文房 夢類
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文房 夢類

これからの日本、これからの教育

これからの日本、これからの教育』 著者=前川喜平(まえかわ・きへい)・寺脇 研(てらわき・けん) 発行=筑摩書房2017年・ちくま新書 270頁 ¥860 ISBN9784480071064  
著者=前川喜平1955年奈良県生まれ東京大学法学部卒79年、文部省(当時)へ入省。2016年文部科学事務次官、17年に退官。現在、自主夜間中学のスタッフ。
   寺脇研 1952年福岡県生まれ東京大学法学部卒75年、文部省(当時)へ入省。2002年文化庁文化部長。現在、京都造形芸術大学教授。著書『文部科学省』など
内容=文部官僚として新卒以来働いてきた両人が教育をめぐり、日本の未来を見据えながら語り合う。
感想=
人と生まれて、どこでどのように道が分かれるのだろう、行く手は二手に分かれて行く。
   一つは、自分自身の幸せ、家族、仲間のために精を出す道へ、
   一つは、他者の幸せを思わずにはいられない人の道へと進む。
この二人は、日本のこれからを考えずにはいられないのだ、教育は20年単位で見とおすものだと、繰り返す。現場に立つ重要さが繰り返し語り合われる。お二方とも進学校育ちで文部官僚へと進んだ、丁寧に育成された子たちであったから、その他大勢の同時代の少年とは付き合いがなかったのだ。文部官僚となってから始めて、さまざまな環境に生きる中高生たちに出会った、書類の上ではなく、現場に足を運んで向き合ったことに大きな意味があったのだった。この時の驚きと発見、現場から学んでゆく素直さと積極性が印象的だ。
さまざま語られる中で驚いたことは、各種のマイノリティの人々の%を合計すると50%、全人口の半分にもなるということだ。このような把握と分析は、文科省あってこその収穫だろう。とはいえ、前川氏個人の働きであったが。
前川氏と寺脇氏の視線は、水の流れのように小さき者、弱き者に集まり、話題が盛り上がってゆく。この心のベクトルは、ノーベル文学賞受賞のベラルーシのジャーナリスト、アレクシェーヴィッチさんと、そっくり同じだ。
今、在日2世は3世、4世の時代だそうだ。彼らのよくない行動には苛立ちを覚えるが、本書で話し合われている考え方を熟読してみて、あ、あっと思った。この見方は大発見だった。20年単位での教育だ。日本で生きる運命を背負った若者を、心込めて育ててゆくことが、平和への、幸せへの、通路なんだと身にしみた。ブラジル日系人が日本を訪れたとき、自分自身を異邦人と感じる、このことを思ってみよう、と語るのである。
こうした想像力は、今日から、今から、誰でもできる心の持ちようではないか。反発や反感から平和という種は発芽しないということだ。
これは前川さんと寺脇さんが向かい合って話し合っている、というよりも、二人揃って日本の国民に向かって話しかけている本だ。
ゆとり教育についても語られている。
前川氏は言う、「近代以降の、日本の教育の流れを見ていくと、大正自由教育が花開いた時期もあるし、戦後は戦後で、教科書の知識を覚えこむよりも、学習者の経験こそが大事だとする経験主義的な教育が広がりを見せた時期もあって、意外と多様なんですね。こうして振り返ってみると、一人ひとりの個性、自主性を伸ばしていこう、大事に行こうという考え方は連綿と続いていて、なくなりはしない。揺り戻しの時期があってそれが抑え込まれることはあります。ですが、そうしたことを繰り返しながら、少しずつ進歩していると、私は思いたい。「ゆとり教育」も、じつは昨今のアクティブ・ラーニングにつながっていると、私は思っています。」(紹介、ここまで)
この、学力低下の元凶と罵られる「ゆとり」については、意図する本質と「ゆとり」というネーミングが、あまりにもかけ離れており、これでは理解されずに終わったのも当然かと残念に思った。
肝心なことは、はじめに「個」があり、ついで「公」があるという思想だ。ヒトが集団を作って生きる生き物、アリやミツバチと一緒だ、みんなで生きてゆく生き物である以上、「個」だけでは生きていかれない、組織が大切なんだけれども、どっちが先かというと個なんだ、個あって始めて公があるという考え方が基本にあるのだった。
寺脇氏が小渕内閣当時のことを語っている中で、こう話している。「小渕総理は、何より個人の尊厳を大事にする人でしたね。(中略)そうそう。大切なのは「個と公」であって、「公と個」じゃないということが言いたいわけです。自民党の考え方の根っこは、基本的には「滅私奉公」。この言葉が大嫌いで、でも逆に「滅公奉私」というのもいかんと。」(紹介、ここまで)
これは当時の官邸と文部省の間が接近しており、互いの考え方を付き合わせ醸成していったものと想像する。ところが小渕総理が急逝、森喜朗に代わってしまったのだった。ああ。
自由と規律。これが教育の本質に迫るものであり、これこそ真の教育、これさえできればいうことはないというハイレベルなものだったと理解した。ゆとりという言い方だけが広まり、この3文字に寄りかかり誤解して捨て去ったことが、返す返すも残念だが、アクティブ・ラーニングに希望をつなごう。
本書は、教育の場に立った大型の日本論、日本の未来展望の書。

