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山怪

『山怪』『山怪 弐』副題=山人が語る不思議な話 著者=田中康弘(たなか やすひろ)発行=山と渓谷社 2015年 続編の弐は、2017年 256頁 128X187mm @¥1296 ISBN9784635320047・ISBN9784635320085
著者=1959年長崎県佐世保市出身 日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場や山間の狩猟に関する取材が豊富。
内容=山で働き、生活する人たちが、今現在、実際に遭遇した不思議、奇妙な、説明のつかない体験を聞き取り記録したもの。現代の遠野物語か。
感想=放浪取材のフリーランスカメラマンの聞き取り話。こういう仕事の人って、仕事というより生きることと抱き合わせで選んだ仕事だから。他の職業にはつけない人なんだと思う。
写真を撮りながら、出会った人たちと喋る、そのうちに聞いたことを集める気になったのではないか。
内容から柳田國男さん、松谷みよ子さんを思いだした。
柳田國男さんは、学究の目的であった、松谷みよ子さんも、具体的に民話採集という目的を持っていらした。
田中さんは、ちょっと違う。なんか怖い経験て、ありませんか、みたいな聞き方をしている。
だから「さあ、何もないよ」という返事をもらうことがよくあり、それもそのまま記されている。帰り際に、そういえばこんなことがあったよ、と話してくれたことが収穫だったりしている。経験を語ってくれる人たちが、普段の言葉で、同じ目の高さで、本当のことを話してくれている、そんな感じを受けた。地域の人たちに教えてもらっているみたいな、話す側も、耳を傾ける田中さんもも、なんかあったかい。
強調したいことは、どれも本当のこと、本当だと、本人が信じていること、が記されていると感じたことだ。
創作怪談の、ひたすら怖がらせようという話が好きな人には物足りないだろう。ここには技巧もないし、増幅装置もない。事実だけだ。
その代わり、自分も似た経験をしたよ、あの山で、と思い出すような人には、たまらない魅力がある、実際の経験を共有できるのだ。
この本を読んでのちのこと、独りで山歩きをした。山小屋に真新しい本書が、まだ帯付きで棚に立てかけてあった。
買ったの? と主に尋ねたら、そうじゃない。自分が話したことを、ここに書いてもらったんだという。
ほ、ん、と、のことを話したんだよ。それを、そのまま書いてもらった、という。
「あたしさ、この人に喋ったんだ、ほれ、ここに出てるのがあたしさ」と表紙の著者の名を指で押した。
懐かしがっていた。そして本当のことを喋ったのを、そっくり信じてくれたと目を輝かせていた。
信じてもらったとは嬉しかったろう、私は誰彼に話しても、信じてもらったことがない。はあ、そうですか。わかりましたよ、と微笑みを返してはくれるが、河合さん、また〜、という目つきである。
もっとも、私の経験は貧弱なものである、アイヌ犬の千早と二人っきりで山に入り、とことん迷う。定石通りの堂々巡り、ここ通ったところだ、と悟って愕然とする。何度かやらかしたが、不思議と反時計回りに廻るのであった。
実は、これは死を暗示する動きなのだ、生き物が死ぬ間近には、犬も人も他のものたちでも、反時計回りに動こうとするものだ。これは獣医師から直接教えていただいたことで、でたらめではない。
もう一つ、これも千早と二人、以心伝心で黙々と歩いて全く口を利かない数時間。ごく間近に笑い声を聞いた。3、4人、あるいは数人の、私と同年輩の女性ばかりが笑い喋りしている。林業の人が歩く道もないところだ。
こんな「気のせい」的な経験を持っていると、この二冊の本を読むと、ああ、自分だけではなかったんだ、本当にあったんだ、とホッとするのである。
全く怪異に遭遇しない人もたくさんいる。そのような人がトンネルの中で怪異らしきものに出会った話が面白い。
アタマ良さそうな男性が、どう見てもおかしい現象に対して、もっともらしい科学的解説をして信じない。いるいる、こういう人、という感じだ。

Black Box

『Black Box』ブラックボックス 著者=伊藤詩織 いとうしおり 発行=文芸春秋社 2017年 Kindle版 ¥1400 ISBN9784163907826
著者=1989年生まれ フリーランス ジャーナリスト。
内容=ノンフィクション 就職の相談をしていた信頼する人物から思いもよらぬ被害を受ける。飲物に薬物を混入され、体は動かせるが意識を失う状態に陥った上での強姦だった。この事実を司法の手に渡そうと努力する前に立ちはだかる壁は厚く、あらゆるところにブラックボックスがあった。
感想=
心を鎮めて冷静に記そう、と精一杯の努力をしている跡が見える。よく、ここまで客観的に、とくに自分をかばおうとせずに、ありのままを書き通せたと思う。
彼女がジャーナリストであり、観察眼と表現力を持っていたことが力となって本書ができたが、根本に強い正義感と強靭な精神があるからにちがいない。
泣き寝入りをし、あるいは自殺にまで追い詰められる被害者たち、同情どころか卑猥な目で見られる被害者たちが、今まで世界中に数知れずいたのだ。
詩織さんの心と視線は、こうした被害者たちの気持ちを背負い、未来へ向けられている、と強く感じた。
レイプ被害にあった時、町の婦人科へ行ってはいけない。なぜか。その訳を丁寧に説明してくれる詩織さんは愛に満ちている。弱き者たちを守ろうとしている。初耳の新知識がたくさん記されている。誰もが覚えておくと良いことがらだ。

