レ・ミゼラブル
27-05-11-22:07-
『 レ・ミゼラブル』(LES MISERABLES )三巻 ヴィクトル・ユゴー(VICTOR HUGO)著 豊嶋與志雄 訳 新潮社 1927年 非売品
著者=1802年フランス東部生まれ ロマン派の詩人・小説家
中学一年生のときに読んで以来、書棚から動かなかった本である。可憐なコゼット。執拗な追っ手、警察のジャヴェル。可哀想なジャン・ヴァル・ジャン。そして恐ろしい地下水道。
中学生のときの読みかたは、主要人物の行く末を追うことにのみ熱心であり、ユゴーの主張の部分にくると、飛ばして先を急いだのを覚えている。のちに、映画「第三の男」のパリの地下道の場面が、本書の地下水道からイメージされたものだと聞いたが、再読することはなかった。今回、六十年ぶりに開き、時間をかけてつぶさに読んだ。
合わせてユゴーの『私の見聞録』も読んだので、この長編小説にちりばめられている数々のエピソードの幾つかは、ユゴーが出会った出来事であったり、実際経験した事柄であったことを知った。左、参考。
『私の見聞録』歴史の証言として 稲垣直樹訳 潮出版社 1991年 発行 ISBN 4-267-01269-5 C0095 P1600E
ジャン・ヴァル・ジャンは、自分のためではなく、姉の子どもたちのために一片のパンに手を伸ばしたのだった。その後の逃亡のために、一生、警察に追われるのだが、作家が新しい人物を作りだし、彼の人生を歩ませるとき、ここまで苦難の道を用意するだろうか、と私は畏怖の念を持った。私には、ユゴーのようなこらえ性はない、と思った。道半ばで、幸せになって貰いたくなるだろう、と思った。
この感想は、クリスチャンではない、日本人の私の感想である。 しかし、ユゴーのみならず、キリスト教世界の作家たち、音楽家、画家、すべての芸術家の作品は、作品の上位に神が位置する。神の下に人も、作品もあるのだ。このことを悟らないと、中学生時代の私程度にしか、作品を理解できないことになる。いまどきの映画でも同じだ。GODという言葉、意識の含まれていない作品はないのではないか。
ユゴーは、神さまから授かった人物を、神さまに見守られながら文字にしていったように思う。このことが、今回はじめて理解できた。
キリスト教を土台に据えてみると、ジャン・ヴァル・ジャンは殉教の人、十九世紀のキリストに見えてくる。森羅万象の罪の浄化を担っている。浄化に向かう苦難の道ゆえにこそ、中途半端な苦難ではないのである。
追っ手、ジャヴェルの精神は、日本を含めて、今も昔も、あまねくゆきわたる検察の精神である。法律に忠実に、そして上司の意に添うことを唯一の大目的として結果を求める。
彼にとっての犯人は、生身の人間(家族もいる、生い立ちの歴史を持つ)ではなく、目的物に過ぎない。自分自身の頭で考えたり、心で受け止めたりすることを知らない恐怖のロボットがジャヴェルである。 青年から壮年へ、そして老年へと移りゆく長い物語の道中を、両者は悲惨、凄絶な逃亡と追跡を繰り返す。そして遂に対決の時がやってくる。ユゴーは、ジャヴェルの最期のときに、彼に血の通う、人の心を返した。
かつて飛ばし読みをした部分は、若年時には耐え難いものだったが、実は読み応えのある重厚な思想が詰まっている部分であり、この部分こそユゴーという大山脈のなかの鉱脈であった。
たとえば、教育について
無学の人々にはあたう限り多くのことを教えねばいけない。無料の教育を与えないのは社会の罪である。社会は自ら創りだした闇の責を負うべきである。心の内に影多ければ、罪はそこに行わるる。罪人は罪を犯した者ではなく、影を作った者である。
死刑について。
死は、神の手にのみ在るものである。如何なる権利を持って人はこの測り知るべからざるものに手を触れるのか?
