文房 夢類
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文房 夢類
February 2018

大惨事と情報隠蔽

『大惨事と情報隠蔽』Man-made Catastrophes and Risk Information Concealment Case Stugies of Major Disasters and Human Fallibility 副題=原発事故、大規模リコーツから金融崩壊まで 著者=ドミトリ チェルノフ&ディディエ ソネット Dmitry Chernov & Didier Sornette 発行=草思社2017年 サイズ=19cm 560頁 ISBN9784794222954
著者=ドミトリ・チェルノフ チューリッヒ工科大学の「起業家リスク」講座所属の研究者。クライシス・コミュニケーションに力を注いできた。
   ディディエ・ソネット チューリッヒ工科大学の、同じ講座を担当する金融学教授。金融危機研究所所長。同大学リスクセンター共同設立者。スイス金融研究所のメンバー。
内容=今までに起きた大惨事を分析して、それらの共通項を明らかにしている。その中で、リスクの無視、非共有、隠蔽を起こす組織の特徴を探る。
   原発事故や原油流出などの工業分野の大事故だけでなく、軍事的失敗、感染症大流行などの社会的事件、自動車の大規模リコールや医療製品不正製造などの消費者問題、銀行破綻や金融崩壊などの経済危機分野まで幅広く事例を検証している。
感想=
世界中の大事件の中から選んだ大事件について検証している。
取り上げた事件の発生時期は、最も古いものが1918年のスペイン風邪で、以後現在までを扱っている。しかし知らない事件がいくつもあった。
知らない事件だな、と読んでみると、あっ この事件はニュースで見た、というものがたくさんあった。
一方、渦中にあった福島大地原発事故、水俣。そしてトヨタのリコール事件については、当事国の住人としての体感温度と個人的感情を抱えているゆえに、本書の冷静、客観的な見方に助けられた。
第2部で行われる詳細かつ客観的な24例の事実確認と検証・分析を読むと、目を見張るような共通項が洗い出されたことがわかる。
なぜかを検証する3部が興味深く、かつ有益だ。
最も緊張感を持って考えたいのが第4部で、現在リスク情報が隠蔽されている可能性がある事例としてあげられている4つ、
すなわち1、アメリカのシェールガス開発 2、遺伝子組換え生物、3、アメリカの政府債務と中国のGDP 、4、ソフトウェア産業の脆弱性。
この四つに対して、間断なく注視し、さらに深く知るように努力し、身構えなければならないと感じた。
最後の5部で、たった3件の情報管理の成功例が挙げられる。
この3件とは、トヨタ生産方式、ソニーのバッテリ・リコール問題、セベソ事故である。
ここに2件の日本関連が挙げられたことに、希望の光を見たい。
本書は、企業リスクの専門家による緻密で地道な研究。
巻末にメールアドレスが添付されており、読者からの意見などを受け入れている。
1900
年代から現在までの大事故の着実な展望と冷静な検証、さらに将来に向けての考察は、前向きに進む姿勢で意欲的だ。
読後、各々の思考を進める役にたつ良書。
その他、よかった部分
各章の冒頭に一言が載っているので、紹介します。
⭐️ドン・コルレオーネは、悪い知らせほど早く知りたがる。映画ゴッド・ファーザー ⭐️罪もごまかしも、たくらみも詐欺も悪も、すべて見えないところでひっそりと生きているものだ。ピュリッツアー ⭐️賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ。ビスマルク
⭐️歴史は繰り返すのではない、韻を踏むのだ。マーク・トウェイン 
もう一つ、本文デザインが良い。本書は流し読みをして閉じる種類の本ではなく、振り返り、前に戻り、あるいは先を見るなど検証する価値のある内容なので、こうしたユーザーの側から計らい作られている。柱の位置、サイズ、デザインなど細かいところまで行き届いている。

モンゴル帝国誕生

『モンゴル帝国誕生』副題=チンギス・カンの都を掘る 著者=白石典之(しらいし のりゆき)発行=講談社2017年 講談社選書メチエ 248頁 ISBN9784062586559 ¥1782
著者=1963年群馬県出身筑波大学大学院歴史人類学博士課程単位取得退学。博士(文学)新潟大学人文学部教授、専門はモンゴルの考古学。
内容=著者が近年、発掘しているチンギスの都、アウラガ遺跡を元に、モンゴルの民衆の生活を支え続けたチンギスの実像を探求する。
感想=ある湖のほとりで、ひとりぼっちで佇んでいた青年に声をかけたところ、モンゴルからの留学生だった。
モンゴルについて知ってますか? という彼の問いに、お相撲さん! と答えた私に彼は「すもうだけでは、ないです」と。
ジンギスカン鍋。それとアレクサンダー大王と並ぶ世界制覇の英雄だということ。知ってますか? と問われて出てくる答えはこれだけだった。このことがきっかけで、モンゴルについて知ろう、と思ったことが、本書を開いたきっかけだった。