レディ・ガガは19歳の時にレイプ被害に遭い、7年間、誰にも話せなかったというエピソードが書かれている。知らなかった。ガガさんが、そののち歌った歌のことも記されている。
折しもハリウッドで有名プロデユーサーのセクハラが表沙汰になっている。Me Too という運動も盛んになっている。これらは今まで黙って耐えてきた女たちの勇気ある発言によるものだ。
詩織さんは、個人の問題だけではない、世界を視野に入れてBlack Box の蓋を開けようとしている。
歪んだ見方を排除し、卑劣な犯人の名前を記憶することをもってBlack Box をEmpty Box にしましょう。
この本を買い、レビューを書く理由は、内容を知り、理解することと同時に著者、編集者、出版社、そしてここまで来る間に詩織さんをかばい、理解し、サポートしてきた方々への応援の気持ちからです。勇気を持って立ち上がった著者を応援したい。この勇気はなかなか出るものではないからだ。現に家族からも思いとどまるように説得されたという。
昨日のこと、フランスの女優、ブリジット・バルドーが、この件に関してコメントを発表していた。BBは1950年代の大人気映画女優。セクシー美人だったが引退後は動物愛護に尽力してきた人。BBの意見は、業界では私欲のために業界の男性と性交渉を持つ女性を数多見てきた、という内容だった。
実際、「女性」を武器に世を渡ろうとしている人がいるし、恋愛との境界線は限りなく曖昧なのだろうと思う。
昔、有吉佐和子という作家が書いていたのを鮮やかに思い出せるのだが、彼女の持論は、女は絶対強姦されない、というものだった。嫌だと言ったら最後まで拒否するし、拒否してみせると彼女は主張した。彼女が未婚時代に描いたものだったと思う、そして読んだ私は完全に同意したのだった。なんでおめおめと、と思った。反撃したら良いじゃないかとも思った。有吉さんは私より年上の才女と呼ばれる人気作家だったから、同感しつつ心強く感じたものだ。
しかし、80年以上生きてきた今、私は全面撤回する。反撃すりゃあ、良いじゃないか。嫌なら嫌と断れば良いじゃないか。そんな問題ではないことは、今は中学生だって熟知しているはずだ。沖縄の少女が強姦されて殺された事件は、ついこのあいだのことだ。横田めぐみさんの問題も、関係ないと言えるか。拉致されて北朝鮮の男と結婚させられたとは! この苦悩は政治屋以外のすべての国民が共有している。こういう事柄をブラックボックスに入れられてたまるか。
本書のタイトルにあるブラックボックスとは、いったい誰がこしらえたボックスだろう? 私が危惧し、警戒することは、このブラックボックスがいつの間にかタイムボックスに入れこまれることだ。ほら、あるでしょう、箱の中にすっぽり収まる大きさの箱があり、またその中に箱がある。
開かずの箱に入れて、さらに時の箱に閉じ込めてしまったら。これを阻止するのは、一人ひとりのハートにかかっています、力を合わせましょう。

浮世の画家

『浮世の画家』An Artist of Floating World 著者=カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro  訳=飛田茂雄 発行=中央公論社 1988年 286頁 古書
著者=前出
訳者=東京出身(1927~2002) 早稲田大学大学院 英米文学翻訳家 中央大学名誉教授
内容=1986年、32歳の時の作品。1987年ウイットブレッド賞受賞作。1948年から1950年間の、日本国内の架空の場所における長編小説。
有名な老画家が、戦後の変動の中、家族、弟子たちのはざまで揺れる心情を描く。自己の自信を支えてくれてきたはずの、もてはやし、敬服してくれた弟子たちが向ける背、疑念なく長として居座っていたはずの家庭、それを支えてくれる礎ともいうべき女たちの、意識せぬ彼への無頓着さや無視する言動が彼を苦しめ、足元を揺るがせる。彼は、7、8歳の孫の一郎を味方に引き寄せようとする、しかもその方法は、男だから共に酒を飲もうというものであったが、これにも娘から手痛い反撃を受けて敗退する。
荒れ果てた往時の純日本風の屋敷、あるいは空襲で荒廃した街、これらが舞台として描かれて、戦争による崩壊が形の上でも、精神の内側でも起こりつつある様相に重ねられている。
感想=この構想をまとめたのが32歳とは恐れ入りました。これは英文で読まないと本当のところはわからない。訳者の親切心が衣を着せていはしないかと憶測したくらいだ。
日本について取材もしただろうし、何よりも家族からの生の情報がふんだんに入る環境であるから、日本人が書いた作品と感じるのが自然だろうが、違う。外国の人は感じないかもしれない、ちょっとした違いが、決定的に日本人ではないと感じさせる。
作品の出来ばえとは関係のない部分であるから、日本人とは違う、と感じた点を幾つか挙げてみよう。
並木、若木、と書く。樹木の名がない、花の季節か若葉の季節かの記述がない。屋敷に日本庭園があり深い池がある。しかし造園された庭池は浅いものであり深い池は存在しない。客間に仏壇があるという。部屋数が相当多い屋敷であるから客間に仏壇は置かない。仏間があるはずだ。少年の一郎が大声で言う「ポパイ・ザ・セーラーマン!」。ご機嫌な男の子の姿である。これはテレビで放映していたポパイの漫画の冒頭のメロディだが、あちらの
TV番組だ。
際立つことは会話で、相手の気持ちを尊重し、傷つけぬ配慮のもと、理路整然と自論を進めて行く手順、礼儀正しく穏やかで、品の良い語り口、誤解しようもない正確な表現で、自分の思うところを相手に渡す話し方は、日本、特に家庭では滅多にない。ところが本作では、これがないと成り立たないのである。
例えば小津安二郎の映画を見ると典型的なシーンがいくつもあるが、「だって」と言ったきり俯向く娘。あるいは「そうか……」と言ったなり、遠くにまなざしを投げてじっと黙っている父親、こんなものの連続である。この間隙を埋める憶測が日常生活であり、作品なら読み手であり観客である。最近「忖度」がもてはやされているが、思いやりや憶測や、気をきかせるやら、目顔でものを言ったりが、好きじゃないが、いや大っ嫌いだが、日本のやり口である。
私はイシグロ作品を読んでいて、この点、とてもわかりやすいし気分が良い。続けて読んでみよう。