河合隼雄氏と村上春樹氏との特別対談(1998年文藝春秋誌11月号「麻原・ヒットラー・チャップリン」)の中に、関連部分がある。以下、紹介しよう。
村上=日本人というのは本当に自由を求めているのだろうかって僕はときどき疑問に思ってしまうんですよね。とくにオウムの人たちをインタビューしていると、それを実感しました。
河合=いや、日本人にはまだ自由というのは理解しにくいでしょう。「勝手」ちゅうのはみんな好きやけど。自由というのは恐ろしいですよ。
村上=だからオウムの人たちに「飛び出して一人で自由にやりなさい」と言っても、ほとんどの人はそれに耐えきれないんじゃないかという印象を持ちました。みんな多かれ少なかれ「指示待ち」状態なんです。どっかから指示があるのを待っている。(中略)
河合=それこそフロムやないけど、『自由からの逃走』やね。だから小さいときから、自由というのはどれほど素晴らしいことで、どれほど怖いことかというのを教育することが、教育の根本なんですよ。それを本当にやって欲しいんですが、なかなかそれができなくてね。(紹介ここまで)
およそ20年前に、教育と自由について語られていたことを併わせ載せることで、改めて日本人と自由について考えを深めるよすがにしたいと思います。

手を洗いすぎてはいけない

手を洗いすぎてはいけない』副題=超清潔志向が人類を滅ぼす 著者=藤田 紘一郎(ふじた こういちろう)発行=光文社2017年 光文社新書 222頁 ¥700 ISBN9784334043285
著者=1939年旧満州生まれ東京医科歯科大学卒 同大学名誉教授 専門は寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学。日本寄生虫学会賞ほか受賞多数。著書に『
こころの免疫学』など。
内容=なぜ手洗い、うがいをしているのに風邪をひくのか。清潔志向がアレルギーを増やしている。綺麗好きをやめれば免疫力が強くなる、などを説く。
感想=手を洗いすぎてはいけない、というタイトルを見て、読み違えたかと思った。家に帰ったら、まず手を洗う。電車のつり革はぶらさがらない、よろめいてもこらえよう。あっちにもこっちにも、すごいバイキンがいるのだ。
これが今時代の常識なのだから、真逆のことを言われたって、な〜〜
しかし、まあ、よくいる友達付き合いみたいに、そうよね、そうよねぇ、と同じ意見の「お友達」とだけ付き合って「お友達」だけを大切にしているのって、バカが手をつないでいるようなものであるから、真逆意見には反射的に飛びつくのであります。
自分が清潔人間かどうかのチェックリストが出ています。全部で5項目なのでここに紹介しましょう。○トイレのたびに、石鹸でゴシゴシ洗う。○冬場のうがい薬は欠かせない。○ウオッシュレットがないと不安。○子どもを砂場で遊ばせたくない。○マスクをして風邪を予防している。
そうか、マスクは一箱買ってあるし、ウオッシュレットだし、と吟味する。読むうちにショックなことが書いてあった。それは、今時代の人たちの大便の量が昔の人より減っているという、大便の話題のところに差し掛かった時だ。なぜ、少量になったかというと、それは消化の良いものを食べて、野菜の食べ方が少ないと思うだろうが、それは違うのだそうだ。減っている原因は、腸内細菌が減っているせいだというのである。腸には100兆個の腸内細菌がいて、重さにして2キロある。この細菌たちが害どころか、ためになる働きをしているというのだ。大便の60%が水分、20%が腸内細菌と、その死骸で、15%が腸から剥がれた粘膜など、食べ物のカスは、たったの5%ですって。これは思ってもみなかったことで、次々とひきつけられて読んでしまった。
この細菌たちの、あるものは害もするのだから、それはやっつけなければならないが、体のためになる働きをしているものもたくさんいるという。この働き者の細菌たちの役割を認めないで、徹底的にすべての細菌を消滅させようとするのが、今の進んだやり方なのだそうだ。これを徹底してゆくと、アレルギーもアトピーも、増える一方だという。なるほど、そうであったか。綺麗なら、綺麗なほど良い、と思っていたけれど、それでは一つ、まずは手洗いを簡単にしてみましょう〜。しかし、いったん身につけてしまった清潔モードは、一朝一夕には変えられないところが辛い。やっぱり、玄関ドアを入ったら、すぐに石鹸で手を洗ってしまう。私は固形石鹸で最初に洗い流し、改めて殺菌用のフォームで念入りに洗う。この後でないと、そこいら辺に触れない。汚いのを綺麗にすることはできるが、綺麗なのを汚くするのは、ひどく難しいものだ。

