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壺猫

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世相 主張

年金の話

中学生の頃に翻訳小説を読んでいた時、年金暮らしをしているという老人が登場することがあり、年金て何かしらと思ったことが、年金との出会いだった。
日本での年金制度は1875年(明治8年)に軍人恩給が生まれたのが最初で、1923年に「恩給法」が制定されたけれど、対象は軍人と役人だけだった。一般人は関係ない制度だったのだ。
「国民年金」という名をつけて、国が一般国民を視野に入れたのは1959年だった。はじめの頃は月額8000円台だったように記憶しているが、2017年度では月額16900円だ。
結構負担になる金額を毎月収めるわけだが、噂では1960年生まれまでの人たちは、収めた金額全額を受け取る計算だそうで、それ以降に生まれた人たちは、収めた全額より受け取る金額が減るという。これは深刻な不安を呼ぶ事態だ。
どのような計算方法で数字を出しているのかわからないが、数字という石飛礫は基礎的知識のない私たちには強い効き目がある。目の前に数字を出されるとビックリして信じてしまう。
数字の効き目を強くするために、たとえ話を抱き合わせる。例えば、これまでは1人の老人を6人が支えてきました。だんだん4人が、3人が、と減ってきているんですよ、と説明する。そのうち、1人が1人を支えるのだと喧伝する。肩車をしているイラストまでつける。
支えるというのは、今時の口当たりの良い言い回しであり、簡単に言ってしまえば1人の年寄りを6人の、3人の、2人の若いもんが養ってんだよ、と言っているのだ。
これを知って若者たちは、いったいどう感じるだろう。自分の両親の他に、ということかしら、と首をひねっている人がいた。払い込んだ分より少なく受け取るんなら、自分で貯めておくことにする、というものもいる。さあ大変。
私は、これは「すり替え詐欺」だと断言し、「オレオレ詐欺」より罪は重いと糾弾する。この例えかたは悪質な詐欺だ。
なけなしの所得からコツコツと収めてきた、その自分の金を、自分の年金として受け取っているのだ。今時の若いもんが働いた金を恵んで貰ってるつもりはない。集めた金を運用する、やりくりがあるのが当然だが、やりくりの方法を言う前に事実本質を抑えるべきではないか。年金受給者に尻を持ってきて、あたかも余計な荷物だと言わんばかりの態度は言語道断だ。重ねて言うが、年金のカネは、国の所有物ではない、国民一人一人のものなのです。
こういうトリッキーな言い方で、高齢者をいたぶり、邪魔者扱い、負担者扱いをして憚らぬ態度は、実は昨日今日に始まったことではない。
昔話にあるように、無駄飯食いの年寄りを集めて殺してしまう殿様、姥捨伝説、その反動で知恵のある老人や老賢人の出現、連続線に不死の怪人までもが連なるのが人間だ。
無意識の螺旋に巻かれて、歴史のリズムに乗ることを考え直して踏みとどまり、賢人を国のために探し、起用することをなんとかして行わなければ日本は沈没するのではないか。賢人は若い者にも壮年にも、男にも女にも、いるはずだ。暗雲のようにのさばっている我欲の輩一群が消えれば現れるだろうか。国民のために、自分の人生を、蓄えた私財を、擲って尽くす人物を持つ国も、現にあるのだ。