わたしたちが孤児だったころ

『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphans 著者=Kazuo Ishiguro カズオ イシグロ 発行=早川書房 上製本 537頁 ¥1050
著者=1954年長崎生れ 5歳の時日本人の両親、姉とイギリスへ、以後英国国籍として現在に至る。ケント大学で英文学、イースト・アングリア大学院で創作を学ぶ。本書は2000年、著者が46歳の時に書いた作。
内容=1930年代の上海を舞台に、英国人の少年と日本人の少年の交流から始まる長期間の物語。両親が行方不明になり、孤児という自覚の元で成人する主人公、クリストファー・バンクスの幾重にも歪み、変転する様相が主流となる。
感想=イギリスに、日本人の名前を持つ作家がいることは以前から知っていたが、読んだことはなかった。今回、ノーベル文学賞受賞をきっかけに図書館で借りた。日本では村上春樹が候補書の一人として季節の話題になっていた故に、今は英国国籍を持っているそうだが、日本人で日本生まれの作家であるということに関心があった。書評も読んだことがなく、まっさらの状態で読んだことは幸いだった。
上海の恵まれた美しい場所、外国人が住む地域に駐留生活をしている家の少年たち、一人は英国人、一人は日本人、この二人の少年の遊び方や言動が実に繊細に、深く描かれている。これは思い出を語る形で描かれているのだが、私にとっては作品の全体像を把握しつつ読み進むよりも先に、冒頭の、この一点に気持ちを奪われた。日本人の少年が大喜びで故郷の長崎へ帰ったが、たちまち上海に戻ってくる、誇らしく、大好きだった日本の印象が崩された心情。
今、世に言われる帰国子女が、異質な生活習慣を身につけているが故に受ける軋轢が、一片も描かれずにいながら底流に流れる様は見事だ。海外で2人の男の子を育てていた頃の体験がよみがえる。しかし、これを痛みを持って読み取る読者がどれほどいるだろう。というわけで私は思いがけず、この一カ所に注意を傾けてしまったのだが、それはさておき全体像は、実に緻密な計画と計算がなされた上に構築されたものだ。読者の意表をつく仕掛のしつらえは見事だし、楽しめる。何気ない情景描写、登場人物の事情の説明などを読み飛ばすと、終章に至り受ける衝撃と感動はフイになる。
このあたりの技術は多分、創作を学ぶ大学院から受けた賜物ではないか。大きな特徴は、登場人物の全員が、主人公を含めて絶対的イイモンではなく、悪モンとも言い難い、つまりカタルシス不在の人間模様であることだ。これは、この一作品のために設定されたものではなく、作者の人生観、価値観そのものではないか、沈着、上品、知的で複雑な人間性を感じる。
創作のための教室や学校は技術の習得であり、独学者とは比較にならない腕前を身につけることができる、しかし作家が何を書くかは何人も授けてはくれないし、作家の人間性は、世界で唯一の、その者の持物である。しかもまるで玉ねぎのように幾重にも多様な衣をまといつつ表現するために、作家の本性は容易なことでは見抜けるものではない、と私は思っている。どこまで看破してみせるかが、対する読者の力量ということになるだろう。
読み手の力は何より大切だ、読み手の力量が作家の作品をさらに高めてゆく。日本で言えば落語がこれに相当するのではないか。切磋琢磨が演じられるのは客との接点にある。小説に関して言えば、日本語の小説を読み手は育てていない、むしろ低いところに貶めている。源氏物語が生まれた頃は、受け手が育てていたのだ。しかも受け手は読み手ではなく聴き手であったはずなのだ。落語の客と似ていたのではないかしら。話が逸れましたが、
彼はイギリスで読者を獲得し、英文で、その身を鍛えあげてきた。英国の読者とは何者だろう?
もう一つ、ノーベル賞受賞の女性作家を読み進めている最中だが、その中にパールバックがいる。代表作『大地』は、本作品と重なる時代の人物を描いている。まるで机の上に本書と『大地』の2冊を開いているかのような気分だった。

樹木たちの知られざる生活

『樹木たちの知られざる生活』副題=森林監理者が聴いた森の声 著者=Wohlleben,Peter ヴォールレーベン ペーター 訳=長谷川 圭 発行=早川書房2017年 B6版 263頁 ISBN9784152096876 ¥1600
著者=1964年、ドイツのボン生まれ。大学で林業専攻。ラインラント=プファルツ州営林署で20年勤務後、フリ−ランスで森林管理。
訳者=ドイツ文学翻訳家。
内容=ドイツで長年、森林管理をしてきた著者が、豊かな経験から得た知識を基礎に、深い洞察を持って森、樹木を語る。本書は世界的ベストセラーとなり34国で訳され、邦訳が出た。
感想=新緑のハイキング、紅葉狩りを楽しむ日本人は、四季折々の自然を愛でることが大好きだ。これは春夏秋冬のメリハリがはっきりとしている国だということもあるのだろう。
だからこの本はワクワクして読み切るだろう。庭がなくとも植木鉢を置いて育てたがる私たち、少しならわかっている植木のこと。そういう私たちが読むと、やっぱりそうなんだ、と思い当たる樹木たちの生活が、森林監理者という、実際に年中、森の中にいる人によって語られている。
例えば、助け合う木。危険を知らせる木。こういう「行い」は木とも思えないが、木々はやっているのだ。
地上と地下の、両方にまたがって生きるという、動物とは違う生き方も、手にとるように理解できた。だいたい、地上と地下の両方にまたがって生活しているんだ、などと考えたこともなかったのだ。
著者が言う、「樹木同士の友情というような表現は、例えのようなものであって、現実の樹木たちは、ひたすらたくましく生き抜こうとしているんだな」。
ただ、著者はドイツ人で、ドイツの森林と共に生きる人なのだ。このことを踏まえて読む必要があると思う。というのは、気候風土がドイツと日本では全く違うからだ。
著者は、ドイツの森がどのような姿をしているかを、非常に丁寧に説明してくれている。著者は、この説明が必要不可欠なものだということを熟知している。この部分は読まねばならぬ、日本の森、あるいは里山とは別世界だということを知る必要があるからだ。
以前、グリム童話の勉強をした時に、ドイツ文学の教授がドイツの森について時間をかけて解説してくれたことを思い出した。日本人が森に対して持っている常識、認識とは全く違うんですよ、赤ずきんちゃんは、ドイツの森を歩いていたんです。
同時に音楽学の教授が、ベートーベンは失恋をするたびに交響曲を云々、という話のついでに、楽想を練るときに彼は森に一人で踏み入り、猛烈な速さで「散歩」をしたということを話してくれたことも思い出した。
今、この本を読んだことで、ドイツの森は赤ずきんちゃんでも歩ける森で、ベートーベンがつまづくことなく、足元も見ないで相当な速さで突進的に歩くことができたことも、はじめて納得がいったのだった。
ドイツ人も日本人も、共に人間であるという共通項がある、これを樹木たちも持っていて、共通部分に関しての樹木の気持ちと行動は実に面白く、新鮮で発見が多い。

皮膚は「心」を持っていた!

