天、共に在り
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『天、共に在り』副題=アフガニスタン三十年の闘い 著者=中村 哲(なかむら てつ)発行=NHK出版2013年 252頁 ¥1600 サイズ=20cm ISBN9784140816158
著者=1946年福岡生まれ。医師・平和医療団(日本PMS)総院長・日本国内の診療所勤務の後、1984年にパキスタン・ペシャワールに赴任。ハンセン病を中心とした貧困の人々の診療。86年よりアフガニスタン難民のための医療チームを結成、山岳無医村地帯に診療所を3カ所作る。98年に基地病院PMSを設立。診療活動と並行して大干魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保(井戸掘削・地下水路の復旧)に尽力。25キロに及ぶ灌漑用水路を建設。現在も砂嵐や洪水と戦いながら沙漠開拓を進めている。
内容=パキスタン・アフガニスタンで想像を絶する環境の中、支援を続ける医師、中村哲の30年。なぜアフガニスタンへ? というきっかけを語るために生い立ちから入り、現在に至る道のりを、揺るがない人間の根本精神を握りしめつつ語る。
感想=著者を詳しく紹介することが内容を紹介することでもある。モノクロ写真多数。巻末にアフガニスタンと著者に関する年表とペシャワール会の紹介がある。ペシャワール会とは、中村医師とPMSを支援する目的で作られた会。生い立ちのなかから、中村医師が火野葦平の甥であると知った。私が現代小説を読み始めたときに出会った作家の一人だ。自殺した火野葦平の苦悩。世間の誤解。彼がし残したこと、希求していたものは何だったか。ながらく浮遊していた彼の念が、甥の中村哲の身を弱き人々を救う道へ運んだのではないか。感想にはふさわしくないが、そんな思いを強く抱いた。巻末の彼の写真は美しい。目眩がするほどに美しい。
本書には、長い間の行動を基礎に置いた強靱な思想が置かれている。何世紀を経ようが変わらない石のように強固で確実な人間の魂が、石のように在る。何遍も読み返して欲しい重い書物である。ここに珠玉の言葉のいくつかを紹介したいが、その一節を転記します。
「先に述べたように、「戦争と平和」は、若いときから私にとって身近な問題であった。福岡大空襲による父方親族の壊滅、戦争作家と呼ばれることを嫌った伯父・火野葦平の自決、大学時代の米原子力空母寄港−常に米軍が影のようにつきまとってきた。まさか、アフガニスタンまで追いかけてこようとは、夢にも思っていなかった。いま、きな臭い世界情勢、一見勇ましい論調が横行し、軍事力行使も容認しかねない風潮を眺めるにつけ、言葉を失う。平和を願う声もかすれがちである。しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。防備は必ずしも武器によらない。一九九二年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発砲しない方が勇気の要ることを知っている。」
著者=1946年福岡生まれ。医師・平和医療団(日本PMS)総院長・日本国内の診療所勤務の後、1984年にパキスタン・ペシャワールに赴任。ハンセン病を中心とした貧困の人々の診療。86年よりアフガニスタン難民のための医療チームを結成、山岳無医村地帯に診療所を3カ所作る。98年に基地病院PMSを設立。診療活動と並行して大干魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保(井戸掘削・地下水路の復旧)に尽力。25キロに及ぶ灌漑用水路を建設。現在も砂嵐や洪水と戦いながら沙漠開拓を進めている。
内容=パキスタン・アフガニスタンで想像を絶する環境の中、支援を続ける医師、中村哲の30年。なぜアフガニスタンへ? というきっかけを語るために生い立ちから入り、現在に至る道のりを、揺るがない人間の根本精神を握りしめつつ語る。
感想=著者を詳しく紹介することが内容を紹介することでもある。モノクロ写真多数。巻末にアフガニスタンと著者に関する年表とペシャワール会の紹介がある。ペシャワール会とは、中村医師とPMSを支援する目的で作られた会。生い立ちのなかから、中村医師が火野葦平の甥であると知った。私が現代小説を読み始めたときに出会った作家の一人だ。自殺した火野葦平の苦悩。世間の誤解。彼がし残したこと、希求していたものは何だったか。ながらく浮遊していた彼の念が、甥の中村哲の身を弱き人々を救う道へ運んだのではないか。感想にはふさわしくないが、そんな思いを強く抱いた。巻末の彼の写真は美しい。目眩がするほどに美しい。
本書には、長い間の行動を基礎に置いた強靱な思想が置かれている。何世紀を経ようが変わらない石のように強固で確実な人間の魂が、石のように在る。何遍も読み返して欲しい重い書物である。ここに珠玉の言葉のいくつかを紹介したいが、その一節を転記します。
「先に述べたように、「戦争と平和」は、若いときから私にとって身近な問題であった。福岡大空襲による父方親族の壊滅、戦争作家と呼ばれることを嫌った伯父・火野葦平の自決、大学時代の米原子力空母寄港−常に米軍が影のようにつきまとってきた。まさか、アフガニスタンまで追いかけてこようとは、夢にも思っていなかった。いま、きな臭い世界情勢、一見勇ましい論調が横行し、軍事力行使も容認しかねない風潮を眺めるにつけ、言葉を失う。平和を願う声もかすれがちである。しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。防備は必ずしも武器によらない。一九九二年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発砲しない方が勇気の要ることを知っている。」