教育勅語

教育勅語の話

昨今話題となっている大阪の小学校設立に関する諸々の事件で、注目したのは幼稚園児に「教育勅語」を暗唱させている事実だ。私は衝撃を受けたというか、現実のこととして受け入れられず、唖然とした。
金のことなど、どうでも良い。金に群がる人種が目の色を変えてやっている、それだけのことだ。が、教育勅語暗唱は、違う。精神の根幹に関わる問題である。洗脳と言うに憚らぬ、これは罪悪だ。
私は国民学校1年生の時から教育勅語を暗唱させられていた経験と、敗戦後小学校4年生の教室で、自発的に教育勅語を暗唱した経験を持っている。長くなるが我慢してください。
毎朝、校庭に全生徒が整列する。号令台の上に校長先生が立つ。教頭先生が真四角の漆塗りの盆を目の上に捧げ持ち号令台へ進みでる。盆の上には紫の袱紗に包まれた巻物が載っている。一礼して校長へ盆を差し上げる。校長が一礼して屈み、号令台の下から差し上げる盆を受け取る。号令台の上に置かれた簡易台の上に盆を置き一礼。全生徒と、生徒と向かい合って並ぶ教師たちも一礼する。校長は再び盆を取り上げて捧げ持ち一礼、盆の向きを180度回して簡易台の上に戻す。一礼。全員一礼。再び盆に手を伸ばして校長は、細長い袱紗の包みを取り上げて、額の上に捧げて一礼。全員一礼。袱紗を盆に戻して一礼。全員一礼。袱紗を開き、巻物を取り出して額の上に捧げて最大級の拝礼をする校長。全員直角のお辞儀をする。巻物を開き一礼。全員一礼。教育勅語を読み上げる校長先生。終わるまで全生徒は直立不動の姿勢を保つ。教頭先生が進み出て盆を受け取るまで、これまでの逆道が行われる。この後校長先生の訓示がある。食糧難が激しくなってからは、よく噛んで食べなさい、という時に、水を飲むときも噛みなさい、と訓示されたことをハッキリ覚えている。
敗戦前後、学童疎開参加を拒否した両親の方針のために無学校状態で過ごしていたが、焼け出されて仮住まいのとき見知らぬ学校に入ることになった、その初日のこと。母が手に入れてくれた鉛筆一本と紙を持って登校。ランドセルやノート、筆箱はない。教科書もない。先生が一番前の席の子から順に立たせて国語の教科書を読む、という授業だった。担任がすべての教科を受けもっているから、私が新入りであることは知っている先生である。次、と言われても徒手空拳。周りの子は知らん顔。この時立ち上がって暗唱したのが教育勅語だった。当時、暗唱していた唯一の文章だ。反抗心が充満していたと思う。たった一人の抵抗。はっきり言葉にならないけれど、たくさんの種類の怒りが逆巻いていた。この時の抵抗心が続いて、今がある。

手元に『資料・教育勅語』ー渙発時および関連諸資料ー 片山清一編 高陵社書店 昭和49年(1974)という本がある。内容は勅語発布(1890)までの資料と以後の資料、特に敗戦後の論議やその取り扱いについての文書、年表、資料目録を収録している。興味深い部分は、国会参議院文教委員会の教育勅語に関する審議録(抄)で、各人の思想が見て取れる。
年表には、昭和23年(1948)9月に衆議院が「教育勅語等の排除に関する決議」及び参議院が「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行ったことが出ている。
当時の排除・失効への道筋と同時に、この頃に、すでにくすぶっていた復活の執念もまた本書の各所に垣間見える。金の行方に気を取られて、肝心の心の部分を見逃してはならない。

