February 2011
孤独なボウリング
20-02-11-15:17-
『孤独なボウリング 米国コミュニティの崩壊と再生』(BOWLING ALONE)著者 ロバート・D・パットナム(ROBERT D.PUTNAM)発行 柏書房 2006年 ISBN4-7601-2903-0 C0036 ¥6800E 148X210 P692
著者は、1941年NY生まれ。現在ハーバード大学教授。比較政治学ほか広範な領域で多数の著書、論文を発表。邦訳書に『サミット』『哲学する民主主義』がある。
内容は、いままでのアメリカを支えてきた市民的つながりが減少している。これは、いつ、どこで、なぜ起こったのかを検証。後半の約200頁は、資料・図表・参照文献の出典、索引に当てられている。アメリカの近過去から現在にいたる市民生活者の意識と行動を、膨大な資料をもとに洗い出してみせる。
この本を読みたいと思った理由は、日本の各地域の自治会への疑問があったからだ。現象を拾い上げてみると、これは日本各地で起きている現象ではないか、と感じられるものがたくさんある。家族揃って食事をする回数の減少、結婚しない一人暮らしの増加。見るスポーツに人気があり、身体を動かすのはジムで、ひとりで行う。かろうじてボウリングが残っていると、著者は語る。それも、リーグボウリングをするのは減っている。ここでもひとりなのだ。ひとりで、自分のために時間を使う。インターネット、ペットと過ごすなど、我がことのようではないか。
しかし、日本と比べると、ひとつ違いがあった。それは、アメリカの市民生活の行動が自然発生的であること、これに比べて日本の場合は、もちろん自然発生的な部分はあるのだけれど、それ以前に「上」から指令されて作った組織が基礎になっていること、ここが違うと思った。江戸時代まで遡らなくても、戦争中は政府から「隣組」を作るように指令され、歌まで作って参加した。
(♪とんとん、とんからりと隣組 格子を開ければ顔馴染み ♪ 回してちょうだい回覧板 助けられたり助けたり♪)
これに参加しなかったら、配給を受けるにも、情報を受けるにも、何もできなかった。それだけではなく束縛も強かった。互いを監視して、無言、有言の束縛を互いに課した。その後、分譲地に住宅がひしめくようになったが、ここでも自治会が結成されて、公報の類いも自治会を通じて配られるし、国勢調査の際の末端組織となって働きもする、国の便利屋さんみたいな部分を持ち現在に至っている。この自治会がいま、変わってきている。個人情報に関して神経を使うようになったからだろうか、回覧板に自治会員の死亡通知を載せなくなった。回覧板を回す回数が激減した。報せる内容がないのである。集合住宅も増えた。入居する人たちは自治会など関係ない。したがって自治会員は減って行く。家の修理や改築の際、隣近所に「ご迷惑をかけます、これこれ、しかじか」とゴミ捨ての朝に挨拶する、そんな光景はいつのまにか見かけなくなった。タオル1本持った業者が挨拶にまわるのである。
ここで終わるはずの感想は、昨夏、新潟県湯沢町に住んだために、まったく別の視野が開けたので付け加えたい。夢類20号で湯沢便りを書くつもりだけれど、魚沼地区をはじめ、山間部の各地域では、自治会にあたる組織がなかったら暮らせないのだと実感した。農作業や祭りもあろう。しかし、なによりも豪雪地帯で生きて行くためには、気を合わせ、力を合わせ、日取りを合わせ、時刻を合わせ、雪に備え、雪のウチに籠る、お互いの前世までも知り尽くしているような間柄となって、共に生き抜いて行くのである。ここでは、私がほざくような理屈は無用なのだ。大自然と直結している生活には、アメリカの近過去、日本の近過去、これらを超えた原初の「ひとのつながり」がある。いま、この姿を見つめることが、近未来へつながるのではないか、と思った。
著者は、1941年NY生まれ。現在ハーバード大学教授。比較政治学ほか広範な領域で多数の著書、論文を発表。邦訳書に『サミット』『哲学する民主主義』がある。
内容は、いままでのアメリカを支えてきた市民的つながりが減少している。これは、いつ、どこで、なぜ起こったのかを検証。後半の約200頁は、資料・図表・参照文献の出典、索引に当てられている。アメリカの近過去から現在にいたる市民生活者の意識と行動を、膨大な資料をもとに洗い出してみせる。
