December 2013
夕映えの道
26-12-13-23:18-
『夕映えの道』副題=よき隣人の日記(THE DIARY OF A GOOD NEIGHBOUR) 著者=ドリス・レッシング Doris May Lessing 訳=篠田綾子 発行=集英社2003年 サイズ19cm 384頁¥2000 ISBN4087733947
内容=女性向け雑誌社で精力的に仕事をこなす主人公ジャンナは50歳前後。夫、母の病死も心に響いてはいない。のちに姉の娘が雑誌社に入社したがり、さらに同居を希望してきたときのジャンナの反応は「おお、とても耐えられない、とても。私はどんなにひとりでいることを愛していることか、孤独の楽しさを……」である。ジャンナが偶然出会った90歳を越える一人暮らしの女性モーディとは、はじめは嫌悪、反発、喧嘩といった関係だったが、モーディのかすかな仕草や表情から心の内を掴み、モーディの人間性を見つめるようになる。ジャンナは、次第に二人を隔てている垣根の存在を忘れてゆく。ジャンナの深く見通す視線こそ、作者自身のものにちがいない。半端でない洞察力である。これは1970年代のイギリスが舞台であり、垣根とは、今も同じかもしれないが厳然として英国に存在した階級差別である。労働者階級のモーディからみれば、対等につきあえる身分ではない、上の方にいるジャンナなのだ。モーディは病身の一人暮らしで、貧困、粗相の連続、不潔、食事の不備など、言うに堪えない状況だが、そのなかでモーディは強気で自尊心を保ち、みじめっぽいところはみじんもない。身体が不自由でも独立心をもつ女性だ、ということを見せつける。次第にジャンナはモーディをたいせつな友人と感じて付き合う自分を発見する。社会が外側からつけた差別を取り払ったハダカとハダカのつきあいになる。このとき、はじめて夫、母の死を心から悼む自分に変化していることに気がつく。医者は言う、死の近づいた人は、それを否認し、次の段階で怒り、最終的に受容する、と。しかしモーディは受容に至らない。末期ガンのモーディに、死んで欲しいと思うジャンナ。あまりにひどい状態が続くから、そう思ってしまうのだ。しかしジャンナは「人が死にたいと望むならば、死んで欲しいと思うのは正当だといえるが、その覚悟がない人には絶対にいけない」と考えるようになる。
感想=老人病院へ老人を「入れて」しまい、あとはさっぱりと忘れて暮らす人々。幼児を扱うような態度の介護士たち。ヘルパーの、おざなりな態度などが細かに描かれるが、まるで現在の日本の状況そのままであることに驚く。病棟の主任の言葉が突き刺さる、「親類に関する限り、彼らはこの世にいないも同然なんです」雑誌社で働きながら小説を書くジャンナは、著者に重なる。単純な老人問題、という視点ではない、ある制度と個人の関係、人間の尊厳の問題、福祉制度がもたらす次世代への影響など、非常に多角的なものがある。たとえば亡くなった老人が飼っていた猫の行く末などの小さなエピソードも、エピソードに終わらせていない強靱な批判精神がある。同時に、ひとりの女性の成熟の物語でもある。
内容=女性向け雑誌社で精力的に仕事をこなす主人公ジャンナは50歳前後。夫、母の病死も心に響いてはいない。のちに姉の娘が雑誌社に入社したがり、さらに同居を希望してきたときのジャンナの反応は「おお、とても耐えられない、とても。私はどんなにひとりでいることを愛していることか、孤独の楽しさを……」である。ジャンナが偶然出会った90歳を越える一人暮らしの女性モーディとは、はじめは嫌悪、反発、喧嘩といった関係だったが、モーディのかすかな仕草や表情から心の内を掴み、モーディの人間性を見つめるようになる。ジャンナは、次第に二人を隔てている垣根の存在を忘れてゆく。ジャンナの深く見通す視線こそ、作者自身のものにちがいない。半端でない洞察力である。これは1970年代のイギリスが舞台であり、垣根とは、今も同じかもしれないが厳然として英国に存在した階級差別である。労働者階級のモーディからみれば、対等につきあえる身分ではない、上の方にいるジャンナなのだ。モーディは病身の一人暮らしで、貧困、粗相の連続、不潔、食事の不備など、言うに堪えない状況だが、そのなかでモーディは強気で自尊心を保ち、みじめっぽいところはみじんもない。身体が不自由でも独立心をもつ女性だ、ということを見せつける。次第にジャンナはモーディをたいせつな友人と感じて付き合う自分を発見する。社会が外側からつけた差別を取り払ったハダカとハダカのつきあいになる。このとき、はじめて夫、母の死を心から悼む自分に変化していることに気がつく。医者は言う、死の近づいた人は、それを否認し、次の段階で怒り、最終的に受容する、と。しかしモーディは受容に至らない。末期ガンのモーディに、死んで欲しいと思うジャンナ。あまりにひどい状態が続くから、そう思ってしまうのだ。しかしジャンナは「人が死にたいと望むならば、死んで欲しいと思うのは正当だといえるが、その覚悟がない人には絶対にいけない」と考えるようになる。