『皮膚は「心」を持っていた!』著者=山口 創 発行=青春出版社2017年 サイズ=新書版 192頁 ¥1004 ISBN9784413045193
著者=
1967年、静岡県生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程修了。専攻は、健康心理学・身体心理学。現在、桜美林大学リベラルアーツ学群教授。臨床発達心理士。著書に『皮膚感覚の不思議』『人は皮膚から癒される』など
内容=皮膚が人の心とどのようにつながっているか、を臨床発達心理士の立場から解説。さらに皮膚感覚を実生活に応用し、活かす方法を述べている。
感想=著者は約10年前から同種の本を書いている。前著『皮膚感覚の不思議』では「先天性無痛症」などの皮膚の病気に関する記述や専門的な知識、例えばノシセプチンという脳内物質について書かれていたが、本書では実生活に応用できる時代に即した内容となっている。
皮膚というと「お肌のお手入れ」的な面に注意が向けられて、清潔にすること、みずみずしく保とうという努力に力を注ぐ気配が見える。私はシワシワになることに対して関心が薄く、ほとんど手入れ的なことをしない。基礎化粧品と呼ばれるものを買ったことがない。おまけに窓を開けっ放しの車で走り回っていたこともあり、目も当てられない「お肌」だ。けれども人のシワの流れや動きには注意深い。
もう一つ、指先の皮膚感覚について関心を持っている。どうしてかというとセロテープやメンディングテープを使うときに切り口が見つからないことがある。特に最近流行のメンディングテープは色や模様が賑やかについていて見えにくい。これがなんと、眼鏡をかけても見えないが、指先を這わせて行くと一発で見つかるのだ。
皮膚って鋭いなあと感じているので、日常の皮膚感覚について詳しく知りたいと思ったのだった。
はたして本書は期待通り「皮膚は露出した脳」「皮膚は音を聞いている」「超音波や低周波がわかる」などの内容があり、目はごまかせても皮膚はごまかせないと出ていた。皮膚を大切に深く理解し、普段の暮らしの中で役立てて行く方法、イライラや不安解消のために皮膚をどう扱ったら良いのかなどを詳しく解説してくれている。
本書とは関係ないが日常の食器洗いについて考えていることがある。TVの食器洗いの洗剤CMで汚れた食器を蛍光発色させて、この通りバイキンがありますよ、この洗剤を使うと、ほら減りました! と見せている。減りましたと言っているが完全に消えたわけではなく、バイキン存在の証拠である蛍光発色はあるのである。私は水道の流水の下で皿洗いをするときに指先の感覚に頼っている。指先が綺麗と言ったら綺麗。洗剤で泡立てたスポンジで洗っても、その後に指先で調べると綺麗ではない部分がある。
指の腹は信用できる、と私は感じている。そして一心に指先の声を聞いているとき、私は何を見ているかというと何も見ていないのだ。目を閉じているわけではないが、視力を全く使っていないのだ。
話が猫の富士に飛びますが、富士を散歩させると興味のある場所を嗅いでいる。必ず臭いを取る場所は猫道の曲がり角だ。角々で猫たちは自分の体、特に耳の後ろから肩にかけた首筋の臭いを力を込めてなすりつけてゆく。後から通る猫たちは、誰が、いつ、このブロック塀の角を曲がって、どの方向に去ったかを受け取っている。相当量の情報が得られているはずだ。ブロック塀の他に小枝の場合もあるし、一枚の葉の裏側の場合もある。熱心に情報を取ろうとする富士は、鼻先からではなく鋤鼻器官という口の中の、上アゴの歯の根元に開口している嗅覚器官を使っていることもある。その様子は、私がセロテープの切り口を指先に聞いている時とそっくり同じなのだ。つまり目を開いてはいるが見ていない。私は触覚を使い、富士は嗅覚を使い、目を忘れているのだった。