ジンギスは、ペルシャ語系、チンギスはモンゴル本国をはじめ漢文系資料に依拠した呼び方だという。
著者の専門はモンゴルの考古学。読むうちにわかったことは、資料文献に埋まってじっとしている学者ではないということだった。
モンゴルと日本と、どっちに重心がかかっているのだろう、モンゴルの人たちとの交流を始め、気候風土、森林河川、植物の植生などあらゆる方面にわたり、まるで土地もんである。さらに専門の考古学に隣接する分野の研究者たちとの交流が密で、全員が一塊となって研究を進めている様子が手に取るように伝わってきた。これは素敵なスタンスだ。周辺との連携を持つ姿勢が、各界に見られるようになってきた。

遊牧というから、あっちへウロウロ、こっちへホイホイ、気の向くままに羊や牛を追って移動しているんだと思っていたが、これはとんでもないことだった。誠にシステマティックな行動であった。遊牧民について浅薄な先入観を持っていたものが見事に覆された。
モンゴルの英雄チンギス・カンは、騎馬軍団と武器を持って次々に領地を増やし、一大帝国を夢見るという野心の人ではなかった。このイメージも変わった。
その暮らしは質素質実であり、気候に従い規則的な移動を繰り返しながらも、定着的集落を設けて農耕もし、鉄鍛冶工房を運営していた。重要視していたのが馬、鉄、道。
モンゴルの馬は、サラブレッドの体高が160cmであるのに比べて130cmと小柄で、幼児も馬を乗りこなすという。
現地を熟知し、愛情を持って見つめる著者の目を通して、まるでモンゴルに連れて行ってもらったかのように馬の姿、川の流れ、馬の喜ぶ草地、広い森林が見えて、日本とは比較にならない厳しい寒さも感じることができる。
チンギスは貪欲に領地を増やす野望の人ではなかった、モンゴルの民を第一に思う、私利私欲のない人だった。
驚くべきことは、彼のセンスが時代を超越して現在の世界に通用する価値観と判断を持っていたことだ。
道を作り駅舎を作る。これは現在のハイウェイと重なるものだが、要するに交通インフラの整備である。
彼が、今に伝えられる英雄として名を残したのは、モンゴルの地を知悉した上に構築した先端感覚の経営力にあったのではないか。
魅力ある国、学ぶところの多いチンギスカンだ。
巻末に参考文献と索引。

