文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

自分の行為を飾る言葉

修飾語だとかなんとか、文法についての言い分ではない。
自分自身の行いについて、自分自身が話す、あるいは書き記す場合に使う飾りの言葉について考えている。
たとえば幼稚園に通い始めた子どもが、何日か経った朝、はじめて自分で服を着て帽子をかぶり靴を履いた、お母さんを見上げていう、「一所懸命やった!」
えらい、よくやったね、と喜ぶ大人の笑顔。
これを、大人になってからあまりにも多用すると、あるいは場違いな場面で使うと、失笑を買うことになる、というのが今日の話題。

自分の心情をわかってもらいたい、確かに相手に届けたいと願うとき自分の行為に付け加える言葉なのだから、幼稚園児の身支度を見守るような心で受けたら良いものではある。
が、時と場合によりけり、環境と立場によりけりだ。
国会で答弁する我が国の首相は、これは安倍晋三のことだが、「します」といえば済むところを早口で何分間も喋り立てる。たったの三文字につけ加える飾りの言葉で高価な国会時間を費消させている。
「真摯にですね」「しっかりと、ですね」たとえば、このような言葉だ。ですね、とつけ加える惨めさ、品のなさは、言葉を発する本人だけは感じていないらしい、繰り返すのだから。
この総理大臣の真似をするのだろうか、閣僚たちが右へ倣えの言葉遣い、これが拡散して社会に行き渡る悲惨さ。ではなくて世の中の風潮に染まってということか。
貧弱な実態を、これでもかと飾り立てている有様に腹を立てるのが虚しい。反発する空気が感じられない故に虚しい。なんだ、中身がないじゃないか。という声が聞こえないのは、聞き手の側も似たものなのだろうか。

最近、「全身全霊を持って」という飾り言葉が散見されるようになった。これは昨夏、テレビで天皇が所信を述べた時に含まれていたもので、この影響があって使う人が増えたのかもしれない。
これは、なかなか迫力のある強い表現だけれど、天皇が自分自身に関わるところにかぶせる言葉だろうか、と私は反発する気持ちがある。受ける側が、陛下は全身全霊を持って事に当たられ云々、と表現するならわかるが、苟も国の象徴と自他共に認める椅子に座る人物が自分自身についてかぶせる言葉ではないのではないか。なぜかというに、命の限り、全身全霊を持って事にあたるのが当然である椅子に座っているのだから言うまでもないことであろう。
むしろ、淡々と述べるにとどめる方が、どれほど大きく輝くことだろう。これではまるで一般人の言い方だ。威をはらう空気が、どこにもない。こんなならありやなしやのあけぼのの月。
さらに脇道に入るが、皇太子が誕生日のインタビューに応じている中で、昨夏の天皇のお気持ち表明を「テレビで拝見しました」と話していた。なんだ、眺めていたのか、と私は受け取った。拝聴いたしましたと表現すべきではないのか。それとも文字通り見ていただけだったのかしら。似た者父子だ。
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