わたしたちが孤児だったころ
12-02-18-10:10-
『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphans 著者=Kazuo Ishiguro カズオ イシグロ 発行=早川書房 上製本 537頁 ¥1050
著者=1954年長崎生れ 5歳の時日本人の両親、姉とイギリスへ、以後英国国籍として現在に至る。ケント大学で英文学、イースト・アングリア大学院で創作を学ぶ。本書は2000年、著者が46歳の時に書いた作。
内容=1930年代の上海を舞台に、英国人の少年と日本人の少年の交流から始まる長期間の物語。両親が行方不明になり、孤児という自覚の元で成人する主人公、クリストファー・バンクスの幾重にも歪み、変転する様相が主流となる。
感想=イギリスに、日本人の名前を持つ作家がいることは以前から知っていたが、読んだことはなかった。今回、ノーベル文学賞受賞をきっかけに図書館で借りた。日本では村上春樹が候補書の一人として季節の話題になっていた故に、今は英国国籍を持っているそうだが、日本人で日本生まれの作家であるということに関心があった。書評も読んだことがなく、まっさらの状態で読んだことは幸いだった。
上海の恵まれた美しい場所、外国人が住む地域に駐留生活をしている家の少年たち、一人は英国人、一人は日本人、この二人の少年の遊び方や言動が実に繊細に、深く描かれている。これは思い出を語る形で描かれているのだが、私にとっては作品の全体像を把握しつつ読み進むよりも先に、冒頭の、この一点に気持ちを奪われた。日本人の少年が大喜びで故郷の長崎へ帰ったが、たちまち上海に戻ってくる、誇らしく、大好きだった日本の印象が崩された心情。
今、世に言われる帰国子女が、異質な生活習慣を身につけているが故に受ける軋轢が、一片も描かれずにいながら底流に流れる様は見事だ。海外で2人の男の子を育てていた頃の体験がよみがえる。しかし、これを痛みを持って読み取る読者がどれほどいるだろう。というわけで私は思いがけず、この一カ所に注意を傾けてしまったのだが、それはさておき全体像は、実に緻密な計画と計算がなされた上に構築されたものだ。読者の意表をつく仕掛のしつらえは見事だし、楽しめる。何気ない情景描写、登場人物の事情の説明などを読み飛ばすと、終章に至り受ける衝撃と感動はフイになる。
このあたりの技術は多分、創作を学ぶ大学院から受けた賜物ではないか。大きな特徴は、登場人物の全員が、主人公を含めて絶対的イイモンではなく、悪モンとも言い難い、つまりカタルシス不在の人間模様であることだ。これは、この一作品のために設定されたものではなく、作者の人生観、価値観そのものではないか、沈着、上品、知的で複雑な人間性を感じる。
創作のための教室や学校は技術の習得であり、独学者とは比較にならない腕前を身につけることができる、しかし作家が何を書くかは何人も授けてはくれないし、作家の人間性は、世界で唯一の、その者の持物である。しかもまるで玉ねぎのように幾重にも多様な衣をまといつつ表現するために、作家の本性は容易なことでは見抜けるものではない、と私は思っている。どこまで看破してみせるかが、対する読者の力量ということになるだろう。
読み手の力は何より大切だ、読み手の力量が作家の作品をさらに高めてゆく。日本で言えば落語がこれに相当するのではないか。切磋琢磨が演じられるのは客との接点にある。小説に関して言えば、日本語の小説を読み手は育てていない、むしろ低いところに貶めている。源氏物語が生まれた頃は、受け手が育てていたのだ。しかも受け手は読み手ではなく聴き手であったはずなのだ。落語の客と似ていたのではないかしら。話が逸れましたが、
彼はイギリスで読者を獲得し、英文で、その身を鍛えあげてきた。英国の読者とは何者だろう?
