100年前から見た21世紀の日本
15-01-20-16:38-
『100年前から見た 21世紀の日本』副題=大正人からのメッセージ 著者=大倉幸宏(おおくら ゆきひろ)発行=新評論2019年 サイズ=128X210mm 251頁¥2000 ISBN9784794811356
著者=1972年愛知県生まれ 新聞社、広告代理店を経てフリーランス・ライター。著書=『「衣食足りて礼節を知る」は誤りかー戦後のマナー・モラルから考える』『「昔はよかった」と言うけれどー戦後のマナー・モラルから考える』『レイラ・ザーナークルド人女性国会議員の闘い』(共著)
内容=現在の日本の世相を歴史的観点から捉えて比較検討しようとしている。
いまの日本は、戦前の日本と似通っている、平成時代は大正時代と似ている、という最近耳にする感想を検証。
大まかに大正時代近辺を100年前と捉えて、当時の先人達が残した言葉を読み取ってゆくことで今の時代を捉えようとしている。あの時代の誰が、いつ、何と書いたか。どう論じたか。
ここから見えてくる当時の人々の価値観、気持ちが具体的な例文によってつかめてくるという、非常に手間暇をかけた労作。
その努力ぶりは巻末の参考文献数を見るとわかる。8ページに及ぶ文献、1ページあたり19件の資料が並ぶ。本文を読むと、これらの資料が生き生きと活動してくれているのが一目瞭然だ。この労作の基礎を、これだけの土台が支えている。
読む側は、だから100年前の人々の生の声を、加工されていない生のままの声で受け取ることができるのだ。高齢者が漠然と過去を振り返り、あの時は、と思い出すものとは質が違う。記憶は、時に歪み、美化される、あるいは強調される。ひどい場合は捏造もある。なんとなく、そう感じるんだ、と思っている人は、霧が晴れるように100年前を見渡せるだろう。
興味深く読んだ部分
あの時代にも、オレオレ詐欺がいた! ただし電報を使っていた。騙すネタは今と同じで、病気や、失せ物である。
車内で読書をすることについて。目が悪くなる、と心配している。これは、当時の電車の揺れが原因かもしれない。また、車内で読む人の中に音読するものがいて迷惑だという不満。
車内読書は、都会の人々の車内時間が長くなるにつれて現れた現象だった。たぶん、その前は二宮金次郎(歩行中の読書)だったろう。いかに勤勉、努力家か。読書好きであることかと驚く。
ただ、今の乗り物よりも揺れが激しかったから目の健康を案じたに違いない。事実、私も目が悪くなるから電車の中で本を読んではいけません、と言われた記憶がある。
音読については、これも私の記憶だが、国民学校時代のクラスの子たちの中に、声を出して読む子が少なからずいたことだ。詳しく言うと、声を出さずに読むことができないのだ。黙って読め、と先生に言われると、声は出さないように努力するのだが、自然と唇が動いてしまう。一方、国語の時間には、クラス全員揃って音読をしていた。
これは、著者が書いているように
「明治の中頃までは、本は声を出して読むのが一般的だった。公共の場で、文字を読めない人に、声を出して読んで聞かせる行為は一般的だった。」
ということがあったのだろう。
もう一つ、第3章「すべての日本人へ」で、女性の権利についての項目がある。ここでは与謝野晶子と平塚らいてうのやり取り、現在の香山リカと勝間和代の意見交換、その他多士済済の意見が載っており、興味津々、本書の白眉と言って良いと思う。私の知らなかった人物、青柳有美(あおやぎ ゆうび)についても詳しい。一面のみを捉えず、立体的に書いてくれているところが素晴らしい。この項は、図らずも女性史概観となっている。
著者の視野は広く、目立たない人物の言も発掘している。
たとえば三井信託 副社長 船尾栄太郎の言。
「近代の書物の通弊は文字に無駄が多く、いたずらに冗長で、意味の補足にワザと面倒な書き振りをすることである。ことに訳書の中に誤訳の夥しい事は誰も腹立たしく馬鹿馬鹿しく感ずるところである。」
