文房 夢類
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文房 夢類

井上円了

井上円了』副題=「哲学する心」の軌跡とこれから 編集=講談社 発行=講談社 2019年 ムック 125 210X280mm ¥900 ISBN9784065169305
内容=東洋大学の創立者・井上円了を改めて認識する多角的な紹介書。125頁のうち83頁を費やし『水木しげる漫画大全集』所蔵の長編作品「不思議庵主 井上円了」を完全収録している。
哲学堂(中野区立哲学堂公園)など、ゆかりの地などを多数紹介。

安政五年(1885)に、お寺の子として生まれた円了は、明治維新の文明開化の波に乗って洋楽を学び、東京大学の哲学科に進み、一生を通じて迷信の打破に努めた。
「考え方の模範として人々に示したのが妖怪学」という三浦節夫(東洋大学教授)
「民衆の間にも、合理的に判断しようとする気運が生まれていった」という湯本豪一(民俗学者・妖怪研究家)
AI時代を生き抜くヒントが一杯ある」という吉田善一(円了研究センター長)
「オカルトを排するためにこそ、彼は議論をしていた」という鈴木 泉(東京大学大学院人文社会系教授)
などの対談が興味深い。

円了は、鬼門を恐れて避ける風潮や、四という数字は死につながり不吉だ、などの迷信を否定するために、東洋大学の前身である哲学館の電話番号を、売れ残っていた444にして見せた。また、わざわざ鬼門に便所を作ったが、このエピソードは水木の作中にも描かれている。円了は、いわゆる「こっくりさん」の不思議を科学的に解明したことでも知られている。
「不思議庵主 井上円了」は、円了の一生を描いているが、作中水木しげるは時おり「(円了は)僕と対極にあるんだ」と述懐している。
迷信としてお化けを否定し、科学的、合理的思考の推進に努めるための妖怪研究であったのが円了。
日本だけではない、地球上のいたるところに妖怪類は現に存在するのだ、という確信と愛を持って妖怪の研究に励んだのが水木しげるだから、まさに対極に位置していた。
水木しげるの長編「不思議庵主 井上円了」は、非常に優れた円了伝。

100年前から見た21世紀の日本

100年前から見た 21世紀の日本』副題=大正人からのメッセージ 著者=大倉幸宏(おおくら ゆきひろ)発行=新評論2019年 サイズ=128X210mm 251頁¥2000 ISBN9784794811356
著者=1972年愛知県生まれ 新聞社、広告代理店を経てフリーランス・ライター。著書=『
「衣食足りて礼節を知る」は誤りかー戦後のマナー・モラルから考える』『「昔はよかった」と言うけれどー戦後のマナー・モラルから考える』『レイラ・ザーナークルド人女性国会議員の闘い』(共著)
内容=現在の日本の世相を歴史的観点から捉えて比較検討しようとしている。
いまの日本は、戦前の日本と似通っている、平成時代は大正時代と似ている、という最近耳にする感想を検証。
大まかに大正時代近辺を100年前と捉えて、当時の先人達が残した言葉を読み取ってゆくことで今の時代を捉えようとしている。あの時代の誰が、いつ、何と書いたか。どう論じたか。
ここから見えてくる当時の人々の価値観、気持ちが具体的な例文によってつかめてくるという、非常に手間暇をかけた労作。
その努力ぶりは巻末の参考文献数を見るとわかる。8ページに及ぶ文献、1ページあたり19件の資料が並ぶ。本文を読むと、これらの資料が生き生きと活動してくれているのが一目瞭然だ。この労作の基礎を、これだけの土台が支えている。
読む側は、だから100年前の人々の生の声を、加工されていない生のままの声で受け取ることができるのだ。高齢者が漠然と過去を振り返り、あの時は、と思い出すものとは質が違う。記憶は、時に歪み、美化される、あるいは強調される。ひどい場合は捏造もある。なんとなく、そう感じるんだ、と思っている人は、霧が晴れるように100年前を見渡せるだろう。
興味深く読んだ部分
あの時代にも、オレオレ詐欺がいた! ただし電報を使っていた。騙すネタは今と同じで、病気や、失せ物である。
車内で読書をすることについて。目が悪くなる、と心配している。これは、当時の電車の揺れが原因かもしれない。また、車内で読む人の中に音読するものがいて迷惑だという不満。
車内読書は、都会の人々の車内時間が長くなるにつれて現れた現象だった。たぶん、その前は二宮金次郎(歩行中の読書)だったろう。いかに勤勉、努力家か。読書好きであることかと驚く。
ただ、今の乗り物よりも揺れが激しかったから目の健康を案じたに違いない。事実、私も目が悪くなるから電車の中で本を読んではいけません、と言われた記憶がある。
音読については、これも私の記憶だが、国民学校時代のクラスの子たちの中に、声を出して読む子が少なからずいたことだ。詳しく言うと、声を出さずに読むことができないのだ。黙って読め、と先生に言われると、声は出さないように努力するのだが、自然と唇が動いてしまう。一方、国語の時間には、クラス全員揃って音読をしていた。
これは、著者が書いているように
「明治の中頃までは、本は声を出して読むのが一般的だった。公共の場で、文字を読めない人に、声を出して読んで聞かせる行為は一般的だった。」
ということがあったのだろう。
もう一つ、第3章「すべての日本人へ」で、女性の権利についての項目がある。ここでは与謝野晶子と平塚らいてうのやり取り、現在の香山リカと勝間和代の意見交換、その他多士済済の意見が載っており、興味津々、本書の白眉と言って良いと思う。私の知らなかった人物、青柳有美(あおやぎ ゆうび)についても詳しい。一面のみを捉えず、立体的に書いてくれているところが素晴らしい。この項は、図らずも女性史概観となっている。
著者の視野は広く、目立たない人物の言も発掘している。
たとえば三井信託 副社長 船尾栄太郎の言。  
「近代の書物の通弊は文字に無駄が多く、いたずらに冗長で、意味の補足にワザと面倒な書き振りをすることである。ことに訳書の中に誤訳の夥しい事は誰も腹立たしく馬鹿馬鹿しく感ずるところである。」
これは、今現在に主張しても堂々、通用するのではないか。