この本を読みたいと思った理由は、日本の各地域の自治会への疑問があったからだ。現象を拾い上げてみると、これは日本各地で起きている現象ではないか、と感じられるものがたくさんある。家族揃って食事をする回数の減少、結婚しない一人暮らしの増加。見るスポーツに人気があり、身体を動かすのはジムで、ひとりで行う。かろうじてボウリングが残っていると、著者は語る。それも、リーグボウリングをするのは減っている。ここでもひとりなのだ。ひとりで、自分のために時間を使う。インターネット、ペットと過ごすなど、我がことのようではないか。
しかし、日本と比べると、ひとつ違いがあった。それは、アメリカの市民生活の行動が自然発生的であること、これに比べて日本の場合は、もちろん自然発生的な部分はあるのだけれど、それ以前に「上」から指令されて作った組織が基礎になっていること、ここが違うと思った。江戸時代まで遡らなくても、戦争中は政府から「隣組」を作るように指令され、歌まで作って参加した。
(♪とんとん、とんからりと隣組 格子を開ければ顔馴染み ♪ 回してちょうだい回覧板 助けられたり助けたり♪)
これに参加しなかったら、配給を受けるにも、情報を受けるにも、何もできなかった。それだけではなく束縛も強かった。互いを監視して、無言、有言の束縛を互いに課した。その後、分譲地に住宅がひしめくようになったが、ここでも自治会が結成されて、公報の類いも自治会を通じて配られるし、国勢調査の際の末端組織となって働きもする、国の便利屋さんみたいな部分を持ち現在に至っている。この自治会がいま、変わってきている。個人情報に関して神経を使うようになったからだろうか、回覧板に自治会員の死亡通知を載せなくなった。回覧板を回す回数が激減した。報せる内容がないのである。集合住宅も増えた。入居する人たちは自治会など関係ない。したがって自治会員は減って行く。家の修理や改築の際、隣近所に「ご迷惑をかけます、これこれ、しかじか」とゴミ捨ての朝に挨拶する、そんな光景はいつのまにか見かけなくなった。タオル1本持った業者が挨拶にまわるのである。
ここで終わるはずの感想は、昨夏、新潟県湯沢町に住んだために、まったく別の視野が開けたので付け加えたい。夢類20号で湯沢便りを書くつもりだけれど、魚沼地区をはじめ、山間部の各地域では、自治会にあたる組織がなかったら暮らせないのだと実感した。農作業や祭りもあろう。しかし、なによりも豪雪地帯で生きて行くためには、気を合わせ、力を合わせ、日取りを合わせ、時刻を合わせ、雪に備え、雪のウチに籠る、お互いの前世までも知り尽くしているような間柄となって、共に生き抜いて行くのである。ここでは、私がほざくような理屈は無用なのだ。大自然と直結している生活には、アメリカの近過去、日本の近過去、これらを超えた原初の「ひとのつながり」がある。いま、この姿を見つめることが、近未来へつながるのではないか、と思った。
戦後思潮
10-02-11-22:04-
『戦後思潮 知識人たちの肖像』著者 粕谷一希(かすや かずき) 発行 藤原書店 2008年 ISBN 978-4-89434-653-6 C0030 ¥3200E 148x198 P400
著者は1930年東京生まれ。「中央公論」編集長をはじめ、編集、出版事業に関わる。現在は評論家。著書『中央公論社と私』『河合栄治郎ー闘う自由主義者とその系譜』『作家が死ぬと時代が変わる』など多数。
本書は30年前に書かれたものの復刊。見開き2頁で1回分の連載だった戦後思想史を12章にまとめたもの。復刊の言を、御厨貴が書いている。「ここに出てくるような知識人の書物を新古典と言っています。いわゆる古典ではないが、すぐに消え行く新刊書でもない。平成生まれの若者に対しては、この新古典の読み方を考えていかなくてはいけない」
私は意外に感じた。戦後を生きて今に至る者たち、ここに出てくる知識人と並走して現在に至る読書人たちのために書かれたか、と読んだのだった。近過去をまとめてみれば、このようであるか、という思想の流れが見える。高村光太郎、川端康成、小林秀雄、近衛文麿、石原莞爾、吉田茂、三木清、南原繁、太宰治……。索引があるが、天空の星のように並んでいる。