丹沢・山暮らし

『丹沢・山暮らし』著者=中村芳男 前文=城山三郎 発行=どうぶつ社1980年 ISBN9784886224132 1325 四六判 P260
著者=なかむら・よしお 新潟県能生町生まれ 県立能生水産学校卒業 安南(今のベトナム)で底曳網漁業に従事。戦後、丹沢で戦争犠牲者たちと共同生活。民営国民宿舎経営。丹沢自然保護協会、全国自然保護連合などを組織。
内容=作家 城山三郎の前文があり、東丹沢に住み着いたきっかけから今日までの中村さんを一枚の写真に撮影したかのように綴っている。
続いての本文で主人公の中村さんが丹沢山中での暮らしを語る。大きな特徴は、これが1947年に始まる出来事であり、この年は日本国が戦いに敗れて2年後であり、中村さんが戦災孤児たちを連れて山に入り、炭焼きをして食べて行く姿を描いていることだ。中村さんは、東京生まれのクリスチャンの女性と出会い結婚する。山の中で生き抜くうちに、美しい自然に目が奪われ、山の木々、動物を守りたい気持ちが膨らんでゆく。
感想=私がこの本と出会ったのは、図書館の郷土史料の棚だった。
この海老名市立図書館は、2015年に改装オープンして今の形になった。大きな特徴が3つあり、1つは蔦屋書店とスターバックス コーヒーが入っていること。2つ目は日本全国、住所を問わず登録、利用できること。
本の返却は送料一律500円で可能。3つ目は大まかなジャンル別に書架に並べてあること。
というわけで郷土資料のコーナーを、アテがあるわけでもないが漂っていた時に目に止まった一冊がこの本だった。
この図書館は、新しいやり方を取り入れたところの特徴として、従来の常識から外れているという感覚から拒否反応を示す人も少なくないと聞いている。が私には受け入れやすい、大歓迎する要素満載の嬉しい図書館誕生だった。カフェスタイルの図書館員が館内のあちこちにいて、声をかけると親切に教えてくれる。年配の人たちも働いているが、わざとではない、ごく自然の穏やかな笑顔で接してくれるのである。
一つの組織の良さ悪さは、現場で働く人の表情を見るのが一番だ。ここは、素晴らしく良いのだった。歩いて通える図書館はあるが、私は小田急線に乗って海老名に行くことにした。近いところは館員が仏頂面で、こっちも仏頂面になっていると、何でお礼言わねーんだよ? という裏飯面で見上げてくるのだ。二度三度となると、こっちが先に般若面になる。
話が逸れてしまったが、手に取った本書はカバーなし、ヤケ、痛み、シミ、汚れ、蔵書印、なんでもありのボロボロ本だ。蔵書印はいくつも押されていて、それは転々としてきた図書館印だった。丹沢は海老名の目と鼻の先だから、この本は地元の本として長い間読まれてきて、この図書館に落ち着いたものだろう。

城山三郎の前文ーー出だしの一行。
中村芳男さんが、丹沢に入ったのは、昭和二十二年も暮れのことであった。新潟と富山の県境に生れた中村さんは、もちろん、丹沢を知らない。見当もつかない場所であった。
全文を紹介したいところ。思いのこもった紹介である。
大勢が住めるタダの家があるところ、という条件で探して、見つかったのが丹沢山中の77坪の廃屋だった。ガラスもランプも壊れて、家の中は土足で歩く状態。ここに戦災孤児たち引揚者、罹災者など13人と中村さんの妻と2人の子たちが居着いて炭焼きを始めた。漂浪してたどり着く人も加わって人数は増える。この時中村さんは37歳だった。
これは、年間千万人の餓死者が出ると見積もられた時代のことだから、食物にどれほど苦労したことだろう。
細かくお伝えしていると一行残さず書くことになりそうだ。中村さんは奥さんの影響もありクリスチャンになる。

腹の底に響いたのは、中村さんが丹沢に連れてきた孤児の少年の、それまでの日々だ。当時菊田一夫の「鐘の鳴る丘」という戦災孤児を題材としたラジオドラマが放送されていて、その主題歌が「父さん母さんいないけど~」という始まりだった。中村さんが山に連れてきた少年が、まさにこのような戦災孤児だった。上野の地下道で暮らし、靴磨きをするために電車の座席の布を切り取った。生き抜くためには何をしたっていいんだ、とお兄さんたちから教わる。読んでいて私は、山よりも当時の東京に引き戻されてしまい辛かった。
一番心に残ったのは「なかちゃん」のエピソードだ。真面目になりたいんです、と言ってやってきた、大柄でスピーディではない得体の知れない男。クリスマスにキリストの演劇をしたりするうちに祈るようになり懺悔を始める。やがてハガキを各所に出し始める。驚くような犯罪に関わることを続けてきた罪を謝るハガキだった。刑事が逮捕状を持って山にやってきた。ハガキを受け取った中の誰かが届けたらしく、なかちゃんは逮捕された。中村さんが裁判に呼ばれた。引取人に本人の全生活の指導と監督をお願いする、と言われて中村さんは請けあう。これが判決だった。このエピソード一つで一冊の本になるくらいの、山と時代と人の情景が広がる。

子どもの本のよあけ

『子どもの本のよあけ』副題=瀬田貞二伝著者=荒木田隆子発行=福音館書店2017年サイズ=210X148mm477頁瀬田貞二著作リスト=24¥3200ISBN9784834083156
著者=荒木田隆子あらきだたかこ元児童書出版社の編集者。在職当時は瀬田貞二氏の担当編集者として『落穂拾いーー日本の子どもの文化をめぐる人びと』『絵本論ーー瀬田貞二子どもの本評論集』『児童文学論ーー子どもの本評論集』などを手がけた。著書『鈴木サツ全昔話集』東京在住
内容=副題にある通り、児童文学者、児童文学翻訳家の伝記で、東京子ども図書館主催の講座をもとに、その業績を辿り記している。
感想=瀬田貞二 who
名を知らない人も多いだろう、しかし。
心に残る思い出のこの絵本、あのお話。その本の隅っこに、この名が小さく記されているのを見つけるはずだ。
瀬田貞二氏は、成育期に戦争に巻き込まれた世代だ。大学在学中に兵士にされ、負けた国の若者のひとりだった。その廃墟から立ち上がった不死鳥の一羽だった。
瀬田貞二氏が希求したものは何か。子どもたちの心を育もうと一生を賭けた。この本は、そういう生き方をした人の姿を描き出している。
荒木田隆子氏の書いた「まえがき」は心を打つ。子どもたちを育んだと同時に、次の世代の文学者たちをも立派に育てて児童文学の土壌を豊かなものにしたことが伝わってくる。これは長い時間を共にし、敬愛した者によってのみ記すことができるもの、それゆえに読む側に瀬田貞二氏の人柄をも手渡してもらえるのだ。
苗を育てる人。そして苗を育てようと集まってきた人たちを育てる人。そういう人だったことがわかる。
巻頭8ページにわたり、カラーで「児童百科事典」「評論集」「いいもの、すばらしいもの」として多数の著作が紹介されている。もちろん「よあけ」「おだんごぱん」なども出ている。丁寧な作りで「まえがき」の次に凡例の頁を設け、続いて年譜がある。巻末に横書きでつけてある著述リストが貴重な資料。「資料編」が良い。近来、最高の本の一冊ではないだろうか。

