文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

個人として立つ、ということ

独立した一人の人間のあり方について、最近二つの出来事について気になっています。一つは相撲社会の出来事で、元横綱日馬富士が貴ノ岩関に暴行した事件、もう一つは森友事件で、安倍晋三総理大臣の妻、昭恵さんに関与の疑いがかけられている事件。
気になっている点は共通しており、なぜ本人が裏手にかくまわれているのかということです。
私が思うには、ゴタゴタが起きた場合、幼稚園児同士のいさかいであったならば、双方の親同士の話し合いになることは十分考えられる、しかし子供ではない大人、立派な成人が背後に匿われて、親方だの夫だの、身代わり人が表に立って抗弁する、これはヘンだ、おかしい、あってはならないことだと思います。
なにを幼稚なことを言っているんだ、これらは政治的行動じゃないか、と笑う人もいるでしょう、しかし、視点を裏手に隠されて表に出してもらえない側に移して見てみると、これは捨て置けない話です。殴られた相撲取りは、若いとは言え立派な成人です。本人が直接表に現れたらよろしいし、それが自然であり、当然の態度でしょう。本人を隠すのは解せない。頭の皮を何針だか縫ったと騒いだが、長期入院の大騒ぎをするほどのことか。私は車にぶつかって頭の皮を8針縫ったことがありますが、入院どころか普通に暮らしていました。話が脇道に入りますが、頭皮に裂傷を負った場合、大量の出血があります。顔じゅう真っ赤っ赤になります。半端ではない量です。暴行現場の説明は理解しがたい。外科医のコメントが私の見る限り見当たらず、このことに誰も言及していなかったことは、私から見ると大きな疑問点ではあります。長期間にわたり心身ともに封印された本人の気持ち、意見は消去されてしまったのでしょうか。殴られた傷は癒えるかもしれませんが、何人にせよ、大道から外れた歪んだ判断は、まだ30歳前の若者の将来に修復不能の後遺症を残すのではないかと危惧します。人が人に、してはいけないことです。
一方、総理大臣夫人が、総理の妻であるという関わりから出会うこととなった人々との間に引き起こした言動について、国会で問われているという現状と見えますが、これも徹底的にかくまっています。昭恵さん、ご自分で話してくださいと要請された安倍晋三は、ウチに帰って聞いたら、これこれと言っていましたと答える。この対応が通用すると踏んでいるのが我が国の総理大臣とは噴飯ものです。というか表に出せない、みっともなくて。
この事件も、妻の側に立ってみると、捨ておけない問題があるように見えます。独立した一人の人間として認められていないのか。これを女性蔑視の問題とみることもできますが、ことは、それ以上に深刻で重大です。人権を尊重する。独立した個人の人格を尊重し信ずる。これらが完全にないがしろにされています。これは、人が人に、してはいけないことです。
この二つの出来事は、組織としての対処が必要とされた場合、いとも簡単に人間の尊厳、人格、権利、すべてが反故にされてしまう様相が如実に現れたものと思います。これが、今現在の日本社会において平然と行われているということが、どういう意味を持つでしょうか。くどいようですが、一つは一相撲部屋の内で起きたこと、一つは夫婦間で起きたことです。いったん、戦争になったら、一般国民は政府にとって身内ですらありはしない。どんな目にあうか知れたものではありません。他人事ではないと言いたかった次第です。


自分の行為を飾る言葉

修飾語だとかなんとか、文法についての言い分ではない。
自分自身の行いについて、自分自身が話す、あるいは書き記す場合に使う飾りの言葉について考えている。
たとえば幼稚園に通い始めた子どもが、何日か経った朝、はじめて自分で服を着て帽子をかぶり靴を履いた、お母さんを見上げていう、「一所懸命やった!」
えらい、よくやったね、と喜ぶ大人の笑顔。
これを、大人になってからあまりにも多用すると、あるいは場違いな場面で使うと、失笑を買うことになる、というのが今日の話題。

