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May 2011

レ・ミゼラブル

レ・ミゼラブル』(LES MISERABLES )三巻 ヴィクトル・ユゴー(VICTOR HUGO)著 豊嶋與志雄 訳 新潮社 1927年 非売品
 著者=1802年フランス東部生まれ ロマン派の詩人・小説家
 中学一年生のときに読んで以来、書棚から動かなかった本である。可憐なコゼット。執拗な追っ手、警察のジャヴェル。可哀想なジャン・ヴァル・ジャン。そして恐ろしい地下水道。
 中学生のときの読みかたは、主要人物の行く末を追うことにのみ熱心であり、ユゴーの主張の部分にくると、飛ばして先を急いだのを覚えている。のちに、映画「第三の男」のパリの地下道の場面が、本書の地下水道からイメージされたものだと聞いたが、再読することはなかった。今回、六十年ぶりに開き、時間をかけてつぶさに読んだ。
 合わせてユゴーの『私の見聞録』も読んだので、この長編小説にちりばめられている数々のエピソードの幾つかは、ユゴーが出会った出来事であったり、実際経験した事柄であったことを知った。左、参考。

『私の見聞録』歴史の証言として  稲垣直樹訳 潮出版社 1991年 発行 ISBN 4-267-01269-5 C0095  P1600E
 ジャン・ヴァル・ジャンは、自分のためではなく、姉の子どもたちのために一片のパンに手を伸ばしたのだった。その後の逃亡のために、一生、警察に追われるのだが、作家が新しい人物を作りだし、彼の人生を歩ませるとき、ここまで苦難の道を用意するだろうか、と私は畏怖の念を持った。私には、ユゴーのようなこらえ性はない、と思った。道半ばで、幸せになって貰いたくなるだろう、と思った。
 この感想は、クリスチャンではない、日本人の私の感想である。 しかし、ユゴーのみならず、キリスト教世界の作家たち、音楽家、画家、すべての芸術家の作品は、作品の上位に神が位置する。神の下に人も、作品もあるのだ。このことを悟らないと、中学生時代の私程度にしか、作品を理解できないことになる。いまどきの映画でも同じだ。GODという言葉、意識の含まれていない作品はないのではないか。
 ユゴーは、神さまから授かった人物を、神さまに見守られながら文字にしていったように思う。このことが、今回はじめて理解できた。
 キリスト教を土台に据えてみると、ジャン・ヴァル・ジャンは殉教の人、十九世紀のキリストに見えてくる。森羅万象の罪の浄化を担っている。浄化に向かう苦難の道ゆえにこそ、中途半端な苦難ではないのである。
 追っ手、ジャヴェルの精神は、日本を含めて、今も昔も、あまねくゆきわたる検察の精神である。法律に忠実に、そして上司の意に添うことを唯一の大目的として結果を求める。
 彼にとっての犯人は、生身の人間(家族もいる、生い立ちの歴史を持つ)ではなく、目的物に過ぎない。自分自身の頭で考えたり、心で受け止めたりすることを知らない恐怖のロボットがジャヴェルである。 青年から壮年へ、そして老年へと移りゆく長い物語の道中を、両者は悲惨、凄絶な逃亡と追跡を繰り返す。そして遂に対決の時がやってくる。ユゴーは、ジャヴェルの最期のときに、彼に血の通う、人の心を返した。
 かつて飛ばし読みをした部分は、若年時には耐え難いものだったが、実は読み応えのある重厚な思想が詰まっている部分であり、この部分こそユゴーという大山脈のなかの鉱脈であった。
 たとえば、教育について
 無学の人々にはあたう限り多くのことを教えねばいけない。無料の教育を与えないのは社会の罪である。社会は自ら創りだした闇の責を負うべきである。心の内に影多ければ、罪はそこに行わるる。罪人は罪を犯した者ではなく、影を作った者である。
 死刑について。
 死は、神の手にのみ在るものである。如何なる権利を持って人はこの測り知るべからざるものに手を触れるのか?
 偏見について
 盗賊や殺人者をも怖れてはいけない。それらは外部の危険で小さなものである。 我々は、我々自身を怖れなければならない。偏見は盗賊である。悪徳は殺人者である。大きな危険は、我々の内部にある。我々の頭や財布を脅かすものは何でもない。我々の心霊を脅かすもののことだけを考えればよいのだ。