感想=老人病院へ老人を「入れて」しまい、あとはさっぱりと忘れて暮らす人々。幼児を扱うような態度の介護士たち。ヘルパーの、おざなりな態度などが細かに描かれるが、まるで現在の日本の状況そのままであることに驚く。病棟の主任の言葉が突き刺さる、「親類に関する限り、彼らはこの世にいないも同然なんです」雑誌社で働きながら小説を書くジャンナは、著者に重なる。単純な老人問題、という視点ではない、ある制度と個人の関係、人間の尊厳の問題、福祉制度がもたらす次世代への影響など、非常に多角的なものがある。たとえば亡くなった老人が飼っていた猫の行く末などの小さなエピソードも、エピソードに終わらせていない強靱な批判精神がある。同時に、ひとりの女性の成熟の物語でもある。
親の家を片づける
23-12-13-16:41-
『親の家を片づける』著者=主婦の友社編 発行=主婦の友社2013年 192頁 19㎝ ISBN9784072887516 ¥1300
内容=親が介護施設に入ったり亡くなったりしたために、親の家の片づけをする子世代が増えている。その実態と片づけのコツやヒントを15のケースを想定して紹介。
感想=私は片づける立場からヒントが欲しくて読んだのではない。片づけられる側から、片づける人の立場と気持ち、行動を把握しようとして読んだ。本書に限らず、人生の締めくくりの際に、去る者が何を残し、残さなかったかを語る人は少なくない。それらのいくつかも含めて共通して感じることは、あとがさっぱりとして、ものが少ない親を褒め称えている「片づける側」である。なにからなにまで整理し、廃棄し、鍋は大小二つあればよい、といった風の、キャンプ生活より簡素簡略生活を褒め称えている。片づける子側は、押し入れからあふれ出てくる物を、精力的に仕分けしたのちにどうするか、というと業者へ渡すのである。この本では、どのような物をどの業者に渡すか、というノウハウが伝えられる。この部分は、むしろ現在の私に役立つ部分だった。場所をふさいでいるだけの物は、自分自身で、これらのノウハウを参考にして片づけたらよいと思った。ただ、ひとこと言いたい。人生を畳むときのために、減らせるだけ減らしてキャンプ的生活をするのだけはごめんだ。冗談じゃない。
私はコーヒーカップが好きで、一客ずつ、いろいろなカップを持っている。飾っているのではなくて、その日の気分によって選んで使うためだ。カップなんて、ひとつあれば充分だというならば、歯磨きの時のカップも、コーヒーを飲むときも、緑茶の時も同じカップで足りるのである。一事が万事で私の回りには余分と見える物が溢れている。どれも使っているのだから捨てるなどとは、もってのほかだ。さて、こうした日々の途中、突然死したならばどうなるか。主婦の友社の編集者たちにとってみれば、下の下の親ということになるだろう。しかし私は続けます。続けて豊かな日々を楽しむことにします。
もう一つ、欠落している部分を指摘したい。物語。物が語る、ということを主張したい。日本の一般家庭で、その家族、一族の代々の歴史を、綿密に正確に記録し続けている家庭がどのくらいあるだろうか。家族皆が知っていることとして、記録するには当たらない、と思うこともあるだろう。書き留める習慣から離れている家庭もあるだろう。忘れてしまいたいことが重なったために、記録するなど考えもしない場合もあるだろう。しかし、どの家にも残されるのは「もの」なのだ。物言わぬものが語ることの確かさと深さ。物を捨ててしまうことが、その家庭から何を奪うのか、想像してみて欲しい。
どうか、安易に物を捨てないでほしい。物が語ることを知って欲しい。国には正倉院がある。各家庭に正倉院的小函のひとつがあってもよいのではないか。
内容=親が介護施設に入ったり亡くなったりしたために、親の家の片づけをする子世代が増えている。その実態と片づけのコツやヒントを15のケースを想定して紹介。
