文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
July 2015

今年のテーマ文字は、信。毎年一文字を持って暮らしている。
子貢が孔子に政治の法を問うた。孔子が答えて、食物を十分に、軍備を十分に、人民に信用させることだ。このうち最後まで守るべきは信。次に食、軍備の順だと言った。国民が施政者を信ずるということは、想像を絶する困難さがあるが、国にとってこれほど大きな力はない。信ずれば力を発する。互いが信に応える。基盤だと思う。
日頃の暮らしのなかでも、相手が信をどのように捉えているかは、言葉を通さずに分かるものだ。相手を信じ、自分も信じて貰えるために必要なものはなんだろう? 自分自身を信じていない人は、他者を信ずることができないものだ。

独居の不安

独りの時に闖入者が現れたらどうしよう、それが強盗だったりしたら。あなたは、そんなことを考えたことはないですか? と友達が訊ねた。メールのやりとり。電話のおしゃべりではなくメールだと、ゆっくり考えをまとめることができる。すっかり防犯談義となった。
いちばん可能性が高いのが居空きで、自分が家に居るという自信から、お勝手にいるのに二階を開け放っていたりするものだ。室内犬がいると、居空きの心配は皆無と言ってよい。小型犬といえども心底信頼できる。千早のような日本犬だったら侵入者にとっては恐怖そのものである。千早と一緒に暮らしていたときは、戸締まりなんか不要だった。夜中でも、チハ見てきて。と囁くと、身を起こしてガラス戸に開けてあるフラップから庭へ出て、庭中を見て回って戻ってきた。
ところがいま、私が共に暮らしているのはネコ。お富士さんについては、この2年間でだいぶ理解してきた。聴力は鋭い。およそ犬の倍はある。ネズミのキーキー声のような高い音に敏感で方向も正確に捉える。もしも居空きが侵入したら犬と同様に察知するはずだ。しかし、ここからがちがう。犬は瞬間的に主人を思う。報せる反応が瞬時に現れる。ネコ殿は、自分自身の感覚に没頭する。誰かに報せるなんて、頭にない。どこに何がいるか、どの方向に動きつつあるか、身体全体で観察して緊張する。手強いと感じると背筋の毛並が総毛立つ。もっと緊張すると長い尾が煙突掃除のブラシのように逆立つ。あら、なにかしら? と興味が湧いているときは、尾が楽しそうに踊るのだ。耳の立ちよう、視線の方向、姿勢、毛並、尾を見て、なんかあるな? と受け取る必要がある。ネコは知らん顔だ、冷淡だ、と見ないで、ネコ本意に見て取ると、身体全体で表現してくれていることがわかる。ときおりネコを見ることで家の安全がわかる。というわけで、猫的防犯になってきた。

目くらましは通じない

安保法案を強行採決し、国民の反対を無視しきった安倍内閣は、新国立競技場の建設計画を白紙に戻すと発表した。次の参院選が不安になり、国民の意見を入れていますよ、と見せたいのだろう。競技場の話で、70年来の大事な国家の問題を目立たなくしようとする魂胆は汚い。テレビは悪質だ。いったん採決されたとなったら、まるでなかったことのように話題に出さない。毎年恒例の台風のニュース、そしてオリンピックのための競技場建設の話題で終始している。台風もオリンピックも、どうだってよいことだ。日本の姿勢を一変させる今回の法案をどう受け止めているのだろう。だいたい野党が小異にこだわりバラバラであるから力を結集できないのだ。野党を見くびる自民党とコウモリ党が放漫経営をしている。

あの時と同じか?