 報道のためのツールが、ペン一本であった時代に生きた作家ユゴーの手にかかったワーテルローの戦場場面には迫真の現実感があり、どの軍が何色の軍服を着ているかもはっきりと見え、喚声の声、どよめきも聞こえてくる凄まじさである。
『私の見聞録』に、バルザックの部屋を訪う場面があるが、まるでカメラで舐め尽くしたかのような精密描写である。 思索の人でもあったが、報道記者としても抜群の腕前だった、心温かき天才である。

『流れの法則』を科学する 

『流れの法則』を科学する  副題 数式なしで見える流体力学 シリーズ 知りたい! サイエンス 伊藤慎一郎(いとう・しんいちろう)著 白鳥  敬(しらとり たかし)著
              技術評論社2009年発行 1580円     ISBN 978-4-7741-3927-2
 著者=伊藤慎一郎=1956年生まれ。 生物流体力学、スポーツ流体力学専門。 工学院大学工学部機械工学科教授。
 著者=白鳥 敬=1953年生まれ 近代文学専攻・科学技術分野を対象として執筆。航空級無線通信士。
 空を飛ぶ鳥、ミジンコといった生物の世界から、スポーツ、バーベキューの煙の流れまで、世界は流体力学で溢れている。
 身近な流体力学現象を、数式を使わずに紐解く。 読みやすい、わかりやすい。
 その理由は、著者が二人存在する故だろう。
 著者その一は本書の内容を受けもつ伊藤慎一郎。 著者その二はサイエンスライターの白鳥  敬。
 お箸は一本では食べられない、二本あってはじめて食事ができる。流体力学のようなややこしい分野、しかし生活にぴたり張りついている不思議なものを伝えてもらうには、サイエンスライターと呼ばれるプロの手が必要だ、と痛感した。
 これこそ、二人の著者あってはじめて素人の胃の腑に収まる美味なる一皿となった見本だと思う。
 たとえば、バーベキューの煙が、なぜか自分の方に流れてくる。だれしも気のせいだろうと我慢していただろう。しかし事実だった。そのわけが、実は流体力学によって解明される、と書いてある。
 なんで重い飛行機が浮くのか。アゲハチョウの羽根のシッポが、どういう役目をしているのか。あの余計な飾りにしか見えない形に、ちゃんとした存在理由があった。ゴルフボールの凸凹の理由。競泳水着と流体力学。などなど、どの項目も目が離せない。
 女子フィギュアスケートのコスチュームにも流体力学的配慮が必要なんじゃないか。フリル山盛りの首まわりや、胸元に溢れる立体的な飾りは視覚的にも重く、空気抵抗ありだなあ、という印象を持ちながら見るので、マイナスであってもプラスには働かない、などと尻馬に乗って考えた。

裏切り

『裏切り』(SVEK)カリン・アルヴテーゲン(KARIN  ALVTEGEN)著  柳沢由実子訳 小学館 2006年発行 695円 ISBN4-09-4054630  小学館文庫
 著者=いま北欧で注目を集めるミステリ作家。

 結婚して十五年の夫婦のサイコサスペンス。スウェーデンの家庭生活風景が興味深い。
 主人公エーヴァの住む地域が工事中。それは地域共同暖房のパイプとブロードバンドを引くための工事である。ストーリー展開と直接関係のないエーヴァの述懐が著者の思いと重なるかのように述べられている。
「彼女は通りの両側に立っている二十世紀の初頭に建てられた古い家々を見上げた。この地域の、この区域は、一軒一軒の家が小さめの領主の家のような構えだ。彼女たちの住んでいる区域とはちがう。そこの家々はもっと小さい。ふつうの勤め人が買えるように初めて売られた土地だった。百年。百年の間にどれほどの変化があったのだろう? 家だけでなく、社会でこの百年間で変わらなかったものがあるだろうか? 自動車、飛行機、電話、コンピューター、労働市場、男女の役割、価値観、信仰。まさに変化の世紀だった。
 さらに加えて、人間がおこなったもっとも残虐な狂気の戦争の時代。彼女はふだんからよく自分の祖父母の時代と比較する。彼らはたくさんのことを経験させられてきたはず。新しいことを身につけ、学び、変化に順応せざるをえなかったはずだ。彼らほど多くの進歩と変化を経験した年代が、いままであったろうか? すべてが変わった。思うに、変化しなかったのは一つしかない。変化しなかった、のではなく、変化しないことが望まれる、と言うほうが正しいかもしれないが。それは家族。そして一生続く結婚。
 だが結婚はもはや、男女それぞれにかけがえのない役割を課した共同体ではなくなった。お互いに頼り合う、相互依存の関係ではなくなった。男も女もいまではそれぞれが経済的独立性をもつように教育され、そのように社会で働いて自分の分を稼ぎ出す。結婚を選ぶ唯一の理由は、経済のためではなく、愛情のためなのだ。エーヴァは、もしかすると、結婚が機能しない理由はそれなのかもしれないと思った。」
 この <結婚が機能しない理由> という部分に注目して、取り上げた。