ヒロシマ

ヒロシマ』[増補版]HIROSHIMA 著者=ジョン・ハーシー John Hersey 訳=石田欣一/谷本清/明田川融 発行=法政大学出版局 1949年初版 2003年増補版 サイズ=128X187mm 246頁 ¥1500 ISBN4588316125
著者=1914~1994年 中国天津生まれ。父は宣教師。1925年に家族とアメリカへ戻り、イェール大、ケンブリッジ大に学び、作家シンクレアルイスの秘書を経てジャーナリスト。20年間、イェール大学で教える。 
   1946年6月に従軍記者として広島に来た。この時、本書の訳者の一人である谷本氏と出会う。
訳者=
石川欣一(いしかわ きんいち)= 1895~1959年 東京生まれ。東京大学英文科中退渡米。プリンストン大学卒。大阪毎日新聞学芸部、東京日日新聞学芸部、ロンドン特派員など務める。訳書に『第二次大戦回顧録』チャーチルなど
谷本 清(たにもと きよし)=1909~1986 香川県生まれ。関西学院神学部卒業後渡米。エモリー大学大学院卒業。1943年広島流山教会牧師に就任、爆心から3km地点で被爆。
              ヒロシマ・ピース・センター設立。広島文化平和センター理事長など
明田川融(あけたがわ とおる)=1963年新潟生まれ。法政大学法学部、同大大学院政治学。先行は日本政治外交史。
内容=1946年に著者が現地取材して記した第1~4章と、1985年に広島再訪で綴った第5章「ヒロシマその後」で構成。1949年初版の増補版。
   1946年の取材では、6人の被爆者の体験と見聞、第5章では、その後の人生の足取りを詳細にしたためた。
感想=2019年に、どこでどのようにして本書に出会ったか。世界的に有名な本書を、私は知らなかったのです。
それは2019年4月発行の岩波ブックレット『国家機密と良心:私はなぜペンタゴン情報を暴露したか』ダニエル エルズバーグDaniel Ellsberg を読んでいたら、文中にこの本『ヒロシマ』が出てきたのだ。著者が少年のときに、この『ヒロシマ』を泣きながら読んだ、そして父親に手渡し、父も読んだのだそうだ。人間が人間に、このようなことをした。このことがエルズバーグ父子の、それからの行動となってゆく。
『国家機密と良心』は、この本『ヒロシマ』なしには語れないものだった。私は、この本を知らなかった。ヒロシマとナガサキについては、数多の被爆者、あるいは被爆者から伝え聞いた語り部の言葉、数多のヒロシマ書籍。絵画の数々。あるいはマンハッタン計画に関わった科学者たちについての数多の著作、それから当時の彼らの日記……。
これらによって、あの惨劇被害の様相の全体を受け取ったと思っていた私は、まるで、初めてヒロシマのあの日に出会ったかのような気持ちにまみれた。さらに、その後の、一刻、一日、一月、年々が、今現在まで続いていることも手に受けたのだ。
ここに、本書『ヒロシマ』の持つ三つの要因が見える。
一つはハーシーさんが中国生まれであること。アメリカ育ちだが東洋で生まれたことが、どこか身近な感覚を呼んだのではないか。取材する側も、される側にとっても。