山怪

『山怪』『山怪 弐』副題=山人が語る不思議な話 著者=田中康弘(たなか やすひろ)発行=山と渓谷社 2015年 続編の弐は、2017年 256頁 128X187mm @¥1296 ISBN9784635320047・ISBN9784635320085
著者=1959年長崎県佐世保市出身 日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場や山間の狩猟に関する取材が豊富。
内容=山で働き、生活する人たちが、今現在、実際に遭遇した不思議、奇妙な、説明のつかない体験を聞き取り記録したもの。現代の遠野物語か。
感想=放浪取材のフリーランスカメラマンの聞き取り話。こういう仕事の人って、仕事というより生きることと抱き合わせで選んだ仕事だから。他の職業にはつけない人なんだと思う。
写真を撮りながら、出会った人たちと喋る、そのうちに聞いたことを集める気になったのではないか。
内容から柳田國男さん、松谷みよ子さんを思いだした。
柳田國男さんは、学究の目的であった、松谷みよ子さんも、具体的に民話採集という目的を持っていらした。
田中さんは、ちょっと違う。なんか怖い経験て、ありませんか、みたいな聞き方をしている。
だから「さあ、何もないよ」という返事をもらうことがよくあり、それもそのまま記されている。帰り際に、そういえばこんなことがあったよ、と話してくれたことが収穫だったりしている。経験を語ってくれる人たちが、普段の言葉で、同じ目の高さで、本当のことを話してくれている、そんな感じを受けた。地域の人たちに教えてもらっているみたいな、話す側も、耳を傾ける田中さんも、なんかあったかい。
強調したいことは、どれも本当のこと、本当だと、本人が信じていること、が記されていると感じたことだ。
創作怪談の、ひたすら怖がらせようという話が好きな人には物足りないだろう。ここには技巧もないし、増幅装置もない。事実だけだ。
その代わり、自分も似た経験をしたよ、あの山で、と思い出すような人には、たまらない魅力がある、実際の経験を共有できるのだ。
この本を読んでのちのこと、独りで山歩きをした。山小屋に真新しい本書が、まだ帯付きで棚に立てかけてあった。
買ったの? と主に尋ねたら、そうじゃない。自分が話したことを、ここに書いてもらったんだという。
ほ、ん、と、のことを話したんだよ。それを、そのまま書いてもらった、という。
「あたしさ、この人に喋ったんだ、ほれ、ここに出てるのがあたしさ」と表紙の著者の名を指で押した。
懐かしがっていた。そして本当のことを喋ったのを、そっくり信じてくれたと目を輝かせていた。
信じてもらったとは嬉しかったろう、私は誰彼に話しても、信じてもらったことがない。はあ、そうですか。わかりましたよ、と微笑みを返してはくれるが、河合さん、また〜、という目つきである。
もっとも、私の経験は貧弱なものである、アイヌ犬の千早と二人っきりで山に入り、とことん迷う。定石通りの堂々巡り、ここ通ったところだ、と悟って愕然とする。何度かやらかしたが、不思議と反時計回りに廻るのであった。
実は、これは死を暗示する動きなのだ、生き物が死ぬ間近には、犬も人も他のものたちでも、反時計回りに動こうとするものだ。これは獣医師から直接教えていただいたことで、でたらめではない。
もう一つ、これも千早と二人、以心伝心で黙々と歩いて全く口を利かない山中の数時間。ごく間近に笑い声を聞いた。3、4人、あるいは数人の、私と同年輩の女性ばかりが笑い喋りしている。林業の人が歩く道もないところだ。
こんな「気のせい」的な経験を持っていると、この二冊の本を読むと、ああ、自分だけではなかったんだ、本当にあったんだ、とホッとするのである。
全く怪異に遭遇しない人もたくさんいる。そのような人がトンネルの中で怪異らしきものに出会った話が面白い。
アタマ良さそうな男性が、どう見てもおかしい現象に対して、もっともらしい科学的解説をして信じない。いるいる、こういう人、という感じだ。

Black Box

『Black Box』ブラックボックス 著者=伊藤詩織 いとうしおり 発行=文芸春秋社 2017年 Kindle版 ¥1400 ISBN9784163907826
著者=1989年生まれ フリーランス ジャーナリスト。
内容=ノンフィクション 就職の相談をしていた信頼する人物から思いもよらぬ被害を受ける。飲物に薬物を混入され、体は動かせるが意識を失う状態に陥った上での強姦だった。この事実を司法の手に渡そうと努力する前に立ちはだかる壁は厚く、あらゆるところにブラックボックスがあった。
感想=
心を鎮めて冷静に記そう、と精一杯の努力をしている跡が見える。よく、ここまで客観的に、とくに自分をかばおうとせずに、ありのままを書き通せたと思う。
彼女がジャーナリストであり、観察眼と表現力を持っていたことが力となって本書ができたが、根本に強い正義感と強靭な精神があるからにちがいない。
泣き寝入りをし、あるいは自殺にまで追い詰められる被害者たち、同情どころか卑猥な目で見られる被害者たちが、今まで世界中に数知れずいたのだ。
詩織さんの心と視線は、こうした被害者たちの気持ちを背負い、未来へ向けられている、と強く感じた。
レイプ被害にあった時、町の婦人科へ行ってはいけない。なぜか。その訳を丁寧に説明してくれる詩織さんは愛に満ちている。弱き者たちを守ろうとしている。初耳の新知識がたくさん記されている。誰もが覚えておくと良いことがらだ。