トランプ大統領誕生

ペンクラブの転載に続いて、もう一つ転載します。自由党機関紙 第4号 2017.2 小沢一郎代表 巻頭提言の冒頭です。全文の1割程度ですが。
 今年は内政も、そしてそれ以上に国際情勢が大きな変化を迎える年になると感じています。世界は新自由主義と過度なグローバル化によって疲弊し、行き詰っています。その結果、欧米先進国でも不満が高まり、それが市民の大きなうねりをつくっています。米トランプ新大統領の誕生も、単にポピュリズム政治として片付けるのではなく、アメリカ社会がそこまで深刻な構造的問題を抱えており、市民が自らの意思を選挙を通じて具体的に示した結果と見るべきです。また、東アジアに目を向ければ、韓国は歴史的といえるほどの政変が予想されます。さらに隣接する中国、北朝鮮も非常に大きな不安定要素を抱えています。  ここまで。
 私は、この見方に同感です。小沢さんの目は、冷静、的確に現実世界をつかんでいると感じます。小沢一郎さんの言う通りで、なぜ彼が大統領に選ばれたのかを考えるべきだと思う。
これまでの政策で取りこぼされてきた人たちの不満が高まったこと、移民が受け入れられ、移民が成功のチャンスをつかめる国。実力があれば成功の道が開ける国、アメリカ。世界中の夢を背負う国、アメリカ。この基本構造が破綻して、移民はもうたくさん、となったアメリカ。
もう一つの問題はメディアへの不信で、新聞テレビなどの報道を信用する人がいなくなっている、これは日本も同じで、メディア不信は社会不信と言い換えることができる。社会不信は社会腐敗と同義語と言ったら言い過ぎだろうか。メディア批判と土着白人の不遇状態。この二つを掲げた時点でトランプ大統領の勝利は決まっていたと思います。
敗北した民主党の側の支持者たちの乱雑下品な態度にはがっかりさせられた。あれではどっちもどっちだと感じた。民主党支持のハリウッドの女優さん、メリル・ストリープやレディ・ガガなどが意気盛んに発言したけれど響くものがなかった。お金持ちの上に大企業と仲の良いヒラリー、有名な芸能人、大金持ちの不動産王。民主党であれ共和党であれ、牛耳るのは、こういう人たちだけで、こういう人たちの独壇場じゃないか、と冷え冷えとした。一体普通の人々はどこにいるのだろう?
土着の白人が移民に職を奪われて不遇を嘆いているのは気の毒だが、メイフラワーに乗ってやってきた「白人」が、土着の「赤い人」たちを追い払い、土地を強奪した事実を思い出してみてほしい。今、移民は気に入らんことをする、と排斥したくなる現状はあるだろうが、もともと白人がアメリカ大陸を蹂躙したという事実、この時点まで立ち返ってほしいものだ。
批判されたメディアは、反発するだけの無能、退屈ぶりを見せている。それは日本のメディアもそっくり同じで、自己反省のかけらもないとは空恐ろしい。特に悪質なのはNHKで、形容詞、副詞を巧みに織り込んで、NHK好みの方向へ視聴者を誘導しようと図る。距離感を持って聞いていない人は、たやすく洗脳されてしまう。こんな悪質なメディアに対して金を払うのは罪悪だ。みなさまのNHKどころか、みなさまを洗脳するNHKだ。というわけで、この輾転反側、ねじれテーマの駄文をお楽しみいただきたく、よろしくお願い致します。

パラリンピックを見つめる

リオデジャネイロでオリンピックに続き、パラリンピックが開催されている。私は、見つめる。
こうして大活躍する選手たちは、障害者の中の、ほんの少しのエリートだろう、と思いながら見る。
選手たちは、明るい、強い、勢いのある空気を身にまとい、存分に競技をする。
放映される笑顔を見つめながら、今、ここに華々しくいるけれど、生まれながらに背負う障害の重み、あるいは突然、障害を抱える状況になった瞬間の衝撃と絶望の日々、この深淵から瞳をあげて笑顔が生まれるまでの長い日々を選手たちの土台に見る。称賛の気持ちが湧き、その周りに、数多の専門家集団が、身の回りにどれほど多くの助っ人がいることだろうと、称賛の気持ちが高まる。
翻って思うのだけれど、健常者という、この言い方ほど顔を背けたくなる表現はない。一見、元気な人たちだって、完全無欠はない。何かしら傷がある、困った部分を抱えている、傍目には見えない、見せない弱い部分を持っている。
このことを思うと、種類分け、区分けをして、別の箱に収めておくような存在ではないのではないか、障害者も健常者も。ただ、支援が必要か否かと見極めたところで、できる側が手をかすのが自然で、だから、ほんとうは区別なんかないのだ。だいたい想像するまでもなかろう、加齢により万人が不自由になるのです。