安全保障法制関連法案、いわゆる安保法案の採決が行われようとしている。瀬戸内寂聴さんは、戦争前夜のときとそっくり。黙っていられないと声を上げられた。あのころを身体で知っている世代はいま、80代の半ば以上である。総理大臣も並み居る閣僚も、あの頃を知らないのである。知らない空襲、経験したこともない戦争である。もうすぐ80才の私だって、知っているとは言えやしない。子どもの背丈から見上げていた戦争、空襲、そして戦争前夜だったのだ。そのころ以来、私は精神を呪縛されて、容易なことでは呪縛から解き放たれることなく今日まできた。もっとも恐ろしいのは言論統制だった。そんなことを言うと憲兵が。そんなことを言ったら特高が。この呪縛は、ほとんど解けることがないように感じられてきたが、いま、強行採決を目前にして、有名無名の多数の日本人が、堂々と発言している声を聞いて、私は深く感動している。国民の側は、いつのまにか、そっくりじゃなくなっていた。
そっくりなのは、安倍首相とその周辺の政治家たちだ。現代に、現実に呼吸しているのか? と尋ねたくなるくらいに、大東亜戦争を起こした政治家と軍部そっくりだ。変わらない強引さと、突き進みたい欲望の強さを露わにしている。時代は進んでゆく。もしも日本に徴兵制を持ち込もうとしても、あっけらかんと断る一般人が続出するだろう。嫌なものはイヤだ、と大声で言える国民が育ってきている。勇気と希望を持って発言しよう。日本の将来を救うのは、一般人だ。

偶然、二つの目に出会った。一つは昨日の新幹線の火災事件、もうひとつは、今朝放映されていた岡山県立図書館のニュース。
新幹線のガソリン放火自殺、巻き込まれた女性の死は、セキュリティについて深刻な問題として立ちはだかった。サミットとオリンピックを控えている。半世紀もの間、無事故できた誇らしい新幹線が、いま安全を考えるきっかけを作った。各方面の専門家が述べる意見の最後につくづく述べられた述懐は、人の目が大切だ、と言うことだった。もちろん、これから様々な対策を立てるに違いないが、その基本は人の心を向ける目にあるという。
岡山県立図書館は、来館者数が日本一だということでテレビの取材を受けていた。館内の環境、蔵書数、機械化されたシステム。加えて岡山県の教育方針も底力となっている。最後に取材者が、ためしに司書に頼んだ。自分は肥満で悩んでいますが、解決に繋がるような本はありますか? 取材者は、なかば恥ずかしそうに顔を伏せて、そう呟いた。このときだ、私が目を見張ったのは。司書、男性だったが、興味深そうに聞き入りながら取材者を見つめていたのだ。その後取材者との対話は、目と目を合わせる爽やかなものだった。日本一の来館者数の土台にあるのは、なんだろう。どれほど建物が立派でも機械化されて、スルスルと本が現れようとも、それだけでは日本一にはなれないのではないか。種類の違う2つの目が並んだが、要は心にあるということなのだろう。
私の居住区にある合同庁舎内の区立図書館は、久しく目を閉じており、館全体を暗鬱な灰色の霧が覆っている。同じ合同庁舎内の福祉事務所も同様で、カウンターで来意を告げたところ、他の用事を続けながら下を向いたまま、叫ぶように言った、そこの黄色い紙、取って! 

火山国としょうがない

鹿児島の口之永良部島、新岳が今年5月に噴火した。神奈川の箱根山、大涌谷付近が警戒レベル3に引き上げられた。今日は富士山吉田口のお山開きの7月一日である。日本列島を私は、サラマンダーに重ねている。サラマンダーは、伝承の中にいる小さなトカゲのような生き物で、燃えさかる炎の中や、マグマの中に棲んでいる。火を司る精霊とも言われるが、日本列島の下にコレが棲んでいるのではないかと思ってしまう。
去年の御嶽山、今年に入って浅間山。箱根の地獄谷で真っ黒茹卵を売る人たちは、どうか納まって欲しいと願う日々、しかし相手は「お山」である。
無事安全に生かして欲しいと「お山」にお願いをする心が、折節の行事となり祭りとなっている。こればかりは政治家に文句をつけても動くものではない。そうなると「しょうがない」というところに行き着くか、祈るしかない。「お山」が気の済むまで噴火して鎮まるのを待つしかない。
私は、周囲の誰彼が、二言目には「しょうがない」という一句で議論を締めくくるのを、歯がゆい思いで聞いてきた。意気地なし。覇気がない。能力不足。腹の中に煮えたぎる不満が、それこそマグマのように蓄積されて、いまもある。諦める前に努力しようじゃないか。何とかしよう、と知恵を絞ろうよ。私はイライラと怒りながら思っている。
しかし、御嶽山から大涌谷までの、数珠つなぎに起こる噴火を前に、そうか、日本人の「しょうがない」という発想は根が深いのだなあ、と思い至った。中国では言う、虎より恐ろしい悪政。日本の場合は悪政より恐ろしい噴火なのかもしれない。
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