感想=私は片づける立場からヒントが欲しくて読んだのではない。片づけられる側から、片づける人の立場と気持ち、行動を把握しようとして読んだ。本書に限らず、人生の締めくくりの際に、去る者が何を残し、残さなかったかを語る人は少なくない。それらのいくつかも含めて共通して感じることは、あとがさっぱりとして、ものが少ない親を褒め称えている「片づける側」である。なにからなにまで整理し、廃棄し、鍋は大小二つあればよい、といった風の、キャンプ生活より簡素簡略生活を褒め称えている。片づける子側は、押し入れからあふれ出てくる物を、精力的に仕分けしたのちにどうするか、というと業者へ渡すのである。この本では、どのような物をどの業者に渡すか、というノウハウが伝えられる。この部分は、むしろ現在の私に役立つ部分だった。場所をふさいでいるだけの物は、自分自身で、これらのノウハウを参考にして片づけたらよいと思った。ただ、ひとこと言いたい。人生を畳むときのために、減らせるだけ減らしてキャンプ的生活をするのだけはごめんだ。冗談じゃない。
私はコーヒーカップが好きで、一客ずつ、いろいろなカップを持っている。飾っているのではなくて、その日の気分によって選んで使うためだ。カップなんて、ひとつあれば充分だというならば、歯磨きの時のカップも、コーヒーを飲むときも、緑茶の時も同じカップで足りるのである。一事が万事で私の回りには余分と見える物が溢れている。どれも使っているのだから捨てるなどとは、もってのほかだ。さて、こうした日々の途中、突然死したならばどうなるか。主婦の友社の編集者たちにとってみれば、下の下の親ということになるだろう。しかし私は続けます。続けて豊かな日々を楽しむことにします。
もう一つ、欠落している部分を指摘したい。物語。物が語る、ということを主張したい。日本の一般家庭で、その家族、一族の代々の歴史を、綿密に正確に記録し続けている家庭がどのくらいあるだろうか。家族皆が知っていることとして、記録するには当たらない、と思うこともあるだろう。書き留める習慣から離れている家庭もあるだろう。忘れてしまいたいことが重なったために、記録するなど考えもしない場合もあるだろう。しかし、どの家にも残されるのは「もの」なのだ。物言わぬものが語ることの確かさと深さ。物を捨ててしまうことが、その家庭から何を奪うのか、想像してみて欲しい。
どうか、安易に物を捨てないでほしい。物が語ることを知って欲しい。国には正倉院がある。各家庭に正倉院的小函のひとつがあってもよいのではないか。
天、共に在り
23-12-13-15:35-
『天、共に在り』副題=アフガニスタン三十年の闘い 著者=中村 哲(なかむら てつ)発行=NHK出版2013年 252頁 ¥1600 サイズ=20cm ISBN9784140816158
著者=1946年福岡生まれ。医師・平和医療団(日本PMS)総院長・日本国内の診療所勤務の後、1984年にパキスタン・ペシャワールに赴任。ハンセン病を中心とした貧困の人々の診療。86年よりアフガニスタン難民のための医療チームを結成、山岳無医村地帯に診療所を3カ所作る。98年に基地病院PMSを設立。診療活動と並行して大干魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保(井戸掘削・地下水路の復旧)に尽力。25キロに及ぶ灌漑用水路を建設。現在も砂嵐や洪水と戦いながら沙漠開拓を進めている。
内容=パキスタン・アフガニスタンで想像を絶する環境の中、支援を続ける医師、中村哲の30年。なぜアフガニスタンへ? というきっかけを語るために生い立ちから入り、現在に至る道のりを、揺るがない人間の根本精神を握りしめつつ語る。
感想=著者を詳しく紹介することが内容を紹介することでもある。モノクロ写真多数。巻末にアフガニスタンと著者に関する年表とペシャワール会の紹介がある。ペシャワール会とは、中村医師とPMSを支援する目的で作られた会。生い立ちのなかから、中村医師が火野葦平の甥であると知った。私が現代小説を読み始めたときに出会った作家の一人だ。自殺した火野葦平の苦悩。世間の誤解。彼がし残したこと、希求していたものは何だったか。ながらく浮遊していた彼の念が、甥の中村哲の身を弱き人々を救う道へ運んだのではないか。感想にはふさわしくないが、そんな思いを強く抱いた。巻末の彼の写真は美しい。目眩がするほどに美しい。