中東エネルギー地政学

中東エネルギー地政学』副題=全体知への体験的接近 並列タイトル=Middle East Energy Geopolitics 著者=寺島実郎 発行=東洋経済新報社2016 サイズ=20cm 303 2000 ISBN9784492444313
著者=てらしま じつろう 1947年北海道生まれ早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。三井物産ワシントン事務所長・三井物産戦略研究所所長・日本総合研究所会長などを経て多摩大学学長。
内容=中東を中心に世界各地を巡り、ニューヨーク・ワシントンに10年住むなどして体感した視点に立ち、国内外の政治経済、外交、エネルギー政策、宗教などについて人生の歩みに沿って記す。
感想=早稲田から三井物産に新入社員として入社した、このスタートで置かれた場所が中東のエネルギー部門だったという。特に関心があり望んだのではない、与えられた場所から動き出した時点から、その地点での育自に励む姿が見える。三井物産という一企業のワクからはみ出して独立した存在へ飛翔する道程が時代の激変期と重なり劇的だ。この部分に素直で自然な心情が読み取れて魅かれた。
常に見つめるのが土地、その場所の歴史である。このポイントが地政学、体験的というタイトルにある。
大手の石炭会社勤務であった父は九州の炭鉱におり、実郎氏は母のお腹のなかで北海道の炭鉱へ引っ越したという。北海道の山奥から山奥へと転勤後、九州の筑豊へ。生まれる前からエネルギーと縁があり、土地を転々とすることになったこともご縁だろうか。振り返ると重なっていたとわかる不思議が見える。
中心部分の内容ではないが、シーア派とスンニ派の源についての解説が、よく理解できた。なぜ執拗に反目し合うのか。その原因が歴史展望と、その土地に時間を埋めたことによって掴んだもの、文字ではない部分を手渡して貰えたことによって腑に落ちたのである。
人が左右の手を持つように、国にも左右の思想が必要だし、双方に優れた人材が求められる。寺島氏は「心に残る理解者と支援者」の項目で各界人との交流を描き、「政治家では、宮沢喜一、福田赳夫さんの問題意識の高さと心の寛さに啓発されてきた。」と記している。寛容性と独立性を併せ持つ佇まいが、ここにある。

コーヒーもう一杯

コーヒーもう一杯』著者=山川直人(やまかわ なおと)発行=エンターブレイン200915巻セット BEAM COMIX サイズ128X182mm平均頁210 ISBN4757727305¥@650
著者=漫画家1962年東京出身高校卒業後フリーター生活で同人誌活動、漫画家を目指した。これは一昔前の純文学青年と重なる生き方に映る。商業誌で活躍する一方、自費出版の作品発表、同人誌活動も続けている。作画は隅々まで綿密な手書きで強烈な特徴を持つ。
内容=コミックビームに連載した作品。一話完結。1冊に12話。全巻モノクロ。目次の前の頁にカラーの一枚絵。
感想=タイトルは、Bob Dylan1976年にリリースしたアルバムDesireに収録されている曲、One More Cup of Coffeeからとっている。ディランの曲を聴きながら描いている、とあとがきに書いているが心底ディランのファンで、いくつも好きな曲名をタイトルに使っている。
ボブ・ディランはもてはやされて有名で、誰でも知っている、そういう人ではない。この作品を書いているころ、著者も出版社も、まさかノーベル賞を受賞する歌手とは夢にも思わなかったろう。
ディランは、日本で言えば「平家物語」を琵琶を抱いて歌う坊主、西洋では「オデュッセイア」を語るホーメロス、あるいはジプシーの辻歌いなどの原点とつながる吟遊詩人だと思う。このコミックの帯に編集者が山川直人を「漫画界の吟遊詩人」と表現したとき、ディランを思い浮かべていたとは想像しにくい。人間の感性とは、なんという凄さだろう。
体質が同類であるのだろうが、もう一つ、ディランは創作者を惹きよせるフェロモンを発散する作家なのだ、ということがある。どこが、なぜ? そんな芸術論を話し合える人に会いたいと思う。
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話ごとの感想となるときりがない。  こんな感じかな。
ん。いい……
いいよ、これ。

でしょ。
まるで一杯のコーヒーじゃないか、一話、一話が。
なかなかのブレンドなんだ、お代わりするの、もったいない。
毎晩、一杯、いいね。

見返しの次のページ、目次の前にカラーの絵がある。
原画のサイズがわからないが、美術展に出ていたら引き寄せられる、実にすばらしい絵だ。ゴッホ、ルオーを思う、そういう味わいだ。ファインアートも文学も、すべて体内に抱え込んでいるのが見える。こういう作家が漫画フィールドで活躍していることは、文学に拘泥している側から見ると恐怖感に似た衝撃を覚える。
例えば「雨の日の女」。これもRainy Day Women 1966 のタイトルだが内容は関係ない。
昔の女が雨の夜、コーヒーショップに現れる。マスターがコーヒーを淹れる。二人の過去、そして今。逆巻く思い。無口な男の心情が絵になる、コーヒカップを置く時の擬音文字が音となって頁から噴きあがる。 