もう一つ、ノーベル賞受賞の女性作家を読み進めている最中だが、その中にパールバックがいる。代表作『大地』は、本作品と重なる時代の人物を描いている。まるで机の上に本書と『大地』の2冊を開いているかのような気分だった。
著者=1954年長崎生れ 5歳の時日本人の両親、姉とイギリスへ、以後英国国籍として現在に至る。ケント大学で英文学、イースト・アングリア大学院で創作を学ぶ。本書は2000年、著者が46歳の時に書いた作。
内容=1930年代の上海を舞台に、英国人の少年と日本人の少年の交流から始まる長期間の物語。両親が行方不明になり、孤児という自覚の元で成人する主人公、クリストファー・バンクスの幾重にも歪み、変転する様相が主流となる。
感想=イギリスに、日本人の名前を持つ作家がいることは以前から知っていたが、読んだことはなかった。今回、ノーベル文学賞受賞をきっかけに図書館で借りた。日本では村上春樹が候補書の一人として季節の話題になっていた故に、今は英国国籍を持っているそうだが、日本人で日本生まれの作家であるということに関心があった。書評も読んだことがなく、まっさらの状態で読んだことは幸いだった。
上海の恵まれた美しい場所、外国人が住む地域に駐留生活をしている家の少年たち、一人は英国人、一人は日本人、この二人の少年の遊び方や言動が実に繊細に、深く描かれている。これは思い出を語る形で描かれているのだが、私にとっては作品の全体像を把握しつつ読み進むよりも先に、冒頭の、この一点に気持ちを奪われた。日本人の少年が大喜びで故郷の長崎へ帰ったが、たちまち上海に戻ってくる、誇らしく、大好きだった日本の印象が崩された心情。
今、世に言われる帰国子女が、異質な生活習慣を身につけているが故に受ける軋轢が、一片も描かれずにいながら底流に流れる様は見事だ。海外で2人の男の子を育てていた頃の体験がよみがえる。しかし、これを痛みを持って読み取る読者がどれほどいるだろう。というわけで私は思いがけず、この一カ所に注意を傾けてしまったのだが、それはさておき全体像は、実に緻密な計画と計算がなされた上に構築されたものだ。読者の意表をつく仕掛のしつらえは見事だし、楽しめる。何気ない情景描写、登場人物の事情の説明などを読み飛ばすと、終章に至り受ける衝撃と感動はフイになる。
このあたりの技術は多分、創作を学ぶ大学院から受けた賜物ではないか。大きな特徴は、登場人物の全員が、主人公を含めて絶対的イイモンではなく、悪モンとも言い難い、つまりカタルシス不在の人間模様であることだ。これは、この一作品のために設定されたものではなく、作者の人生観、価値観そのものではないか、沈着、上品、知的で複雑な人間性を感じる。
創作のための教室や学校は技術の習得であり、独学者とは比較にならない腕前を身につけることができる、しかし作家が何を書くかは何人も授けてはくれないし、作家の人間性は、世界で唯一の、その者の持物である。しかもまるで玉ねぎのように幾重にも多様な衣をまといつつ表現するために、作家の本性は容易なことでは見抜けるものではない、と私は思っている。どこまで看破してみせるかが、対する読者の力量ということになるだろう。
読み手の力は何より大切だ、読み手の力量が作家の作品をさらに高めてゆく。日本で言えば落語がこれに相当するのではないか。切磋琢磨が演じられるのは客との接点にある。小説に関して言えば、日本語の小説を読み手は育てていない、むしろ低いところに貶めている。源氏物語が生まれた頃は、受け手が育てていたのだ。しかも受け手は読み手ではなく聴き手であったはずなのだ。落語の客と似ていたのではないかしら。話が逸れましたが、
彼はイギリスで読者を獲得し、英文で、その身を鍛えあげてきた。英国の読者とは何者だろう?
もう一つ、ノーベル賞受賞の女性作家を読み進めている最中だが、その中にパールバックがいる。代表作『大地』は、本作品と重なる時代の人物を描いている。まるで机の上に本書と『大地』の2冊を開いているかのような気分だった。