これは、今現在に主張しても堂々、通用するのではないか。
著者=1972年愛知県生まれ 新聞社、広告代理店を経てフリーランス・ライター。著書=『「衣食足りて礼節を知る」は誤りかー戦後のマナー・モラルから考える』『「昔はよかった」と言うけれどー戦後のマナー・モラルから考える』『レイラ・ザーナークルド人女性国会議員の闘い』(共著)
内容=現在の日本の世相を歴史的観点から捉えて比較検討しようとしている。
いまの日本は、戦前の日本と似通っている、平成時代は大正時代と似ている、という最近耳にする感想を検証。
大まかに大正時代近辺を100年前と捉えて、当時の先人達が残した言葉を読み取ってゆくことで今の時代を捉えようとしている。あの時代の誰が、いつ、何と書いたか。どう論じたか。
ここから見えてくる当時の人々の価値観、気持ちが具体的な例文によってつかめてくるという、非常に手間暇をかけた労作。
その努力ぶりは巻末の参考文献数を見るとわかる。8ページに及ぶ文献、1ページあたり19件の資料が並ぶ。本文を読むと、これらの資料が生き生きと活動してくれているのが一目瞭然だ。この労作の基礎を、これだけの土台が支えている。
読む側は、だから100年前の人々の生の声を、加工されていない生のままの声で受け取ることができるのだ。高齢者が漠然と過去を振り返り、あの時は、と思い出すものとは質が違う。記憶は、時に歪み、美化される、あるいは強調される。ひどい場合は捏造もある。なんとなく、そう感じるんだ、と思っている人は、霧が晴れるように100年前を見渡せるだろう。
興味深く読んだ部分
あの時代にも、オレオレ詐欺がいた! ただし電報を使っていた。騙すネタは今と同じで、病気や、失せ物である。
車内で読書をすることについて。目が悪くなる、と心配している。これは、当時の電車の揺れが原因かもしれない。また、車内で読む人の中に音読するものがいて迷惑だという不満。
車内読書は、都会の人々の車内時間が長くなるにつれて現れた現象だった。たぶん、その前は二宮金次郎(歩行中の読書)だったろう。いかに勤勉、努力家か。読書好きであることかと驚く。
ただ、今の乗り物よりも揺れが激しかったから目の健康を案じたに違いない。事実、私も目が悪くなるから電車の中で本を読んではいけません、と言われた記憶がある。
音読については、これも私の記憶だが、国民学校時代のクラスの子たちの中に、声を出して読む子が少なからずいたことだ。詳しく言うと、声を出さずに読むことができないのだ。黙って読め、と先生に言われると、声は出さないように努力するのだが、自然と唇が動いてしまう。一方、国語の時間には、クラス全員揃って音読をしていた。
これは、著者が書いているように
「明治の中頃までは、本は声を出して読むのが一般的だった。公共の場で、文字を読めない人に、声を出して読んで聞かせる行為は一般的だった。」
ということがあったのだろう。
もう一つ、第3章「すべての日本人へ」で、女性の権利についての項目がある。ここでは与謝野晶子と平塚らいてうのやり取り、現在の香山リカと勝間和代の意見交換、その他多士済済の意見が載っており、興味津々、本書の白眉と言って良いと思う。私の知らなかった人物、青柳有美(あおやぎ ゆうび)についても詳しい。一面のみを捉えず、立体的に書いてくれているところが素晴らしい。この項は、図らずも女性史概観となっている。
著者の視野は広く、目立たない人物の言も発掘している。
たとえば三井信託 副社長 船尾栄太郎の言。
「近代の書物の通弊は文字に無駄が多く、いたずらに冗長で、意味の補足にワザと面倒な書き振りをすることである。ことに訳書の中に誤訳の夥しい事は誰も腹立たしく馬鹿馬鹿しく感ずるところである。」
これは、今現在に主張しても堂々、通用するのではないか。