自分の心情をわかってもらいたい、確かに相手に届けたいと願うとき自分の行為に付け加える言葉なのだから、幼稚園児の身支度を見守るような心で受けたら良いものではある。
が、時と場合によりけり、環境と立場によりけりだ。
国会で答弁する我が国の首相は、これは安倍晋三のことだが、「します」といえば済むところを早口で何分間も喋り立てる。たったの三文字につけ加える飾りの言葉で高価な国会時間を費消させている。
「真摯にですね」「しっかりと、ですね」たとえば、このような言葉だ。ですね、とつけ加える惨めさ、品のなさは、言葉を発する本人だけは感じていないらしい、繰り返すのだから。
この総理大臣の真似をするのだろうか、閣僚たちが右へ倣えの言葉遣い、これが拡散して社会に行き渡る悲惨さ。ではなくて世の中の風潮に染まってということか。
貧弱な実態を、これでもかと飾り立てている有様に腹を立てるのが虚しい。反発する空気が感じられない故に虚しい。なんだ、中身がないじゃないか。という声が聞こえないのは、聞き手の側も似たものなのだろうか。

最近、「全身全霊を持って」という飾り言葉が散見されるようになった。これは昨夏、テレビで天皇が所信を述べた時に含まれていたもので、この影響があって使う人が増えたのかもしれない。
これは、なかなか迫力のある強い表現だけれど、天皇が自分自身に関わるところにかぶせる言葉だろうか、と私は反発する気持ちがある。受ける側が、陛下は全身全霊を持って事に当たられ云々、と表現するならわかるが、苟も国の象徴と自他共に認める椅子に座る人物が自分自身についてかぶせる言葉ではないのではないか。なぜかというに、命の限り、全身全霊を持って事にあたるのが当然である椅子に座っているのだから言うまでもないことであろう。
むしろ、淡々と述べるにとどめる方が、どれほど大きく輝くことだろう。これではまるで一般人の言い方だ。威をはらう空気が、どこにもない。こんなならありやなしやのあけぼのの月。
さらに脇道に入るが、皇太子が誕生日のインタビューに応じている中で、昨夏の天皇のお気持ち表明を「テレビで拝見しました」と話していた。なんだ、眺めていたのか、と私は受け取った。拝聴いたしましたと表現すべきではないのか。それとも文字通り見ていただけだったのかしら。似た者父子だ。

長屋

最近のこと、近所のアパートが建て替え工事をしていて、今度は重層長屋になるという。
長屋? 長屋って落語に出てくる、あれのことかしら。まさか。いや待てよ、いまどきはレトロな長屋が人気なのかな?
つい先ごろまでは、こうした疑問が湧いた時はすぐに電話の前に座りこみ、誰彼に電話をして教えてもらっていた。ついでによもやま話で長電話となったり賑やかだった。今は、そうはいかない。様変わりした。
第一、電話がはっきり聞き取れない。相手は脳梗塞の予後で発音がはっきりしない、こっちは耳が遠くなっていて音が滲んで聞こえる。で、電話はさっぱりと諦めて留守電にセットして出ないことにした。これはおれおれ詐欺から身を守るための方法ではあるけれど、詐欺の心配よりも、息子たちを安心させるのに役立っている。大丈夫よ、出ませんからね、というわけだ。
ところで長屋は、グーグルで検索、ものの2、3分で解明されました。
共同住宅とは、階段・廊下・玄関・ホールなどを共同で使う住宅。マンションなどのことだ。
長屋というのは、共有部分を持たない住宅だという。直接道路に出る。知らなかった。重層長屋は一階と二階で一軒分となっていて内部に階段がある。要するに連結二階家。
それではアパートとはなんだろう。これは木造共同住宅で、鉄筋だったらマンションらしい。突き詰めてゆくといい加減な部分もあり、時代によって変化してゆくものでもあるらしい。
だったらいいなあ、重層長屋がレトロなご隠居さん時代のテイストを引き継ぎながら、最先端の電波設備を入れて暮らし始めたら、今時の人たちは縁台の代わりの何かを生み出すに違いない。
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