この精力的な編集者の目には凄さがあり鋭くもあり、そして言うに言われぬ含みを持つ。
嬉しかったのは、小泉信三の著書のうち『海軍大尉小泉信吉』をとりあげて名著とし、その節度ある姿勢の影に秘めた息子への愛情に、打たれぬ読者はいない、と書いていることだ。父性は、ここにあった。その後、父性はながいあいだ喪失した。
本書は読書人にお勧めの1冊であるが、若い人たちに開いてもらいたい本がたくさん織り込まれている。しかし、粕谷さんは個性が強いので、見方が個性的に過ぎるきらいがあり、多読をしてきた読者には、その点が面白いのだが、無垢の若者には、もっと無色の紹介文のほうが望ましいと思う。
もうひとつ、まあ、なんと男性ばかりが並んでいることか、と気がつきました。サブタイトルの中に、中野重治の下に宮本百合子の名を見つけただけ。無理に拾い上げて数合わせをしてもらっても、それは無意味なことであり、実際に少ないのだから、これが現実、これがありのままの姿なのである。もともと日本人は、男女の上下を作らないできたはず、縄文の昔は、そのようであったにちがいない、というのが私の見方なので、素直に、自然に、このような姿なんだと思っている。よい作品があれば、女が書こうが男が書こうが大切に扱うことは『源氏物語』をみればわかることだ。
著者は1930年東京生まれ。「中央公論」編集長をはじめ、編集、出版事業に関わる。現在は評論家。著書『中央公論社と私』『河合栄治郎ー闘う自由主義者とその系譜』『作家が死ぬと時代が変わる』など多数。
本書は30年前に書かれたものの復刊。見開き2頁で1回分の連載だった戦後思想史を12章にまとめたもの。復刊の言を、御厨貴が書いている。「ここに出てくるような知識人の書物を新古典と言っています。いわゆる古典ではないが、すぐに消え行く新刊書でもない。平成生まれの若者に対しては、この新古典の読み方を考えていかなくてはいけない」
私は意外に感じた。戦後を生きて今に至る者たち、ここに出てくる知識人と並走して現在に至る読書人たちのために書かれたか、と読んだのだった。近過去をまとめてみれば、このようであるか、という思想の流れが見える。高村光太郎、川端康成、小林秀雄、近衛文麿、石原莞爾、吉田茂、三木清、南原繁、太宰治……。索引があるが、天空の星のように並んでいる。
この精力的な編集者の目には凄さがあり鋭くもあり、そして言うに言われぬ含みを持つ。
嬉しかったのは、小泉信三の著書のうち『海軍大尉小泉信吉』をとりあげて名著とし、その節度ある姿勢の影に秘めた息子への愛情に、打たれぬ読者はいない、と書いていることだ。父性は、ここにあった。その後、父性はながいあいだ喪失した。
本書は読書人にお勧めの1冊であるが、若い人たちに開いてもらいたい本がたくさん織り込まれている。しかし、粕谷さんは個性が強いので、見方が個性的に過ぎるきらいがあり、多読をしてきた読者には、その点が面白いのだが、無垢の若者には、もっと無色の紹介文のほうが望ましいと思う。
もうひとつ、まあ、なんと男性ばかりが並んでいることか、と気がつきました。サブタイトルの中に、中野重治の下に宮本百合子の名を見つけただけ。無理に拾い上げて数合わせをしてもらっても、それは無意味なことであり、実際に少ないのだから、これが現実、これがありのままの姿なのである。もともと日本人は、男女の上下を作らないできたはず、縄文の昔は、そのようであったにちがいない、というのが私の見方なので、素直に、自然に、このような姿なんだと思っている。よい作品があれば、女が書こうが男が書こうが大切に扱うことは『源氏物語』をみればわかることだ。
多様化世界
07-02-11-23:18-
『多様化世界 生命と技術と政治』(INFINITE IN ALL DIRECTIONS )著者 フリーマン・ダイソン(FREEMAN J DYSON)発行 みすず書房 ISBN4-622-04976-7 C1040 ¥3600E 鎮目恭夫 訳
