浮世の画家
13-02-18-22:21-
『浮世の画家』An Artist of Floating World 著者=カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 訳=飛田茂雄 発行=中央公論社 1988年 286頁 古書
著者=前出
訳者=東京出身(1927~2002) 早稲田大学大学院 英米文学翻訳家 中央大学名誉教授
内容=1986年、32歳の時の作品。1987年ウイットブレッド賞受賞作。1948年から1950年間の、日本国内の架空の場所における長編小説。
有名な老画家が、戦後の変動の中、家族、弟子たちのはざまで揺れる心情を描く。自己の自信を支えてくれてきたはずの、もてはやし、敬服してくれた弟子たちが向ける背、疑念なく長として居座っていたはずの家庭、それを支えてくれる礎ともいうべき女たちの、意識せぬ彼への無頓着さや無視する言動が彼を苦しめ、足元を揺るがせる。彼は、7、8歳の孫の一郎を味方に引き寄せようとする、しかもその方法は、男だから共に酒を飲もうというものであったが、これにも娘から手痛い反撃を受けて敗退する。
荒れ果てた往時の純日本風の屋敷、あるいは空襲で荒廃した街、これらが舞台として描かれて、戦争による崩壊が形の上でも、精神の内側でも起こりつつある様相に重ねられている。
感想=この構想をまとめたのが32歳とは恐れ入りました。これは英文で読まないと本当のところはわからない。訳者の親切心が衣を着せていはしないかと憶測したくらいだ。
日本について取材もしただろうし、何よりも家族からの生の情報がふんだんに入る環境であるから、日本人が書いた作品と感じるのが自然だろうが、違う。外国の人は感じないかもしれない、ちょっとした違いが、決定的に日本人ではないと感じさせる。
作品の出来ばえとは関係のない部分であるから、日本人とは違う、と感じた点を幾つか挙げてみよう。
並木、若木、と書く。樹木の名がない、花の季節か若葉の季節かの記述がない。屋敷に日本庭園があり深い池がある。しかし造園された庭池は浅いものであり深い池は存在しない。客間に仏壇があるという。部屋数が相当多い屋敷であるから客間に仏壇は置かない。仏間があるはずだ。少年の一郎が大声で言う「ポパイ・ザ・セーラーマン!」。ご機嫌な男の子の姿である。これはテレビで放映していたポパイの漫画の冒頭のメロディだが、あちらのTV番組だ。
際立つことは会話で、相手の気持ちを尊重し、傷つけぬ配慮のもと、理路整然と自論を進めて行く手順、礼儀正しく穏やかで、品の良い語り口、誤解しようもない正確な表現で、自分の思うところを相手に渡す話し方は、日本、特に家庭では滅多にない。ところが本作では、これがないと成り立たないのである。
例えば小津安二郎の映画を見ると典型的なシーンがいくつもあるが、「だって」と言ったきり俯向く娘。あるいは「そうか……」と言ったなり、遠くにまなざしを投げてじっと黙っている父親、こんなものの連続である。この間隙を埋める憶測が日常生活であり、作品なら読み手であり観客である。最近「忖度」がもてはやされているが、思いやりや憶測や、気をきかせるやら、目顔でものを言ったりが、好きじゃないが、いや大っ嫌いだが、日本のやり口である。
私はイシグロ作品を読んでいて、この点、とてもわかりやすいし気分が良い。続けて読んでみよう。
著者=前出
訳者=東京出身(1927~2002) 早稲田大学大学院 英米文学翻訳家 中央大学名誉教授
内容=1986年、32歳の時の作品。1987年ウイットブレッド賞受賞作。1948年から1950年間の、日本国内の架空の場所における長編小説。
有名な老画家が、戦後の変動の中、家族、弟子たちのはざまで揺れる心情を描く。自己の自信を支えてくれてきたはずの、もてはやし、敬服してくれた弟子たちが向ける背、疑念なく長として居座っていたはずの家庭、それを支えてくれる礎ともいうべき女たちの、意識せぬ彼への無頓着さや無視する言動が彼を苦しめ、足元を揺るがせる。彼は、7、8歳の孫の一郎を味方に引き寄せようとする、しかもその方法は、男だから共に酒を飲もうというものであったが、これにも娘から手痛い反撃を受けて敗退する。
荒れ果てた往時の純日本風の屋敷、あるいは空襲で荒廃した街、これらが舞台として描かれて、戦争による崩壊が形の上でも、精神の内側でも起こりつつある様相に重ねられている。
感想=この構想をまとめたのが32歳とは恐れ入りました。これは英文で読まないと本当のところはわからない。訳者の親切心が衣を着せていはしないかと憶測したくらいだ。
日本について取材もしただろうし、何よりも家族からの生の情報がふんだんに入る環境であるから、日本人が書いた作品と感じるのが自然だろうが、違う。外国の人は感じないかもしれない、ちょっとした違いが、決定的に日本人ではないと感じさせる。
作品の出来ばえとは関係のない部分であるから、日本人とは違う、と感じた点を幾つか挙げてみよう。
並木、若木、と書く。樹木の名がない、花の季節か若葉の季節かの記述がない。屋敷に日本庭園があり深い池がある。しかし造園された庭池は浅いものであり深い池は存在しない。客間に仏壇があるという。部屋数が相当多い屋敷であるから客間に仏壇は置かない。仏間があるはずだ。少年の一郎が大声で言う「ポパイ・ザ・セーラーマン!」。ご機嫌な男の子の姿である。これはテレビで放映していたポパイの漫画の冒頭のメロディだが、あちらのTV番組だ。
際立つことは会話で、相手の気持ちを尊重し、傷つけぬ配慮のもと、理路整然と自論を進めて行く手順、礼儀正しく穏やかで、品の良い語り口、誤解しようもない正確な表現で、自分の思うところを相手に渡す話し方は、日本、特に家庭では滅多にない。ところが本作では、これがないと成り立たないのである。
例えば小津安二郎の映画を見ると典型的なシーンがいくつもあるが、「だって」と言ったきり俯向く娘。あるいは「そうか……」と言ったなり、遠くにまなざしを投げてじっと黙っている父親、こんなものの連続である。この間隙を埋める憶測が日常生活であり、作品なら読み手であり観客である。最近「忖度」がもてはやされているが、思いやりや憶測や、気をきかせるやら、目顔でものを言ったりが、好きじゃないが、いや大っ嫌いだが、日本のやり口である。
私はイシグロ作品を読んでいて、この点、とてもわかりやすいし気分が良い。続けて読んでみよう。