泉田知事のこと

危機対応について一般向けに書かれた本の中で、管見ではあるがアメリカのものが最も有用だと感じている。
その中に、こういうものがあった。
街中で暴力を振るっている有様に出会ったらどうしたら良いか。決して止めに入ってはいけない。離れるべきだ。しかし逃げ去るのではなく、大勢で遠巻きにして、声を限りに非難の声をあげましょう。これが最も効果的なのです、と書いてあった。
小競り合いに毛の生えた程度のものであっても、見て見ぬ振りをして、自分だけが安全圏へ、素知らぬ顔で移動することはすべきではない、と読んだ。積極的危機対応である。
新潟県の泉田裕彦知事が、10月投開票の知事選への出馬を取りやめるという声明文を出した。今年2月に出馬表明をしていたものを撤回したのだが、一旦表明した出馬表明の撤回は、極めて異例なことという。
私は越後に住んだ親しみから、いつも新潟に注目しているが、泉田知事は、誠に素晴らしい知事さんだと感じてきた。柏崎刈羽原発の再稼動を食い止め、東日本大震災の時には大掛かりな受入れ態勢を作り活躍、県内の行政でも見事な業績を上げられてきた。
支持層の厚い泉田知事が、一旦出馬を決意しておきながら断念した理由は奈辺にあるのか。ここで誰しも思い起こすのは「僕は自殺しませんから。遺書が残っていても、自殺ではない」という泉田知事の発言だろう。
命が風前の灯なんだ、佐藤栄佐久元福島知事の時のように。
佐藤栄佐久さんは、原発に反対したために、周辺に逮捕者・自殺者を出し、贈収賄0円で有罪判決を受けたのだ。
私たちの暮らす街中で起きている理不尽な暴力を、黙って見ていては平和はこない。
お茶碗1杯のご飯は、一粒、一粒のお米がまとまったものなのだ。お米粒一粒がつぶやく言葉を、絶やさず、粘りを出して1杯のお茶碗に、1個のおむすびにしましょう。

独居の不安

独りの時に闖入者が現れたらどうしよう、それが強盗だったりしたら。あなたは、そんなことを考えたことはないですか? と友達が訊ねた。メールのやりとり。電話のおしゃべりではなくメールだと、ゆっくり考えをまとめることができる。すっかり防犯談義となった。
いちばん可能性が高いのが居空きで、自分が家に居るという自信から、お勝手にいるのに二階を開け放っていたりするものだ。室内犬がいると、居空きの心配は皆無と言ってよい。小型犬といえども心底信頼できる。千早のような日本犬だったら侵入者にとっては恐怖そのものである。千早と一緒に暮らしていたときは、戸締まりなんか不要だった。夜中でも、チハ見てきて。と囁くと、身を起こしてガラス戸に開けてあるフラップから庭へ出て、庭中を見て回って戻ってきた。
ところがいま、私が共に暮らしているのはネコ。お富士さんについては、この2年間でだいぶ理解してきた。聴力は鋭い。およそ犬の倍はある。ネズミのキーキー声のような高い音に敏感で方向も正確に捉える。もしも居空きが侵入したら犬と同様に察知するはずだ。しかし、ここからがちがう。犬は瞬間的に主人を思う。報せる反応が瞬時に現れる。ネコ殿は、自分自身の感覚に没頭する。誰かに報せるなんて、頭にない。どこに何がいるか、どの方向に動きつつあるか、身体全体で観察して緊張する。手強いと感じると背筋の毛並が総毛立つ。もっと緊張すると長い尾が煙突掃除のブラシのように逆立つ。あら、なにかしら? と興味が湧いているときは、尾が楽しそうに踊るのだ。耳の立ちよう、視線の方向、姿勢、毛並、尾を見て、なんかあるな? と受け取る必要がある。ネコは知らん顔だ、冷淡だ、と見ないで、ネコ本意に見て取ると、身体全体で表現してくれていることがわかる。ときおりネコを見ることで家の安全がわかる。というわけで、猫的防犯になってきた。