著者は、1923年イギリス生まれ。理論物理学者。宇宙物理学者。プリンストン高等学術研究所名誉教授。朝永、シュウィンガー、ファインマンの量子電磁力学の等価の証明で知られる。純粋物理学研究のほか、地球外知的文明、原子炉設計、核軍縮問題などの研究も続けている。一方、哲学、宗教、芸術などへの深い造詣に裏打ちされた思考は,叡智に満ちている。
ダイソンの著作を読むのは3冊目。あとの2冊は『宇宙をかき乱すべきか』『ガイアの素顔 科学・人類・宇宙をめぐる29章』。
どれも、何度も読み返したい名著、魅惑の書物である。この、知の巨人のどこを、どのくらい理解したのか、私は。それはたぶん、オオハクチョウが飛び立った湖の岸辺に寄り、純白の羽を1本拾い上げて思いを馳せる、ハクチョウの消えた空の青さ。その程度のものにちがいない。
しかし、読み始めたら止まらない。ワクワクする、ドキドキする。溜息が出る。ふと本を閉じて、自分の世界に入り込む。自分だけの自分の世界とみたものは宇宙であったり、神々の世界であったりするとき、ダイソンの著作のなかにいる自分を発見する。
本書では、英国の大物理学者スティーブン・ホーキングについて語っている部分が印象に残った。
「彼は、一種の筋萎縮症にかかっており、車椅子でなければ動けないし、しゃべることができない。彼に初めて会った人は、そういう哀れな状況にある人間を見て衝撃を受けるだろう。しかし、彼と話し始めて数分もすれば、たちまち彼の精神力の強さを知り、同情心はふっとんでしまう。彼の病気のことなど忘れてしまい、魅力に取り付かれてしまうだろう」。
本書は、限りなく詩に近い。
著者は、1923年イギリス生まれ。理論物理学者。宇宙物理学者。プリンストン高等学術研究所名誉教授。朝永、シュウィンガー、ファインマンの量子電磁力学の等価の証明で知られる。純粋物理学研究のほか、地球外知的文明、原子炉設計、核軍縮問題などの研究も続けている。一方、哲学、宗教、芸術などへの深い造詣に裏打ちされた思考は,叡智に満ちている。
ダイソンの著作を読むのは3冊目。あとの2冊は『宇宙をかき乱すべきか』『ガイアの素顔 科学・人類・宇宙をめぐる29章』。
どれも、何度も読み返したい名著、魅惑の書物である。この、知の巨人のどこを、どのくらい理解したのか、私は。それはたぶん、オオハクチョウが飛び立った湖の岸辺に寄り、純白の羽を1本拾い上げて思いを馳せる、ハクチョウの消えた空の青さ。その程度のものにちがいない。
しかし、読み始めたら止まらない。ワクワクする、ドキドキする。溜息が出る。ふと本を閉じて、自分の世界に入り込む。自分だけの自分の世界とみたものは宇宙であったり、神々の世界であったりするとき、ダイソンの著作のなかにいる自分を発見する。
本書では、英国の大物理学者スティーブン・ホーキングについて語っている部分が印象に残った。
「彼は、一種の筋萎縮症にかかっており、車椅子でなければ動けないし、しゃべることができない。彼に初めて会った人は、そういう哀れな状況にある人間を見て衝撃を受けるだろう。しかし、彼と話し始めて数分もすれば、たちまち彼の精神力の強さを知り、同情心はふっとんでしまう。彼の病気のことなど忘れてしまい、魅力に取り付かれてしまうだろう」。
本書は、限りなく詩に近い。
電磁波の何が問題か
02-02-11-22:36-
『電磁波の何が問題か』副題 どうする基地局・携帯電話・変電所・過敏症 著者 大久保貞利(おおくぼ さだとし)発行 緑風出版 2010 年ISBN978-4-8461-1015-4C0054 ¥2000E 128x187 P221
著者は1949年生まれ。電磁波問題市民研究会事務局長。カネミ油症被害者支援センター共同代表。
私は、この本を図書館で借りたので、図書館のホームページ内の本書の抄録を、ここに、そのまま転記する。
「電磁波問題を最新のデータに基づき、詳しく且つ具体的に紹介。特に基地局問題を徹底的に明らかにする。また電磁波問題における市民運動のノウハウ、必勝法も解説」