骨から見た日本人

『骨から見た日本人』 古病理学が語る歴史 鈴木隆雄(すずき・たかお)著 講談社 2010年発行 1000円 ISBN 978-4-06-291978-4  学術文庫
 著者=1951年生まれ。札幌医科大学卒業。東京大学大学院博士課程修了。現在国立長寿医療センター研究所所長。
 何章かとりあげて紹介する。
 
「花を供えたはじめ」
 イラク北部、クルジスタン地方のシャニダール洞窟遺跡から、1953年~60年にかけて、ハーバード大学のソレッキらにより、男女子ども合わせて九体の遺骨が発掘された。
 九体の中の第四号人骨は野の花に埋もれていた。ムスカリ、アザミ、タチアオイ、ノボロギク、ルピナス、ヤグルマソウなど。おそらく、花の季節に死亡したシャニダール四号人は、周囲の人々が摘み集めた花に囲まれ、丁重に埋葬されたのであろう。六万年前のことだ。
 縄文人も花を供えていたという。死者に花を供える心。その発想が伝搬ではなく、自然発生であることに、人が授かった人の心を感じる。

「岩場からの転落か」
 福島県相馬郡の三貫地貝塚から出土した百体を超える人骨のなかに、大腿骨骨折の例が発見された。この個体では、骨折後良好な経過を辿り、骨折後数十年生存していた症例とみなされた。
 縄文人の平均推定年齢は短い。ゼロ歳の平均寿命(余命)男女とも、一四・六才。長寿の人との差が大きいことに驚く。

「闘いのはじまり」
 闘いの始まりは、農耕がはじまった弥生時代だとする定説がある。土地の奪い合いなどが、闘いの原因となったであろうと言う推察からきている。戦闘によって奪取すべき富の偏在と蓄積、社会統制と分配の組織化が、闘いへと発展していったであろう、という。
 しかし、骨を見るとちがった、縄文時代の骨に、石の鏃を打ち込まれたあとがある。縄文人も戦っていたのだ。人の遺伝子には、殺人衝動が組み込まれていたのか。ヒト以外の動物に同種間での殺し合いがあるのだろうか。食べるために殺すのと、殺すことを目的にするのとはちがう。

「古人骨にみられる先天異常」
 頭蓋の先天異常に、唇裂・口蓋裂が知られている。現代でも1500~5000人の出生に一人という、比較的高い頻度の異常である。
 縄文時代の土偶や土器人面把手に、上唇裂(兎唇)を表現したと思われるもののあることは、よく知られている。口唇裂の者は、その奇異な発声という特性から、カミの声を伝える媒介者としての役割を担い、これが呪術師的能力を持つ者へと転化していった、という説がある。先天異常の人は、周囲の仲間がその特性を差別するのではなく、認めることで居場所を得て生ていたのかもしれない。

「身障者の介護」
 北海道西南部の洞爺湖町高砂貝塚から一キロほどのところにある入江貝塚は、縄文時代前期末葉から中期、さらに後期までを含む貝塚である。ここから発掘された後期の個体「入江9号」の推定年齢は、十代後半から二十代前後である。その四肢は極度に細く、幼少期に麻痺したまま、長い間寝たきりであったと推定できる個体だった。脳性麻痺、脊髄の変成疾患、進行性筋ジストロフィー、あるいはポリオか。咀嚼筋も萎縮した痕跡があるので、筋ジストロフィーが強く疑われる。
 このような大きな障害があり、成人するまでの長い間を寝たきりでいた当例は、縄文時代にも、周囲の厚い保護と介助を必要とした身体障害者を受け入れていたことを立証している。
 原始社会とみなされている縄文時代の、障害者とその介護に対する精神構造を知る上で、手足の萎えた入江9号は、貴重な証人である、と書かれている。
 死者に花を供える。人殺しをする。健康管理をし、長生き努力をする。そして弱い者を助ける。これが人なのだ。
 人は善悪両面を持つ。一時代をひとまとめにはできない。これらの両面が古代から発掘された骨によって動かぬ証拠として語られたとき、古代先祖人がいっそう身近に引き寄せられて心が安んじる。

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