レディ・ガガは19歳の時にレイプ被害に遭い、7年間、誰にも話せなかったというエピソードが書かれている。知らなかった。ガガさんが、そののち歌った歌のことも記されている。
折しもハリウッドで有名プロデユーサーのセクハラが表沙汰になっている。Me Too という運動も盛んになっている。これらは今まで黙って耐えてきた女たちの勇気ある発言によるものだ。
詩織さんは、個人の問題だけではない、世界を視野に入れてBlack Box の蓋を開けようとしている。
歪んだ見方を排除し、卑劣な犯人の名前を記憶することをもってBlack Box をEmpty Box にしましょう。
この本を買い、レビューを書く理由は、内容を知り、理解することと同時に著者、編集者、出版社、そしてここまで来る間に詩織さんをかばい、理解し、サポートしてきた方々への応援の気持ちからです。勇気を持って立ち上がった著者を応援したい。この勇気はなかなか出るものではないからだ。現に家族からも思いとどまるように説得されたという。
昨日のこと、フランスの女優、ブリジット・バルドーが、この件に関してコメントを発表していた。BBは1950年代の大人気映画女優。セクシー美人だったが引退後は動物愛護に尽力してきた人。BBの意見は、業界では私欲のために業界の男性と性交渉を持つ女性を数多見てきた、という内容だった。
実際、「女性」を武器に世を渡ろうとしている人がいるし、恋愛との境界線は限りなく曖昧なのだろうと思う。
昔、有吉佐和子という作家が書いていたのを鮮やかに思い出せるのだが、彼女の持論は、女は絶対強姦されない、というものだった。嫌だと言ったら最後まで拒否するし、拒否してみせると彼女は主張した。彼女が未婚時代に描いたものだったと思う、そして読んだ私は完全に同意したのだった。なんでおめおめと、と思った。反撃したら良いじゃないかとも思った。有吉さんは私より年上の才女と呼ばれる人気作家だったから、同感しつつ心強く感じたものだ。
しかし、80年以上生きてきた今、私は全面撤回する。反撃すりゃあ、良いじゃないか。嫌なら嫌と断れば良いじゃないか。そんな問題ではないことは、今は中学生だって熟知しているはずだ。沖縄の少女が強姦されて殺された事件は、ついこのあいだのことだ。横田めぐみさんの問題も、関係ないと言えるか。拉致されて北朝鮮の男と結婚させられたとは! この苦悩は政治屋以外のすべての国民が共有している。こういう事柄をブラックボックスに入れられてたまるか。
本書のタイトルにあるブラックボックスとは、いったい誰がこしらえたボックスだろう? 私が危惧し、警戒することは、このブラックボックスがいつの間にかタイムボックスに入れこまれることだ。ほら、あるでしょう、箱の中にすっぽり収まる大きさの箱があり、またその中に箱がある。
開かずの箱に入れて、さらに時の箱に閉じ込めてしまったら。これを阻止するのは、一人ひとりのハートにかかっています、力を合わせましょう。

浮世の画家

『浮世の画家』An Artist of Floating World 著者=カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro  訳=飛田茂雄 発行=中央公論社 1988年 286頁 古書
著者=前出
訳者=東京出身(1927~2002) 早稲田大学大学院 英米文学翻訳家 中央大学名誉教授
内容=1986年、32歳の時の作品。1987年ウイットブレッド賞受賞作。1948年から1950年間の、日本国内の架空の場所における長編小説。
有名な老画家が、戦後の変動の中、家族、弟子たちのはざまで揺れる心情を描く。自己の自信を支えてくれてきたはずの、もてはやし、敬服してくれた弟子たちが向ける背、疑念なく長として居座っていたはずの家庭、それを支えてくれる礎ともいうべき女たちの、意識せぬ彼への無頓着さや無視する言動が彼を苦しめ、足元を揺るがせる。彼は、7、8歳の孫の一郎を味方に引き寄せようとする、しかもその方法は、男だから共に酒を飲もうというものであったが、これにも娘から手痛い反撃を受けて敗退する。
荒れ果てた往時の純日本風の屋敷、あるいは空襲で荒廃した街、これらが舞台として描かれて、戦争による崩壊が形の上でも、精神の内側でも起こりつつある様相に重ねられている。
感想=この構想をまとめたのが32歳とは恐れ入りました。これは英文で読まないと本当のところはわからない。訳者の親切心が衣を着せていはしないかと憶測したくらいだ。
日本について取材もしただろうし、何よりも家族からの生の情報がふんだんに入る環境であるから、日本人が書いた作品と感じるのが自然だろうが、違う。外国の人は感じないかもしれない、ちょっとした違いが、決定的に日本人ではないと感じさせる。
作品の出来ばえとは関係のない部分であるから、日本人とは違う、と感じた点を幾つか挙げてみよう。
並木、若木、と書く。樹木の名がない、花の季節か若葉の季節かの記述がない。屋敷に日本庭園があり深い池がある。しかし造園された庭池は浅いものであり深い池は存在しない。客間に仏壇があるという。部屋数が相当多い屋敷であるから客間に仏壇は置かない。仏間があるはずだ。少年の一郎が大声で言う「ポパイ・ザ・セーラーマン!」。ご機嫌な男の子の姿である。これはテレビで放映していたポパイの漫画の冒頭のメロディだが、あちらの
TV番組だ。
際立つことは会話で、相手の気持ちを尊重し、傷つけぬ配慮のもと、理路整然と自論を進めて行く手順、礼儀正しく穏やかで、品の良い語り口、誤解しようもない正確な表現で、自分の思うところを相手に渡す話し方は、日本、特に家庭では滅多にない。ところが本作では、これがないと成り立たないのである。
例えば小津安二郎の映画を見ると典型的なシーンがいくつもあるが、「だって」と言ったきり俯向く娘。あるいは「そうか……」と言ったなり、遠くにまなざしを投げてじっと黙っている父親、こんなものの連続である。この間隙を埋める憶測が日常生活であり、作品なら読み手であり観客である。最近「忖度」がもてはやされているが、思いやりや憶測や、気をきかせるやら、目顔でものを言ったりが、好きじゃないが、いや大っ嫌いだが、日本のやり口である。
私はイシグロ作品を読んでいて、この点、とてもわかりやすいし気分が良い。続けて読んでみよう。