偶然、二つの目に出会った。一つは昨日の新幹線の火災事件、もうひとつは、今朝放映されていた岡山県立図書館のニュース。
新幹線のガソリン放火自殺、巻き込まれた女性の死は、セキュリティについて深刻な問題として立ちはだかった。サミットとオリンピックを控えている。半世紀もの間、無事故できた誇らしい新幹線が、いま安全を考えるきっかけを作った。各方面の専門家が述べる意見の最後につくづく述べられた述懐は、人の目が大切だ、と言うことだった。もちろん、これから様々な対策を立てるに違いないが、その基本は人の心を向ける目にあるという。
岡山県立図書館は、来館者数が日本一だということでテレビの取材を受けていた。館内の環境、蔵書数、機械化されたシステム。加えて岡山県の教育方針も底力となっている。最後に取材者が、ためしに司書に頼んだ。自分は肥満で悩んでいますが、解決に繋がるような本はありますか? 取材者は、なかば恥ずかしそうに顔を伏せて、そう呟いた。このときだ、私が目を見張ったのは。司書、男性だったが、興味深そうに聞き入りながら取材者を見つめていたのだ。その後取材者との対話は、目と目を合わせる爽やかなものだった。日本一の来館者数の土台にあるのは、なんだろう。どれほど建物が立派でも機械化されて、スルスルと本が現れようとも、それだけでは日本一にはなれないのではないか。種類の違う2つの目が並んだが、要は心にあるということなのだろう。
私の居住区にある合同庁舎内の区立図書館は、久しく目を閉じており、館全体を暗鬱な灰色の霧が覆っている。同じ合同庁舎内の福祉事務所も同様で、カウンターで来意を告げたところ、他の用事を続けながら下を向いたまま、叫ぶように言った、そこの黄色い紙、取って! 

米上下両院合同会議日本首相演説

米上下両院合同会議で安倍首相が演説した。この演説の中にある、次の部分に注目した。「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。(中略)この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。(中略)この夏までに、成就させます。」
国内で各政党が自党の主張を如何様に述べ立てたとしても、それは当然のことだし必要なことだ。しかし一国の首相が国外に向けて発信する断定言語は、国を代表する意志であるはずだ。国内で反対意見の多い、まだ決定してもいない事柄を取り上げて、しかも時期を限って、成就させると断定したことは、これは民主主義に反する。独裁だ。他国から、日本の首相は独裁者だと判断されても言い訳はできまい。日本国民の一人である私は、日本国民に対しては、これ以上の侮辱、これ以上の礼を失する言葉はないと感じた。
幹事長は言った、「今迄どこでも、何度も喋ってきたことだ」。この幹事長は、目を逸らせて呟くのみである。私は、正面からまともに相手の目を見ないで話す人の言葉を信じません。ましてや、この言い訳は噴飯ものだ。
もうひとつ、野党はこれを是とするつもりなのか。民主党は、いまや自民主党と呼ばれているから、分かっていても黙っているのだろう。

足に合わない靴

「子どもの貧困対策法」が今年の1月に施行された。待機児童の問題、虐待の問題など、子どもを巡る深刻な問題点が指摘されている。すこやかに、安全に育って欲しい子どもたち。虐待を見つけるヒントは、足に合わない靴を履いている、一見、ちゃんとしている服装であっても、襟が垢で汚れている。こうしたところに目を向けることだと出ていた。
足に合わない靴か、と遠くを眺めた。遠くとは、遠くの年月である。70年以上前、足に合った靴を履いている同級生はいなかった。私の「ズック」も、左右の親指のところに10円玉くらいの穴があいていて、踵はつぶれていた。どの子も同じだった。スリッパのように足に引っかけているだけでも、あるだけで上等だった。たまに先生が2足くらいの新しいズックを教室に持ってきて、くじ引きで貰った。当たった子は、足に合わなくても、合う子にあげたりはしなかった。つま先に綿を詰めてはいた。町の店には商品が何もなかったのだから、親が虐待していたわけではない。国中の資源が戦争のために消費されていたために、国民は貧しかった。
ここまで思い出したところで我に返った。そうか、あのときの子どもたちは虐待されていたんだ。国家が虐待していたんだ、と気がついた。戦争してるんだから、は言い訳にならない。戦争することを止めればよいのだ。不思議なものではないか? あのとき虐待されていた子どもたちは、これが正しい状態だ、我慢することは、よいことだ、と信じていたのだから。「足に合わない靴」が、昔と今の日本の子どもたちを結びつけた。70年前は国家が加害者だった。いまは、同級生の中に埋もれて存在する、あるいは登校以前の状態に埋もれて散在する。助けを必要とするこどもたち。

