手を出してしまい、結果として、拝め、拝めと拝まされたのが私の世代である。拝む、祈るが重なると、そこに霊魂が集まる。こうして一片のお骨もない靖国に、人の気が集まってしまっているのが現状なんだろう。もともとが、お上が拝めと命令する社として作ったのだから、政治的な色合いが濃い、どころか政治的な社といえる。だから政治家たちが、あーだ、こーだ、と言いながら参拝したがるのだ。いま活動している政治家たちの親族の、どれほどが靖国に祀られているのだろう? ほとんどの戦死者は、農村、山村、漁村の若者ではないか? 私は怒り噴出である。日本の神様は、さっぱりしている性質だから、ここで各人、各墓所にお戻り頂きたい、と大祭礼を催し、お開きにしたらよい。これが私の主張です。
myExtraContent7
myExtraContent8