私はアマチュア無線をしていて、クラブのコールサインを持っている。いまはお休みをしているけれど、無線をする人たちの間では、電磁波が健康に及ぼす影響の有無、多寡といった問題が話題になる。だからずっと関心を持っていたので、本のタイトルと発行年の新しさを見て予約して借りた。この問題を風説に流されて判断したくなかった。専門家の意見を参考にしたいと思うのである。先に紹介した「よい煙わるい煙を科学する」は、信頼して読み進み、しかも私にも理解できる明確、簡潔、平易な説明で、内容は高度であった。
ところで、本書の目次と、本文の各所を散見した私は、即座に返却と決めた。きっと、信頼するに足る内容も含まれているのだろう、しかし。時間をかけて読んだ末に風説まみれになるのはごめんだ、と判断した。見出しのいくつかを拾ってみた。「あなたの近くに基地局が建つ、さあどうする?」「景観問題 いきなりニョキッと基地局が建って気持ちがいいはずがない」「10年以上携帯電話を使うと脳腫瘍リスク増大」「リスクを小さくみせるカラクリ」
本文内には、ドイツの医師100人が、云々。欧州では 3人のうち2人が云々。住民たちの不安は云々。
図書館が、いかに貸本屋的存在に成り下がっているとしても、このようなモノを書架に並べてはいけないと、私は思います。いけない理由は、出所不明の情緒的情報の記述がある、という一点である。この一点が、一カ所あるだけで充分アウトだ。腹を立てるのは身体に悪いと我慢するけれど、最近、腹が立って致し方ない。この本だけではない、政治家が言う、「国民、みんなが思っている!」
冗談じゃない、国民をダシにしてくれるな、と言いたい。国民が、という枕詞を置けば、大いばりだと思っているらしい。
政治家が妄言を弄するから、こうやって「主婦が」「住民が」と枕詞をつける輩がでるのだ。昔はキツネがトラの威を借るものだったが、昨今は国民や住民の威を借るのである。いい加減にしてくれ。幼稚園児が、ママに訴える、「だって、みんなが持ってるんだもん」
著者は1949年生まれ。電磁波問題市民研究会事務局長。カネミ油症被害者支援センター共同代表。
私は、この本を図書館で借りたので、図書館のホームページ内の本書の抄録を、ここに、そのまま転記する。
「電磁波問題を最新のデータに基づき、詳しく且つ具体的に紹介。特に基地局問題を徹底的に明らかにする。また電磁波問題における市民運動のノウハウ、必勝法も解説」
私はアマチュア無線をしていて、クラブのコールサインを持っている。いまはお休みをしているけれど、無線をする人たちの間では、電磁波が健康に及ぼす影響の有無、多寡といった問題が話題になる。だからずっと関心を持っていたので、本のタイトルと発行年の新しさを見て予約して借りた。この問題を風説に流されて判断したくなかった。専門家の意見を参考にしたいと思うのである。先に紹介した「よい煙わるい煙を科学する」は、信頼して読み進み、しかも私にも理解できる明確、簡潔、平易な説明で、内容は高度であった。
ところで、本書の目次と、本文の各所を散見した私は、即座に返却と決めた。きっと、信頼するに足る内容も含まれているのだろう、しかし。時間をかけて読んだ末に風説まみれになるのはごめんだ、と判断した。見出しのいくつかを拾ってみた。「あなたの近くに基地局が建つ、さあどうする?」「景観問題 いきなりニョキッと基地局が建って気持ちがいいはずがない」「10年以上携帯電話を使うと脳腫瘍リスク増大」「リスクを小さくみせるカラクリ」
本文内には、ドイツの医師100人が、云々。欧州では 3人のうち2人が云々。住民たちの不安は云々。
図書館が、いかに貸本屋的存在に成り下がっているとしても、このようなモノを書架に並べてはいけないと、私は思います。いけない理由は、出所不明の情緒的情報の記述がある、という一点である。この一点が、一カ所あるだけで充分アウトだ。腹を立てるのは身体に悪いと我慢するけれど、最近、腹が立って致し方ない。この本だけではない、政治家が言う、「国民、みんなが思っている!」
冗談じゃない、国民をダシにしてくれるな、と言いたい。国民が、という枕詞を置けば、大いばりだと思っているらしい。
政治家が妄言を弄するから、こうやって「主婦が」「住民が」と枕詞をつける輩がでるのだ。昔はキツネがトラの威を借るものだったが、昨今は国民や住民の威を借るのである。いい加減にしてくれ。幼稚園児が、ママに訴える、「だって、みんなが持ってるんだもん」