今年のノーベル賞

ブログが停滞していたので、少し遅れた話題。
パキスタンの少女、マララ・ユスフザイさんは17歳。最年少のノーベル平和賞受賞者。2年前に頭を撃たれて重傷を負ったとき、再起できるとは誰もが思えなかった。復活を果たし、貧困国の子ども教育を支援している。今回のマララさんの受賞は、話題の人、注目の人を選んだと受け取ることも出来よう。ノーベル賞に限らず、賞というものは、これまでに成し遂げた業績を称える意味があるから、若年での受賞は時期尚早と感じる向きもあるだろう。しかし、今回の平和賞は、従来の常識の範疇に入らない、新しい価値観で選ばれたのではないか、と私は受け取った。受け取りたい、と言うほうが正確かもしれない。
なぜかというとマララさんは、この賞を受けたことを、この先の長い活動のために生かすだろう、と確信した故である。受賞して立派だ、さあ記念写真を撮りましょう、ではない。この賞を力の一つに加えて、テコにもして、子どもたちを守り育てるための活動を続けるのではないだろうか。将来に生かされる、生きた賞だ、と感じた。同じ今年受賞した3人の学者によるLEDの光も、マララさんの行く手を明るくするはずだ。
私の勝手な想像、夢だけれど、葉書ほどの大きさの太陽光電池で、LEDの光ならば充分夜を明るくすることが出来るのだそうだ。これは、猛烈凄いことだ、僻地の、電線が通らないところでも電灯が点るのだ。私の想像は、こうだ。電子リーダーというものがある。充電するのもわずかな電力である。これと太陽電池とLEDランプを世界の端々にまで届ける。電子リーダーには、約4000冊の本が入る。これを配ったら子どもたちの勉強に役立つだろう。大人だって、いままで学びたくても、その環境がなかった人たちが、願いを叶えることが出来るし、楽しみも増える。ことしのノーベル賞で、私は地球全体への夢を広げた。

朝日新聞のために

朝日新聞が、社長が謝罪して、編集統括者を解任、自身も時期を選んで辞めると言った。フクイチの時の命令云々の問題を主軸に、つけたしのように慰安婦問題を付け加えた。朝日新聞は、慰安婦問題では、ほとんど反省をしていない。が、世界中に行き渡らせた、誤った印象は、一朝一夕に消すことは出来ないのだ。朝日新聞の罪は、計り知れない深さと重さを持っていて、修復は苦しく、遠いだろう。
この問題は、地球上に男と女が出現した、大昔から絶えることなく続いてきた事柄なのだから、世界中が集まって解決へと進む事が必要だと思う。というのは完全に理想論ですが、そう言うしかないほど暗澹とした問題ではないだろうか。私は、朝日新聞の社長は、事態の深刻さを見くびっている、と感じている。また、他紙も、他のメディアも、見物人と思ってくれては困るので、自分の事として反省しなければいけないのではないか。
いまどき、マスゴミの言うことを信じるバカがいるか? という大衆の常識を作ったのは、新聞、TVその他のメディア自身ではないか。各社には、それぞれ社風があり、朝日新聞社のこれが汚染されきっているのだから、社長を取り替えても空気は残る。完全に解体することしか、希望は芽生えない。勇気を持って、いったんバラシて、出直して欲しい。良いところがたくさんある新聞社なのだから。

