文房 夢類
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「十六歳の日記」川端康成

書評というよりも作品感想

「十六歳の日記」  川端康成    
          岩波文庫 緑 81-1 『伊豆の踊子・温泉宿』他四編  より    1952年初版
          収録作品  十六歳の日記
                招魂祭一景
                伊豆の踊子
                青い海 黒い海
                春景色
                温泉宿  
                   あとがき   
                   川端康成略年譜
                   あとがきは、著者が書いたもので、6章12頁。
                   年譜は、岩波文庫編集部による。1899年誕生から 1972年自殺まで。

あとがきの初めに、川端康成は、「私の二十代の作品から、ここに六編を選び出した」と書いている。書き始めの時代の作品を読んでみよう。

長い「あとがき」が書かれている。6章、12頁もある「あとがき」だ。
この「あとがき」の第2章に「十六歳の日記」について記されているが、6頁弱、つまりあとがき全体の半分を費やしている。では「十六歳の日記」を紹介します。
 これは十六歳と題名にあるが、これは数え年であり、この日記を書いたのは、満14歳11ヶ月、中学2年生の5月だ。
これは大正3年1914年5月4日から16日までの日記で、祖父が亡くなったのは、5月24日だから、死の8日前までの記録である。

この文章はテープ起こしをしたようなもので、祖父の言葉をそのまま、できる限り正確に写し取った記録だ。それは、あたかも画家が小鳥を、あるいは木の実を写生するような時に、その断片を写生する、そのようなものと見た。
しかし、会話だけではない、祖父と二人暮らしだった康成少年が接していた祖父、世話をしてくれる近所のおばさんの様子なども、克明に描写し、自身の心の内なども記している。
この日記は、25歳の時に『文藝春秋』大正14年8月号に発表している。保存していた日記を、ほとんどそのまま書き写して発表した、と書いている。

昭和23年に、川端康成が全集を出すために編集をしている時に、古い日記類を調べていたところ、この「十六歳の日記」の断片を見つけた、これを、この作品の拾遺として、このあとがきに写しておく、として載せ、ところどころに、その時の事情などを付け加えて解説している。
あとがきに掲載している日記の断片は、発表した日記の最後、5月16日以降の、祖父の亡くなるまでの8日間の間に書かれたものだという。

それは、こんな風だ、
  お常婆さんに宿川原の医者へ走ってもらう。
その留守におみよが言った。
 「旦さん、もう三番(伯父の村)の金で私とこも貰いましたし、小畑の分も津之江(祖父の妹の村)で借って、払いましたよってに、安心しなはれ。」
 「そうか、うれしい。」
  祖父には真に苦中の喜び。
 「安心おしやして、お念仏を申しなはらんといけまへんで。」
 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
  ああ、祖父の命は長くない。この原稿の終るまでは続くまい。おみよのいなかった数日間に、祖父は目に見えて衰えられた。今は死の極印を押されてーー。
  日記の筆を止めて、呆然と祖父死後のことを考える。ああ不幸なる我が身、天にも地にもただひとりになる。

  おみよは、五十前後の百姓女です。毎日朝晩自分の家から通ってきて、煮炊きその他の用事をしてくれました。とカッコ内に説明している。

  私は中学の1、2年頃から小説家を志し、祖父にも話して、許されていた。しかし「十六歳の日記」は「小説」などにかかわりなく、ただ祖父の死の予感におびえて、祖父を写しておきたくなったのだろう。
  そうとしても、死に近い病人の傍(そば)で、それの写生風な日記を書く私は、後から思うと奇怪である。祖父はほとんど盲だったから、私に写生されているとは気づかなかった。

と、あとがきの第2章、最後にある。

大阪の亡き母の兄の家に引き取られて、18歳で一高へ入学。一高生(第一高等学校)の時に伊豆へ旅行。この時旅芸人の一行と道連れになる。
一高から帝国大学、今の東京大学の英文科へ、のちに国文科へ移り卒業する。

2歳で父と、3歳で母と死に別れ、3歳の時に姉と離別して、祖父の家に移るが、7歳の時に祖母が亡くなる。以来、祖父と二人暮らしとなったが、10歳の時に姉も亡くなった。
こうして大阪府茨木市の祖父の家で、二人暮らしとなった14歳の頃の日記だ。

祖父の介護のために、近所の農家の女性、おみよさんと、同じく近所の高齢の女性、お常婆さんの二人が昼間のあいだ来てくれていた。
中学に通う康成は、下校してから朝出かけるまでの介護を担っていたことがわかる。
亡き母の兄と祖父の妹が、おみよさんとお常さんの介護費用を負担してくれていたことも記されている。祖父の亡きあと、康成は、この母の兄の家に引き取られた。
学校にいるときが天国だったと、夜に何回も起こされてシモの世話をするのが嫌だったと、書いている。
おみよさんも、祖父の介護の苦痛を訴える。それは、盲目に加えて痴呆の傾向を持つ、しかも肉体の苦痛が並ではない老人の介護を、介護未経験の素人が全部引き受けているのだから、並大抵の苦労ではなかったはずだ、おみよさんもお常さんも必死で通ってきてくれていたのだとわかる。
この日記から、介護の知識も技術もない、周辺の女性たちの手によって看取られてゆく老人の姿が迫ってくる。今食べたことを忘れる、深夜に突然おみよを呼ぶなど、いま介護されている人々と、そっくり同じ姿が康成の手によって活写されている。

当時も、帝国大学入学は難関だったと聞いている。一高生は帝大を煙突と称し、一高生が自然に吐き出されてゆく先、としていた。ということは、一高生は、帝大生と同じように眩しい存在だったのではないだろうか。
だから「伊豆の踊子」で描かれる一高生の、一目でわかる帽子の輝きは、想像を超えるものだったろう。
中2位の少年が写生した、この文章は、本人は奇怪、というが、本人の意識しないレベルで、天から授かった才能を発揮している。
ピカソが14歳の頃に描いた作品を思うが、彼は、父の特訓を受けていたでしょう。モーツアルトやピカソは、親から英才教育を受けていた人たちだ。
川端安成は、小説家になることを祖父に打ち明けており許されていた、しかし許されただけで、あとは自分の力だけだった。こんな境遇で、よくまあ一高に合格したもんだ、とも思う。

あとがきに記録されている日記断片は、日記発表からのち、何年も経って発見されたものだったが、このような断片が別口に保存されていたということは、日記としてまとめて保存する際に、正式日記とは別口としておいたのだとわかる。
ということは、日記を推敲したかとも思われるし、編集したとも考えられる。すなわち、小説家として立った時の、発表をも視野に入れていたとも考えられる。
思ってもみてほしい、中学2年生の少年のしたことだ。自身が書いたものを粗末にしていない、軽んじていない。覚悟を持って守り、保存に努めている。
私が驚嘆するのは文章の巧拙の問題ではない、この時点での本人の、この覚悟のほどである。






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