バナナの歴史

バナナの歴史』(食の図書館シリーズ)著者=ローナ ピアッティ ファーネル Lorna Piattii-Farnell 訳=大山晶 原書房 2016年発行 ISBN9764562053275 サイズ=19cm ¥2376
著者=ニュージーランド、オークランド工科大学大衆文化研究所所長。執筆を依頼されて大喜びしたそうで、バナナのことなら知っている、と思い書き出したら、知らなかったことが続々と出てきたという。
内容=これは「食の図書館シリーズ」の中の一冊で、多くの果物や、コーヒーを始め、食材を取り上げている。本書バナナでは、歴史、伝説から始まり、バナナの種類、産地について、また料理のいろいろなどが集められている。
感想=カラー写真がたくさん出ている。歴史の章では、バナナプラントで起きた大虐殺事件も取り上げているが、その事実にとどまらず、ガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』の中にも取り上げられていることも記されている。バナナの広告ポスター、おもちゃ、絵画。ルノワールが描いた「バナナ畑」の絵もカラーで出ている。キリコの描いたバナナも出ている。キリコが描いたらどんなバナナになるだろう、と思ったが、実に普通の写実的なバナナだった。どんなに絵が下手な人でも、バナナを描いてバナナに見えないことはない。その点だけでもバナナは賞賛されて良いのではないかしら。バナナの歌も出ていて、全ページにわたって楽しい。
ひとつ、書かれていない事柄があった。それは農薬についてのことで、最も知りたい部分だった。日本には芭蕉は育つが食用バナナは生産できない。すべて輸入である。バナナは船で運ばれて日本の港に着くが、到着した時は緑色の未熟なバナナである。市場に出す日を計算して熟成させる仕組みだ。船で運ばれてくる間に熟してしまわないように薬品で調節しながら運んでくるのである。これは温度調節だけでは不可能だという話を聞いている。さて、このことが事実であるのか、事実とすれば、薬品名は何か。この薬品がバナナに残留しているということも聞いているが、バナナの、どの部分に、どれほど残留しているのか、確実なことを知りたかったのだが、全く言及されていなかった。著者は文化面にだけ目を向けているのだろうか。

日本速記事始

『日本速記事始』副題=田鎖綱紀の生涯 著者=福岡 隆(ふくおか たかし) 発行=岩波書店1978年 新書 218頁 ¥280
著者=1916年広島生まれ 1929年上京、商業・速記・英語の各学校卒業。早稲田大学通信文学部終了。海軍通信学校暗号科卒業。速記者・東京速記士会理事
内容=日本に速記術をもたらした人物、田鎖綱紀の伝記。
感想=画像も音声も、自由自在に保存できる現在、速記という言葉さえ知られなくなった。しかし、テレビで国会中継を見ると、まるで議場の主役であるかのような中心の席にいて仕事をしている速記士の姿を見ることができる。
この本は、録音録画は夢にも出てこなかった時代に、なんとかして発言した言葉を、そのまま記録したいと願った人の伝記だ。
田鎖綱紀は、初めから速記の記号を案出しようとしたのではなかった。
彼は日本語文字を作りたいという大望を持って、外国に生まれた速記を手本に、日本の速記を生み出した。
ローマ字は西洋の文字、漢字は中国の文字。カタカナ、ひらがなは、漢字の変形だ、と田鎖はいう。純粋な日本文字ではない、という。
純粋の日本文字が欲しい。この熱意、努力が結果として日本速記術を生み、録音技術が発達した現在も、未だに必要とされている存在となったのだった。
この本は、速記に生涯を傾けた田鎖綱紀の生涯と同時に、その時代の記録でもある。
目次の次、中扉に当たるページに晩年の綱紀の写真が出ている。白髪白髯、眼鏡をかけた明治人の姿。その上端に東京雑司ヶ谷墓地の地番が記されている。綱紀の墓所だ。次ページに墓所の墓石に隣接して建てられた念碑に刻まれている文字が置かれている。著者は、この念碑建立の発起人の一人である。その文字をここに置きましょう。
表「日本文字始而造候居士」裏「岩手県盛岡の人田鎖綱紀は、明治15年(1882年)日本傍聴筆記法を発表し、速記の今日の隆盛の礎を開いた。その八十年を迎えるに当り、翁が生前の抱負を示す遺墨の碑をここに謹んで建立する」一九六二年七月三日 日本速記法習得者有志一同

魔法のホウキ

『魔法のホウキ』The Widow’s Broom 著者=Chris Van Allsburg クリス・ヴァン・オールズバーグ 訳=村上春樹 発行=河出書房1993年 ISBN9784309261874 ¥1740 縦長大型絵本 338X208mm
著者=1949年アメリカ・ミシガン州生まれ 児童文学作家・イラストレーター。ミシガン大学で彫刻を専攻したが、妻の勧めで絵本作家に転向した。3作品が映画化され、JUMANJI ジュマンジは、日本でもよく知られている。この作家の絵本はどれも村上春樹が翻訳している。
内容=大昔の秋、月夜に空から人が落ちてきた。それは魔女で、乗っていたホウキが故障して飛べなくなったからだった。魔女は他の魔女に助けてもらって空へ戻ったけれど、ダメになったホウキは捨てられ忘れられてしまった。ところがこのホウキが動き出して〜。
感想=横長の絵本は見慣れているけれど、この絵本は縦長。色はセピア色一色。魔女が使っていた魔法のホウキは、ちょっと変わった形に見える。
本の見返しに「ブックリスト・レビュー」がついていて「オールズバーグの作品の中でも最高傑作の部類に入る」とある。
文章は、この物語にふさわしい見事な雰囲気を湛える日本語に置き換えられている。村上春樹が、本業の翻訳家として語彙を吟味し選び抜いたことが窺われる。
ウィドウを後家さんと表現している点も、読み上げた場合の音の効果にも配慮していると感じられる。難しい漢字がたくさん出てくるが、こうした文字の選択判断は、詩人、田村隆一が童話を翻訳した時にも見られるものだ。この判断は、幼い者、日々成長する子たちに対する信頼と希望が基になっているのだろう。これ、読めない! 知りたい! という気持ちを掻き立てられて子供は進む。
後家さんに拾われたホウキは、たくさん役に立つことをする。ホウキは自発的に働いてくれる。その様子は映画「ファンタジア」の魔法使いの弟子そっくりだ。
しかし普通でない働きもしてしまうので、眠っているところを捕まえられて焼かれてしまう。その焼かれようは、魔女裁判で火あぶりになった魔女を思わせる。
後家さんが、眠っているホウキの居場所を村人たちに教えてしまうことなど、多くのシーンに重層的な意味が込められていて、読み聞かせをする大人は、子供が受け取る世界のほかに、歴史を踏まえた深い世界を感じ取ることができるだろう。