本書には、長い間の行動を基礎に置いた強靱な思想が置かれている。何世紀を経ようが変わらない石のように強固で確実な人間の魂が、石のように在る。何遍も読み返して欲しい重い書物である。ここに珠玉の言葉のいくつかを紹介したいが、その一節を転記します。
「先に述べたように、「戦争と平和」は、若いときから私にとって身近な問題であった。福岡大空襲による父方親族の壊滅、戦争作家と呼ばれることを嫌った伯父・火野葦平の自決、大学時代の米原子力空母寄港−常に米軍が影のようにつきまとってきた。まさか、アフガニスタンまで追いかけてこようとは、夢にも思っていなかった。いま、きな臭い世界情勢、一見勇ましい論調が横行し、軍事力行使も容認しかねない風潮を眺めるにつけ、言葉を失う。平和を願う声もかすれがちである。しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。防備は必ずしも武器によらない。一九九二年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発砲しない方が勇気の要ることを知っている。」
著者=1946年福岡生まれ。医師・平和医療団(日本PMS)総院長・日本国内の診療所勤務の後、1984年にパキスタン・ペシャワールに赴任。ハンセン病を中心とした貧困の人々の診療。86年よりアフガニスタン難民のための医療チームを結成、山岳無医村地帯に診療所を3カ所作る。98年に基地病院PMSを設立。診療活動と並行して大干魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保(井戸掘削・地下水路の復旧)に尽力。25キロに及ぶ灌漑用水路を建設。現在も砂嵐や洪水と戦いながら沙漠開拓を進めている。
内容=パキスタン・アフガニスタンで想像を絶する環境の中、支援を続ける医師、中村哲の30年。なぜアフガニスタンへ? というきっかけを語るために生い立ちから入り、現在に至る道のりを、揺るがない人間の根本精神を握りしめつつ語る。
感想=著者を詳しく紹介することが内容を紹介することでもある。モノクロ写真多数。巻末にアフガニスタンと著者に関する年表とペシャワール会の紹介がある。ペシャワール会とは、中村医師とPMSを支援する目的で作られた会。生い立ちのなかから、中村医師が火野葦平の甥であると知った。私が現代小説を読み始めたときに出会った作家の一人だ。自殺した火野葦平の苦悩。世間の誤解。彼がし残したこと、希求していたものは何だったか。ながらく浮遊していた彼の念が、甥の中村哲の身を弱き人々を救う道へ運んだのではないか。感想にはふさわしくないが、そんな思いを強く抱いた。巻末の彼の写真は美しい。目眩がするほどに美しい。
本書には、長い間の行動を基礎に置いた強靱な思想が置かれている。何世紀を経ようが変わらない石のように強固で確実な人間の魂が、石のように在る。何遍も読み返して欲しい重い書物である。ここに珠玉の言葉のいくつかを紹介したいが、その一節を転記します。
「先に述べたように、「戦争と平和」は、若いときから私にとって身近な問題であった。福岡大空襲による父方親族の壊滅、戦争作家と呼ばれることを嫌った伯父・火野葦平の自決、大学時代の米原子力空母寄港−常に米軍が影のようにつきまとってきた。まさか、アフガニスタンまで追いかけてこようとは、夢にも思っていなかった。いま、きな臭い世界情勢、一見勇ましい論調が横行し、軍事力行使も容認しかねない風潮を眺めるにつけ、言葉を失う。平和を願う声もかすれがちである。しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。防備は必ずしも武器によらない。一九九二年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発砲しない方が勇気の要ることを知っている。」
アフガニスタンの風
07-12-13-21:53-
『アフガニスタンの風』(THE WIND BLOWS AWAY)著者=ドリス・レッシング DORIS LESSING 訳 加地永都子 発行=晶文社1988年 253頁 20cm ¥2100 ISBN4-7949-28238
著者=前掲