集団的自衛権

安倍政権は、発足当時からコレを決めたかった。大多数の国民が、どれほど嫌がろうとも、問答無用で決行するつもりだった、と私は思う。しかし、憲法第9条を守ろうとする堤を乗り越えるためには、正統な手続きが必要である。憲法改正のための長い時間がガマンできない、なんらかの事情を抱えているにちがいない。安倍政権がしたことは、サギをカラスと言いくるめる、言葉の綾を用いた狡いやりかただった。七月一日に閣議決定したとたん、ニュースの表から素早く身を隠し、この決定に伴う諸々の法律づくりに励んで喜色満面である。昨今のテレビの報道は、信ずるに足らぬ電波汚しだが、決めた瞬間から、安倍、高村などの閣僚の表情が一変した様子を、そのまま映し出した。これは、憲法第9条を破棄したも同然の暴挙。コレをやったら、日本は国家として顔見せできないと思わないか。国家として認められない、と思わないか。恥ずかしい、では済まないのだ。
3.11のときの、略奪も起こさなかった日本人。サッカーワールドカップで、ゴミ拾いをした日本のファンたち。世界中が温かいまなざしで見つめてきた日本が、コレで一変するのだ。大東亜戦争を起こすときに、平和のためと発言していた戦犯政治家と、どこが違うのか?
国民が考えをつくし、この危機から国民自身を救い出すために、これから先の多くの人の発言が大切だと思う。黙って眺めて、「でも、しょうがない」と呟くのだけは、止めませんか。

東京の大雪

あれは何時のことだったろう、と思い出そうとしたが忘れきっていた。東京地方の大雪のことだ。そのとき、近所の個人宅の車庫が雪の重さで潰れた。たいていのガレージの半透明の”さしかけ”が潰れたのだ。私の家では潰れなかった。どうして? って、屋根がないからです。こんどの大雪では一軒だけ潰れた。以前に潰れた家々では頑丈な’さしかけ’に取り替えていたので車は無事だった。
ところで山梨県の梨農家をはじめ、東京近県のハウス栽培農家が甚大な被害を受けた。何年かかっても元通りにならない大切な木、金になる実のなる木が潰れてしまった。個人宅のガレージは、それぞれが修理するし、なければないで済むものである。が、農家はそうはいかない。生活の基盤である。自力修復は不可能。公的機関が援助することにならざるを得ない。イチゴのハウスも、潰れた下からイチゴを摘んで、ジャムにしようと頑張っている姿は痛々しい。税金で助けるということは、市民全員が寄ってたかって助ける、という意味だ。
私は、これはおかしい、ヘンだ、間違っていると思う。前から、止めればいいのに、と苦々しく感じていた。それはハウス栽培のことだ。関東平野は気候温暖で露地物栽培に適している。現に埼玉のネギ、群馬のコンニャクを見て欲しい。一面のネギ、コンニャク畑だ。できるのになぜハウスか。石油を使って温めて、自然に育ち、実が実るよりも一足先に市場に出したいからだ。あら珍しい、もうキュウリがでているわ。これは既に昔の話だ。今は一年中スーパーに山積みされているキュウリであり、トマトである。当たり前になっている。クリスマスの時期に、あれだけふんだんにイチゴが並ぶのも、費用と人出をかけている故だ。その代償は消費者が背負う。鶏か卵か、という話になるが、消費者も、生産者も目を覚まして欲しい、というのが私の意見だ。
私は、いまどき出回っているキュウリもトマトも食べたくない。あれほど美味しさがない、色と形だけのものなんか、買いたくない。買わなくても豊かなメニューの食卓を用意できる。