二つ目は、ハーシーさんがシンクレア・ルイスの秘書を務めていたこと。ルイスはアメリカ最初のノーベル文学賞受賞作家(1930年度)だ。『
本町通り』『エルマー・ガントリー』『バビット』など邦訳がある。
当時、ノーベル賞受賞理由としてあげられた特徴は、次のようなものだった。「機知とユーモア、新しいタイプの性格とともに、力づよい絵画的な描写力並びに想像力に対して」
『ヒロシマ』を読みながら私は「力づよい絵画的な描写力並びに想像力」を強く感じた。そう、極限状態の只中でありながら、ユーモアが、小さな微笑みがあることにも驚いた。
想像力とは、言うまでもなく人の心の内を想像する力のことだ。この中から理解といたわり、そしてその場その場のユーモアが醸し出される。
三つ目はキリスト教の存在である。ハーシーさんは父が宣教師だった。ヒロシマに来て出会った谷本清さんは、その時「自分の教会」を復興させようと走り回っていた牧師さんだ。そして数人を選び、取材しようとして選んだ数人の中の一人がウィルヘルム・クラインゾルゲさん。この方はカトリック・イエズス会のドイツ人神父さん。奇遇であるかのように、キリスト教が寄り集まった。
さて、8月の、その日の朝から始まる実況記は、第1章「音なき閃光」第2章「火災」に記される。次に第3、第4章「詳細は目下調査中」「黍と夏白菊」で、この爆弾はなんだ? という噂の広がり、マグネシウムの粉だ、電線に伝わって広がった、などの風評の中、本当のことがわかってくる。被爆の荒野に生え盛る夏草の描写が胸を打つ。やがて、助かった、生き残ったとホッとした人々が病気にかかってゆく有様が描かれる。激しい脱毛、死んでゆく人、生き残った人たち。この時、なぜ? の答えはなかったのだ。
1985年に再び広島を訪れたハーシーさんが、本書に追加した第5章「ヒロシマ その後」では、1946年に取材した6人のその後をたどっている。クラインゾルゲ神父のその後も語られる。原爆症に日夜苦しむ神父さんはミサを行い、告解を聴き、聖書の教室を開く司祭の仕事をはじめ、シスターたちのために黙想会を行い、被爆者を見舞い、若い母親に代わって子守もしていた。そして日本に帰化して高倉誠という名前になっていた。そして高倉神父は1977年に天に召された。
ハーシーさんは小説書きとしての技量と、ジャーナリストとしての視点を組み合わせ、暖かく豊かな想像力を持って小さな声を聞き取る。周辺の自然に目を配り、草も魚も、目の前に見えるように鮮やかだ。その点、アレクシェーヴィチさんと共通するものがある。
ハーシーさんもスベトラーナ・アレクシェーヴィチさん(2015年ノーベル文学賞)も同じだが、向かい合い、相手の言葉に聞き入る姿が、言葉以前に語り手の心を開かせるに違いない、溜めていた悲しい思いを受け止めてくれる、と信じられたからこそ口を開いたに違いない、傷ついた人たち。
こうした後世に残る大仕事は、小手先の技術では手が届かない。傷ついた人の鋭敏な魂が信じることができた、ということが始まりであり、すべてである。
この本は多くの国々に翻訳されて広まり、今もネットを検索すると詳しく知ることができる。ハーシー氏の写真も出ている。
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