内容=1986年9月、数年前からアフガン救援運動を通じて、この闘争と関係してきたレッシングは、救援運動に関わる人たちと共に、パキスタンにある難民キャンプを訪問した。これは、その記録と思索である。難民たち、アフガニスタンの女性たちの声が満ちている。左手の伴奏のようにレッシングの思索が流れる。
感想=レポートは飛行機の中からはじまる。隣の女が寄りかかってくる、それを顔を見ないで押し返す。こんな些細なこと。大きな問題、難民キャンプのことを書かなければならないんじゃないの? ところが読んでも読んでもこの調子で、壁に掛かっているモノから,テーブルの上のものすべて。会話の隅々まで。女たちが、どういうときに顔を隠し、いつ素顔をさらけ出して活発に喋るのか。写真を撮らせて,と頼むと拒絶される。花火かしら、と見ると、照明弾だ。
やがて読者は難民キャンプのざわめきが聞こえてくるのを知る。レッシングは、地下抵抗運動で知られるタジワル・カカール夫人とのインタビューをする。その運動のありさまと、逮捕されて1年間拘留されていたときの凄惨な拷問について語る。巻末に近いこの記述に至ると、始まりから続いてきた普段の姿が恐ろしいほどの現実感を保って迫ってくるのを感じた。恣意的に逮捕がなされ、身体の自由と言論の自由を封鎖され、1年間拷問を受け続け、いかなる書類も告白も手に入らないと分かって釈放された5児の母の声が読者に手渡される。最後の章は「西側の意識の不思議」というタイトルで近代化について疑問を投げかけている。この短い章は、全部をここに紹介したいほどに深い意味を持っている。チェルノブイリ、スリーマイルからナチスのホロコースト、それ以前からより大がかりに行われた膨大な殺戮について。統計の示す数字の油断ならないこと。私たちは数字と統計の囚人になっている、とレッシングは言う。難民キャンプについて記事を書き、米国とヨーロッパの主要新聞に送ったがことごとく掲載を断られたこと。
最後の行……本書を執筆している間中、強制収容所で死んだソ連の詩人、オシップ・マンデリシュタームの言葉がわたしの脳裏を去らなかった。「そして、わたしを殺すのはわたし自身の種族だけ」
著者=前掲
内容=1986年9月、数年前からアフガン救援運動を通じて、この闘争と関係してきたレッシングは、救援運動に関わる人たちと共に、パキスタンにある難民キャンプを訪問した。これは、その記録と思索である。難民たち、アフガニスタンの女性たちの声が満ちている。左手の伴奏のようにレッシングの思索が流れる。
感想=レポートは飛行機の中からはじまる。隣の女が寄りかかってくる、それを顔を見ないで押し返す。こんな些細なこと。大きな問題、難民キャンプのことを書かなければならないんじゃないの? ところが読んでも読んでもこの調子で、壁に掛かっているモノから,テーブルの上のものすべて。会話の隅々まで。女たちが、どういうときに顔を隠し、いつ素顔をさらけ出して活発に喋るのか。写真を撮らせて,と頼むと拒絶される。花火かしら、と見ると、照明弾だ。
やがて読者は難民キャンプのざわめきが聞こえてくるのを知る。レッシングは、地下抵抗運動で知られるタジワル・カカール夫人とのインタビューをする。その運動のありさまと、逮捕されて1年間拘留されていたときの凄惨な拷問について語る。巻末に近いこの記述に至ると、始まりから続いてきた普段の姿が恐ろしいほどの現実感を保って迫ってくるのを感じた。恣意的に逮捕がなされ、身体の自由と言論の自由を封鎖され、1年間拷問を受け続け、いかなる書類も告白も手に入らないと分かって釈放された5児の母の声が読者に手渡される。最後の章は「西側の意識の不思議」というタイトルで近代化について疑問を投げかけている。この短い章は、全部をここに紹介したいほどに深い意味を持っている。チェルノブイリ、スリーマイルからナチスのホロコースト、それ以前からより大がかりに行われた膨大な殺戮について。統計の示す数字の油断ならないこと。私たちは数字と統計の囚人になっている、とレッシングは言う。難民キャンプについて記事を書き、米国とヨーロッパの主要新聞に送ったがことごとく掲載を断られたこと。
最後の行……本書を執筆している間中、強制収容所で死んだソ連の詩人、オシップ・マンデリシュタームの言葉がわたしの脳裏を去らなかった。「そして、わたしを殺すのはわたし自身の種族だけ」
なんといったって猫
07-12-13-21:11-
『 |
土壌汚染
04-12-13-23:25-
『 |