都知事選

都知事選の争点を原発問題に置くことの不当性を主張しているのが現内閣である。発言した閣僚たちの名前を挙げて個別に批判するつもりはない。内容だけを取り上げると「(核施設)設置自治体でもないのに争点にするのは不当だ」と言った人がいた。
あなたは、ほんとにそう思っているの? と私は心の中で言った。新潟県の山奥をドライブしていたときのことだ、一車線分がかろうじて舗装されている農道の行く手が工事中の柵で塞がれていた。さてどうしよう。脇のジャリ場に停めて散歩。ようやく家回りで雑用をしている老夫婦を見つけた。
目的は迂回路を教えて貰うことなのだが、前置きの挨拶から雑談へ入ってしまった。
ほれ、見て見ろ。と老夫が私の目を見た。見回す私の目には、重なり連なるおだやかそうな山々と、目の前の一軒家。手前に里芋畑。今朝から走ってきた山道の、どこにでもある風景であり、特別にワシ、タカが飛んでいるわけでもなかった。なにかしら、と私は奥さんに言いかけたが老妻は、聞こえないのか土間の奥に消えた。あれだよ。と老夫が空を指した。そこには細く黒い筋が見えた。高圧線だった。山から山へ、そして次の山へ。高圧線が伸びている。
あれを使うのは東京だよ。あれは、東京のためにやってんだよ。老夫は、また私の目をのぞき込んで言った。
それから老夫と私は話し込んだ。んだからよ、おめえ。と彼は言う。んだなあ。と私は頷く。わたしたちは、わたしたちなんだ、と噛みしめながら話し合った。電力のこと、暮らしのこと、高圧線の鉄塔を設置する工事は地元の男たちが請けたこと、彼らの得た収入。里芋だけから現金が入る”おれんとこ”のこと。新聞を購読しなくて上々、テレビで上々。しかし察知力、推測力、判断力は、なまじの文字情報からは得られない根深さがある。
政治に携わる人たちは、根無し草が多いような気がする。そして東京人には、根無し草が多いとも感じている。東京の人口の中で、いずれ郷里に帰る人、郷里から出てきたばかりの人、親の代に東京に住み着いた程度の、浅い東京人などが、いったいどのくらい含まれているだろうか。彼らは東京を味わってはいるが、東京を愛しているわけではない。東京を守ろうともしていない。いっとき、東京ファッションを楽しむくらいの軽さで、東京の場所を占めているに過ぎない。

おもてなし

オリンピックの宣伝で .... もっと読む…

年内に喋ろう

ミーハーな話題は年内に喋ってしまおう。人間、年を重ねると、性別不詳となる人がいる、という話題。聖路加国際病院の日野原先生は、お若いときは大柄な男性だったそうだが、いまは小柄で、にこやかで優しい女性のような笑顔の方である。だれにも分け隔てなしに誠実で親切で、偉ぶらないからみんなが親しく肩を寄せてくる、こんな雰囲気も女性に近いものを漂わせている。逆に女性でも男の持つ骨太な根性みたいなものを身にまとう人もいるのではないかしら。直接会ったことはない有名な方々のなかで、亡くなられた山田五十鈴さん。この方は男のように感じた。杉村春子さんも、同様だった。生きている人の中では、美輪明宏さんが性別不詳。美しい装いで、ご自身も美しいから女性に見えるが、時としてこれだけは言いたい、というようなことを心の底から伝えようとして正面を向いたとき、どうみても女性には見えない。じゃあ、男性かというと、これもあやふやなもので、いま挙げた方々すべては、つまり男女を超越しているのだ。たいていの人は、男にしか見えないし、女に見えるのが当たり前である。もーっと年齢を重ねると、人種も定かでなくなる。深い皺が刻まれた老人に、そのような人がいる。男でも女でもなく、どこの国の人かも分からない。もしも長生きできるのだったら、そういう人に私はなりたい。

自分のことを他人が決める

私のかかりつけのお医者さんは、若先生だ。長い間、彼の父に世話になっていたが、いまは二代目、若先生の時代になっている。若くはない、すでに還暦を過ぎた若先生である。あとに患者がいない日がある。そんなときは無駄話ができる。釣りの話、魚拓が飾ってあるので釣話はたくさんした。雑談も品切れになってきて、一つ質問した。それは、持ち歩いている健康保険証と一緒に、自分の希望を書いて持ち歩く,何かあったときに,保険証と一緒であれば、医療関係者に見て貰えるだろう、如何か、というものだ。何を書いとくの? と先生。口から自分で食べられなくなったら、無理して補給しないでくれ。脳の発作でひっくり返ったら,無理して蘇生させないで、放っておいてくれ。と書きます、と私。そりゃあ無理だよ、と先生。だって、自分の事ですもの,自分が好きなようにしたいから、と私。わかるけど、誰だって麻痺して生きるのイヤだよ、でも無理だよ、と先生。自分の事は自分で決めたい、当たり前ですよね。それも生死に関わる大事なことは,自分で決めたい。と私もしつこい。ついに先生は言った、医者というものは、非常、救急時には、反射的に助けようと動いてしまうものなんだ。書きつけ見ている暇はない。できる限りの処置を進めてしまうものなんだ。
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