サンゴ知られざる世界

『サンゴ知られざる世界』著者=山城秀之(やましろ・ひでゆき)発行=成山堂書店2016年サイズ=210X140mm180頁¥2376ISBN9784425830718
著者=1980年琉球大学理学部生物学科卒 現在琉球大学熱帯生物圏研究センター瀬底研究施設教授博士
内容=ついこの間まで私は盆栽のような形のサンゴを植物だと思い込んでいた。サンゴは知れば知るほど驚きの姿を現わす不思議の生き物だ。
本書は1,サンゴの基礎知識2,サンゴの種類3,サンゴと多彩な生き物たち4,サンゴ礁と地球環境の4部構成となっている。
ページの小口が緑青橙紫の4色にしてあるので、パラパラとページを繰り、好きなところを開くことができる。横書きで、タイトルと小見出しも色分けされていて見やすい。ふんだんに盛り込まれているカラー写真が楽しさと親しみを伝え、数は少ないが図が優れている。分かりやすい、はっきりとした図に、レベルの高い解説がついている。素人の読者だ、少年少女かもしれない。だからレベルを(一般向け)に引き下げて優しくしてやろう、というような手加減は一切ない。著者の研究成果の全てを投入、詳しい解説をしている。こうした部分を読むと、勝手に相手の力量を推測してレベルを下げてあげましょう、という態度が、如何に的外れの親切かということがわかる。よくよく分かっている専門家が語り渡してくれる言葉は、むしろ単純、簡潔で理解しやすいものだ。お楽しみはコラムだ。目次にコラムのタイトルも並べてあるからコラム目当てに開くこともできる。例えばこんなコラムがある。「光に向かって歩くサンゴ」「童謡・歌とサンゴ」「サンゴ礁の音色 波と天ぷら」「緑色に光る蛍光サンゴ」。こんなタイトルを見たら、読まないではいられない。読み出したらやめられない。多少は知っていると思っていたサンゴは、ごく一部だった。サンゴの万華鏡のような多種多様な姿に感動した。最後の章にある「人とサンゴと地球環境」では、最近の密漁も取り上げられ、白化現象など深刻な問題について解説があり、重く心に響いた。人間活動による海洋汚染の劣化は、人類全体が本気で考えなければ先がないと感じる。索引つき。

ヨコハマ買い出し紀行

ヨコハマ買い出し紀行』全10巻著者=芦奈野ひとし発行=講談社2009年〜2010年サイズ=128X182mm@¥638ISBN9784063106718
著者=あしなのひとし1963年生まれ神奈川県横須賀出身漫画家。本作が四季賞受賞、デビューした。12年間にわたり連載し、2006年に完結。代表作。
内容=神奈川県横須賀あたりを舞台とした近未来。温暖化の影響だろうか、横須賀は海の底に沈み、見渡す限り廃墟と化している。かわいい女の子、アルファは、ポツンと一軒あるコーヒーショップで、たった一人で店番をしている。オーナーは見えない。客は1週間に一人、あるかないか。スクーターを持っていて、買い物に行ったりする。近所の爺さんがやってきたりする。町は場面に現れないが、まだ多少の人々は生活しているらしい。ガソリンもあるし、爺さんは軽トラを持っている。
肝心なことは、主人公アルファさんがアンドロイドであることだ。人間と見分けがつかない、豊かな感情を持っている。しかし歳をとることのない機械だ。 A7量産試作機M2の3体のうちの「ひとり」。
感想=かつて整備された高速道路や高層建築は、いまや全く使われていない。道路の隙間から雑草が伸びて、海面は今も上昇を続けている。時々崖が崩れて海に沈む。まるで音のない世界に見えるが、それは逆に、今、我々がいかに雑多な人工の音にまみれて生活しているかを思い知らされる。人工の音がない。聞こえるのは侵食されつつある崖の崩落の音。風の流れる音。
ほとんど客のないコーヒーショップに現れる人やアンドロイドとアルファの物語。近未来かと見ているとジュラ紀の飛竜のようなものも現れる。また幻想のようにミサゴという名の美女の妖怪が現れる。飛ぶ魚を操る男が現れる。アルファさんは、オーナーが残していった月琴を弾く。絵が綺麗だ。
内容を伝えたいが、ない。切れ切れの場面に横浜界隈の年寄りの言葉と、若い娘のアルファの言葉が重なり合い、柔らかい感情がたゆたう。ここには対立や敵対がない。あるのは、ゆっくりと流れる「時」。徐々に海面が増えてゆく。
これは若い人のデビュー作で、同時に彼の代表作だ。
漫画家としてやっていきたいが先は闇。そういう状態の時に、自分が育ち、今も住んでいる横須賀を舞台として描いた近未来、そして孤独な自分の姿を、週に一人くらいしか客の来ない喫茶店の店員、アルファさんに重ねた作品である。アルファさんが食べる必要がないアンドロイドだ、という設定は、もしかすると作者は食べるだけは食べていける境遇だったのではないか。例えば親がかりだったとか。
横須賀は、この仮構世界では海底に没している。描かれる都市廃墟、それは道路が主なものだが、生々しい現実感を漂わせている。そしてアルファさんを取り巻く緩慢な時の流れ。これが受け取れることで、傑作と言っていいと思う。作者の心象風景かと見えて、迫ってくる力がある。
今文芸同人誌で書いている人たちには「思い」はあっても、架空世界を構築する体力も能力もない。まして架空世界に必死の自己を投入した人物を立ち上げるだけの技量がないばかりか、目指そうとする意欲もない。「思い」だけが浮遊霊のように頁間を漂う。
せめて技術を磨けと言っても、ふん、俺は俺の好きなようにするだけさ、と嘯くばかりである。
やはり、当然の現象である。遠い先のことだろうが、漫画がノーベル賞級に育つことは目に見えている。
漫画同人誌の大群衆がビッグサイトに集まる一方、閑古鳥の声すら聞こえぬ文芸同人誌は、これは私の願いが入るのだが、大きな使命、第二次世界大戦の経験者として文章化する使命、これを抱えていながら、ツールを揃え、ツールを磨く、そして駆使する。このことに限りなく怠慢だと思う。
文芸同人誌よ、消え失せろ。アルファさんのような店だが、それでも私の店は続ける。

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