偏見について
盗賊や殺人者をも怖れてはいけない。それらは外部の危険で小さなものである。 我々は、我々自身を怖れなければならない。偏見は盗賊である。悪徳は殺人者である。大きな危険は、我々の内部にある。我々の頭や財布を脅かすものは何でもない。我々の心霊を脅かすもののことだけを考えればよいのだ。
報道のためのツールが、ペン一本であった時代に生きた作家ユゴーの手にかかったワーテルローの戦場場面には迫真の現実感があり、どの軍が何色の軍服を着ているかもはっきりと見え、喚声の声、どよめきも聞こえてくる凄まじさである。
『私の見聞録』に、バルザックの部屋を訪う場面があるが、まるでカメラで舐め尽くしたかのような精密描写である。 思索の人でもあったが、報道記者としても抜群の腕前だった、心温かき天才である。
著者=1802年フランス東部生まれ ロマン派の詩人・小説家
中学一年生のときに読んで以来、書棚から動かなかった本である。可憐なコゼット。執拗な追っ手、警察のジャヴェル。可哀想なジャン・ヴァル・ジャン。そして恐ろしい地下水道。
中学生のときの読みかたは、主要人物の行く末を追うことにのみ熱心であり、ユゴーの主張の部分にくると、飛ばして先を急いだのを覚えている。のちに、映画「第三の男」のパリの地下道の場面が、本書の地下水道からイメージされたものだと聞いたが、再読することはなかった。今回、六十年ぶりに開き、時間をかけてつぶさに読んだ。
合わせてユゴーの『私の見聞録』も読んだので、この長編小説にちりばめられている数々のエピソードの幾つかは、ユゴーが出会った出来事であったり、実際経験した事柄であったことを知った。左、参考。
『私の見聞録』歴史の証言として 稲垣直樹訳 潮出版社 1991年 発行 ISBN 4-267-01269-5 C0095 P1600E
ジャン・ヴァル・ジャンは、自分のためではなく、姉の子どもたちのために一片のパンに手を伸ばしたのだった。その後の逃亡のために、一生、警察に追われるのだが、作家が新しい人物を作りだし、彼の人生を歩ませるとき、ここまで苦難の道を用意するだろうか、と私は畏怖の念を持った。私には、ユゴーのようなこらえ性はない、と思った。道半ばで、幸せになって貰いたくなるだろう、と思った。
この感想は、クリスチャンではない、日本人の私の感想である。 しかし、ユゴーのみならず、キリスト教世界の作家たち、音楽家、画家、すべての芸術家の作品は、作品の上位に神が位置する。神の下に人も、作品もあるのだ。このことを悟らないと、中学生時代の私程度にしか、作品を理解できないことになる。いまどきの映画でも同じだ。GODという言葉、意識の含まれていない作品はないのではないか。
ユゴーは、神さまから授かった人物を、神さまに見守られながら文字にしていったように思う。このことが、今回はじめて理解できた。
キリスト教を土台に据えてみると、ジャン・ヴァル・ジャンは殉教の人、十九世紀のキリストに見えてくる。森羅万象の罪の浄化を担っている。浄化に向かう苦難の道ゆえにこそ、中途半端な苦難ではないのである。
追っ手、ジャヴェルの精神は、日本を含めて、今も昔も、あまねくゆきわたる検察の精神である。法律に忠実に、そして上司の意に添うことを唯一の大目的として結果を求める。
彼にとっての犯人は、生身の人間(家族もいる、生い立ちの歴史を持つ)ではなく、目的物に過ぎない。自分自身の頭で考えたり、心で受け止めたりすることを知らない恐怖のロボットがジャヴェルである。 青年から壮年へ、そして老年へと移りゆく長い物語の道中を、両者は悲惨、凄絶な逃亡と追跡を繰り返す。そして遂に対決の時がやってくる。ユゴーは、ジャヴェルの最期のときに、彼に血の通う、人の心を返した。
かつて飛ばし読みをした部分は、若年時には耐え難いものだったが、実は読み応えのある重厚な思想が詰まっている部分であり、この部分こそユゴーという大山脈のなかの鉱脈であった。
たとえば、教育について
無学の人々にはあたう限り多くのことを教えねばいけない。無料の教育を与えないのは社会の罪である。社会は自ら創りだした闇の責を負うべきである。心の内に影多ければ、罪はそこに行わるる。罪人は罪を犯した者ではなく、影を作った者である。
死刑について。
死は、神の手にのみ在るものである。如何なる権利を持って人はこの測り知るべからざるものに手を触れるのか?
偏見について
盗賊や殺人者をも怖れてはいけない。それらは外部の危険で小さなものである。 我々は、我々自身を怖れなければならない。偏見は盗賊である。悪徳は殺人者である。大きな危険は、我々の内部にある。我々の頭や財布を脅かすものは何でもない。我々の心霊を脅かすもののことだけを考えればよいのだ。
報道のためのツールが、ペン一本であった時代に生きた作家ユゴーの手にかかったワーテルローの戦場場面には迫真の現実感があり、どの軍が何色の軍服を着ているかもはっきりと見え、喚声の声、どよめきも聞こえてくる凄まじさである。
『私の見聞録』に、バルザックの部屋を訪う場面があるが、まるでカメラで舐め尽くしたかのような精密描写である。 思索の人でもあったが、報道記者としても抜群の腕前だった、心温かき天才である。