歌丸ばなし

歌丸ばなし』著者=桂 歌丸(かつら うたまる)発行=ポプラ社 2017年 ¥1200 245頁 ISBN9784591156339 サイズ=19cm
内容=江戸を舞台にした人情話、滑稽話を8席収録。各噺の後に、裏話などを含めた随筆が載っている。
感想=日曜日の夕方に15分間放映する「笑点」で、長い間親しまれてきた歌丸師匠の語りが、読んでいるうちに声となって聞こえてくる。落語は寄席に行って聞くのが一番だけれど、読むうちに声が聞こえてくるような錯覚に陥る本。
嬉しいのは初っ端から生粋の東京弁であることだ。ありがたい、嬉しい、と涙が出る。全く、見事に一本、筋の通った江戸前である。ありがたい、宝である。リズミカルで調子良く、スッキリ流れるうっとり感、下世話な話でも品があります。私は汚いのが大嫌い。
最近のこと、円朝全集を買って暇暇に読んでいる。これはまた見事で日本の宝ですが、情けないことに私には手の届かないところがたくさんある。学ぶところがふんだんにあります。
良かったのは、「噺のはなし」という題で、それぞれの話の後に書いている随筆。ここに裏話や、解説などが書かれている。元の話はこれこれだが、サゲを変えた、ということなどが書かれている。これは一種の創作談義ともいうべきもので、読みようによっては重要な鍵が各所にある。
師匠はこう書いている「落語は、サゲを言いたいためにやっているようなところがあるんです。サゲをどうするかしょっちゅう考えますが、机に向かっていざやろうとしたって、まずできません。風呂に入ってぼーっとしている時とか、トイレに入っている時とか、ふいと出てくることがある。」
これを読んで、アガサ・クリスティを思い出した。クリスティが同じことを書いていて、料理をしながら考える、というのは私はできません。(アイディアを)思いつくのはお風呂に入っている時……。
これは確かにその通りで、ぬるめのお風呂に首まで浸かっている時が最高だと、私も思います。お料理は、テレビを横目で見ることはあっても、頭を他に使うことは無理ですね。
また、歌丸師匠は、こうも書いている、「芸は人なり」と言いますが、芸の中に演じ手その人が出るものです。人情味があれば人情味のある芸ができるし、薄情な人間には薄情な芸しかできません。同じ噺でも、そこで大きな差が出るんじゃないかと私は思っています。(引用ここまで)
作者の人柄と作品という話だが、これには強く同感します。
ここから話題が小説に移ってしまうのですが、小説でも同様と感じます。技術は必要、技術が無ければどうにもなりませんが、かといって技術が優れているだけでは、どうにもならない。
これは音楽でも絵画でも同じじゃないかと思います。以前、佐藤しのぶさんが、歌を歌うということは自分をさらけ出すことで、裸になるより恥ずかしい、と書いていられました。ただの裸なら、服を脱いだだけのことですが、裸になるより、もっと裸ということは、内臓まで、まさに五臓六腑まで露わになるということですから。だからこそ、受けて聴き、受けて観、受けて読みして、我が五臓六腑に染み渡るのですものね。受ける側の心が動くって、生半可のことじゃない。
受け手とは随分なわがまま者だと思います。私自身を受け手として、そう感じます。例えば往年の名歌手、美空ひばり。聞き惚れて胸に染み渡るひばりの歌は、ちょっとやそっとのものじゃない、非の打ち所もない。と、わかっていても私にとってはお付き合いのない家の庭石としか言いようがない。
それは内臓まで聴こえるからで、その五臓六腑が私とは接点のない、縁のない世界の肌あいだからです。で、わがままな私は、なかなか肌の合う歌手に巡り会えないので、いますけれど次々には現れないので、初音ミクがいまのお気に入りとなっている次第。
小説となると、読み手の読む力が問題で、力量のある読み手が少ないために難しいのですが、本質は歌丸師匠の言葉そのもの、それ以上でも以下でもない、そっくりその通りと思います。噺家でも、歌い手でも、演奏家でも、描き手、書き手でも、その人がどう生きているか、にかかっている。
性根の曲がったやつは、どう書いたって曲がってる、それでも買う奴がいるのは、同じ根性のやつらが大勢いるから。貧相な人は、富豪を書いても貧相さが出る。すぐれた作品だから評価しているのではなく、作家の内臓の部分に共鳴するのです。
若い人たちはむしろ、経験が浅いだけに感覚が新鮮で、持って生まれた嗅覚によって見分ける力を発揮します。だから、若者が読みかけで放り出したとしても、放っておいたほうが良い。根気がないのではないかもしれません。ある程度の年齢になっても噂を頼りに本選びをするような者は、読んでも読まないでも同じの人たちでしょう。
噺家で、お名前が、ちょっと出てこなくて申し訳ございませんが、こういうことをおっしゃっていられます、「広い世間にたった一人、おれの芸をいいといってくれる人がいる。それを目当てにする。所詮それがこの商売の真実だ」