わたしたちが孤児だったころ

『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphans 著者=Kazuo Ishiguro カズオ イシグロ 発行=早川書房 上製本 537頁 ¥1050
著者=1954年長崎生れ 5歳の時日本人の両親、姉とイギリスへ、以後英国国籍として現在に至る。ケント大学で英文学、イースト・アングリア大学院で創作を学ぶ。本書は2000年、著者が46歳の時に書いた作。
内容=1930年代の上海を舞台に、英国人の少年と日本人の少年の交流から始まる長期間の物語。両親が行方不明になり、孤児という自覚の元で成人する主人公、クリストファー・バンクスの幾重にも歪み、変転する様相が主流となる。
感想=イギリスに、日本人の名前を持つ作家がいることは以前から知っていたが、読んだことはなかった。今回、ノーベル文学賞受賞をきっかけに図書館で借りた。日本では村上春樹が候補書の一人として季節の話題になっていた故に、今は英国国籍を持っているそうだが、日本人で日本生まれの作家であるということに関心があった。書評も読んだことがなく、まっさらの状態で読んだことは幸いだった。
上海の恵まれた美しい場所、外国人が住む地域に駐留生活をしている家の少年たち、一人は英国人、一人は日本人、この二人の少年の遊び方や言動が実に繊細に、深く描かれている。これは思い出を語る形で描かれているのだが、私にとっては作品の全体像を把握しつつ読み進むよりも先に、冒頭の、この一点に気持ちを奪われた。日本人の少年が大喜びで故郷の長崎へ帰ったが、たちまち上海に戻ってくる、誇らしく、大好きだった日本の印象が崩された心情。
今、世に言われる帰国子女が、異質な生活習慣を身につけているが故に受ける軋轢が、一片も描かれずにいながら底流に流れる様は見事だ。海外で2人の男の子を育てていた頃の体験がよみがえる。しかし、これを痛みを持って読み取る読者がどれほどいるだろう。というわけで私は思いがけず、この一カ所に注意を傾けてしまったのだが、それはさておき全体像は、実に緻密な計画と計算がなされた上に構築されたものだ。読者の意表をつく仕掛のしつらえは見事だし、楽しめる。何気ない情景描写、登場人物の事情の説明などを読み飛ばすと、終章に至り受ける衝撃と感動はフイになる。
このあたりの技術は多分、創作を学ぶ大学院から受けた賜物ではないか。大きな特徴は、登場人物の全員が、主人公を含めて絶対的イイモンではなく、悪モンとも言い難い、つまりカタルシス不在の人間模様であることだ。これは、この一作品のために設定されたものではなく、作者の人生観、価値観そのものではないか、沈着、上品、知的で複雑な人間性を感じる。
創作のための教室や学校は技術の習得であり、独学者とは比較にならない腕前を身につけることができる、しかし作家が何を書くかは何人も授けてはくれないし、作家の人間性は、世界で唯一の、その者の持物である。しかもまるで玉ねぎのように幾重にも多様な衣をまといつつ表現するために、作家の本性は容易なことでは見抜けるものではない、と私は思っている。どこまで看破してみせるかが、対する読者の力量ということになるだろう。
読み手の力は何より大切だ、読み手の力量が作家の作品をさらに高めてゆく。日本で言えば落語がこれに相当するのではないか。切磋琢磨が演じられるのは客との接点にある。小説に関して言えば、日本語の小説を読み手は育てていない、むしろ低いところに貶めている。源氏物語が生まれた頃は、受け手が育てていたのだ。しかも受け手は読み手ではなく聴き手であったはずなのだ。落語の客と似ていたのではないかしら。話が逸れましたが、
彼はイギリスで読者を獲得し、英文で、その身を鍛えあげてきた。英国の読者とは何者だろう?
もう一つ、ノーベル賞受賞の女性作家を読み進めている最中だが、その中にパールバックがいる。代表作『大地』は、本作品と重なる時代の人物を描いている。まるで机の上に本書と『大地』の2冊を開いているかのような気分だった。