猫になった山猫

猫になった山猫』著者=平岩由技子(ひらいわ ゆきこ) 発行=築地書店 2002年 サイズ=19cm 224頁 ISBN4-8067-1241-8
著者=イヌ科ネコ科の研究で知られた故平岩米吉の長女。犬、猫、狐、狸、ハイエナ、山猫などに囲まれて育ち、生物の生態や遺伝に興味を持つ。父の研究の助手をつとめ、父の意志を継いで平岩犬科生態研究所、動物文学会を主宰。季刊誌「動物文学」の編集、発行人。また、洋猫との混血のため絶滅に瀕した日本猫の保存運動に力を尽くしている。著書に『狼と生きてー父平岩米吉の思い出』1998年刊(市場になし)
内容=巻頭に4頁のカラー写真。それはナイル川下流のピラミッド、遺跡の風景で、ここで30万体の猫のミイラが発掘された故に掲載している。加えて家猫の祖先と言われるリビア山猫と、混血の進んだ現在の猫たちの写真、そして表紙カバーにも使っているブラジル、グアジャ族の母が自分の乳を孤児に飲ませている写真だ。この写真はアマゾンの本書にリンクしますので、ご覧になってください。
この写真群からわかるように、本書は猫の源流から現在までを探索、見通しつつ、実際に飼育、研究をしている立場から見た猫についての本。
感想=
犬との付き合いを猫に替えたため、猫に関する本を探していて出会った本。
アマゾンで本書を発見した時、著者の名が平岩とあったので、もしかして日本オオカミと日本犬の権威、平岩米吉先生に関係があるか? と見たら、なんと先生の長女だった。赤ん坊のころから犬に囲まれ、父に育まれた娘が「私は猫をやる」と宣言したとき父は「大変だよ」と言ったそうだ。
その半年後に父は他界し、日本猫を軸に、原初の猫からの軌跡を追い、研究し、保護保存に尽力す。
この本は、父娘二代にわたるヒトとイヌ・ネコに関する研究と愛の結晶である。「本書を亡き父、平岩米吉と その父の生涯を支え いまは私の心のよりどころである 母、平岩佐与子にささげます。」と巻頭に献辞がある。数多の献辞の中、私はこれほどの輝く献辞に出会ったことがない、このような献辞を捧げることができる、溢れる愛に目がくらむ思いがする。
内容紹介で記した通り、本書のカバー写真は、親を失った子豚に乳を飲ませる、ブラジル、グァジャ族の母。これは野生の獣が人との絆を作り、家畜となる第一歩だ、と解説している。
人と野生動物との絆の始まりが「乳」にあることは『
神・人・家畜』谷泰著にも詳しく書かれており、飢えたヒトが、野生動物から最初にもらったものは乳であった、と考察している。平岩由伎子氏が、源まで遡り研究を進めた原点としての、これはモニュメントだろう。
日本猫の保存運動では、日本列島くまなく探しまわる様子が描かれ、ついで日本ネコの繁殖の努力が語られる。
砂漠が猫の原点だったことから始まる猫の歴史では、19世紀以降の世界中の乱雑な人の繁殖行為が、現在のCMに出演するタレント猫につながって見えてきて考えさせられる。
後編の猫の生活では、生殖のパターン、縄張りや雌雄の特徴、犬との対比などがふんだんに盛り込まれる。
猫の源流をたどり砂漠の生まれだったことが判明、今の猫たちに共通する腎臓の故障の原点である、ということを私は初めて知った。そうだったのか、という発見が盛り込まれている流石の平岩、という貴重な本。
内容とは関係がないけれど、親の後を継いで仕事を進める子の姿に心を揺さぶられ、親も子もこれ以上の幸せはないだろうとため息が出た。動物関係だけを集めたライブラリーの書架に、父娘の本を並べ置くことができた私も大満足だ。
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