樹木たちの知られざる生活

樹木たちの知られざる生活』副題=森林監理者が聴いた森の声 著者=Wohlleben,Peter ヴォールレーベン ペーター 訳=長谷川 圭 発行=早川書房2017年 B6版 263頁 ISBN9784152096876 ¥1600
著者=1964年、ドイツのボン生まれ。大学で林業専攻。ラインラント=プファルツ州営林署で20年勤務後、フリ−ランスで森林管理。
訳者=ドイツ文学翻訳家。
内容=ドイツで長年、森林管理をしてきた著者が、豊かな経験から得た知識を基礎に、深い洞察を持って森、樹木を語る。本書は世界的ベストセラーとなり34国で訳され、邦訳が出た。
感想=新緑のハイキング、紅葉狩りを楽しむ日本人は、四季折々の自然を愛でることが大好きだ。これは春夏秋冬のメリハリがはっきりとしている国だということもあるのだろう。
だからこの本はワクワクして読み切るだろう。庭がなくとも植木鉢を置いて育てたがる私たち、少しならわかっている植木のこと。そういう私たちが読むと、やっぱりそうなんだ、と思い当たる樹木たちの生活が、森林監理者という、実際に年中、森の中にいる人によって語られている。
例えば、助け合う木。危険を知らせる木。こういう「行い」は木とも思えないが、木々はやっているのだ。
地上と地下の、両方にまたがって生きるという、動物とは違う生き方も、手にとるように理解できた。だいたい、地上と地下の両方にまたがって生活しているんだ、などと考えたこともなかったのだ。
著者が言う、「樹木同士の友情というような表現は、例えのようなものであって、現実の樹木たちは、ひたすらたくましく生き抜こうとしているんだな」。
ただ、著者はドイツ人で、ドイツの森林と共に生きる人なのだ。このことを踏まえて読む必要があると思う。というのは、気候風土がドイツと日本では全く違うからだ。
著者は、ドイツの森がどのような姿をしているかを、非常に丁寧に説明してくれている。著者は、この説明が必要不可欠なものだということを熟知している。この部分は読まねばならぬ、日本の森、あるいは里山とは別世界だということを知る必要があるからだ。
以前、グリム童話の勉強をした時に、ドイツ文学の教授がドイツの森について時間をかけて解説してくれたことを思い出した。日本人が森に対して持っている常識、認識とは全く違うんですよ、赤ずきんちゃんは、ドイツの森を歩いていたんです。
同時に音楽学の教授が、ベートーベンは失恋をするたびに交響曲を云々、という話のついでに、楽想を練るときに彼は森に一人で踏み入り、猛烈な速さで「散歩」をしたということを話してくれたことも思い出した。
今、この本を読んだことで、ドイツの森は赤ずきんちゃんでも歩ける森で、ベートーベンがつまづくことなく、足元も見ないで相当な速さで突進的に歩くことができたことも、はじめて納得がいったのだった。
ドイツ人も日本人も、共に人間であるという共通項がある、これを樹木たちも持っていて、共通部分に関しての樹木の気持ちと行動は実に面白く、新鮮で発見が多い。
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