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五感にひびく日本語

五感にひびく日本語』著者=中村明(なかむら あきら)発行=青土社2019年 サイズ=19cm 267¥2200 ISBN9784791772360
著者=1935年山形県生まれ 国立国語研究所室長などを経て、早稲田大学名誉教授。日本文体論学会顧問。著書に『日本語の作法』『ユーモアの極意』『日本語笑いの技法辞典』など
内容=日常、人々が用いている言い回し、日本文学に見られる表現などを集めて、慣用句、慣用表現、比喩などに分類、解説。
1章「体ことばの慣用句」頭・顔・足など。第2章「イメージに描く慣用表現」愛嬌がこぼれる・匙を投げるなど。第3章「抽象観念も感覚的に」明暗・寒暖・味覚など。
4章「喜怒哀楽を体感的に」歓喜・悲哀・恐怖・安堵など。第5章「比喩イメージの花ひらく」として、有名小説家たちの文章の片々が集められている。
感想=年来、表現の根の部分について関心がある故に、また、例文を多少集めてもいたために、期待を持って読んだ。
この本は、興味のある部分を読む、拾い読みをするなど、折ふしに開くと楽しめる読本となっている。
これを、もう一歩進めて、使える書物にして欲しかった。索引のないことが、本書をただのお楽しみ本にしてしまったように感じた。
 松尾芭蕉関連の書物は山ほどあるが『諸注評釈 芭蕉俳句大成』岩田九郎 著 明治書院 を開いてみよう。
まず五十音索引がある。俳句の場合、読み方に異説のある句がある。この場合は二つの場所に出している。句形の異なるものは、各々の場所に出している。よって索引から探せない句はない。
さらに巻末に付録として二句索引と三句索引がある。
たとえば「古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のをと」の句の場合は、巻頭の索引を使うことで本文に至ることができるだけでなく、二句目の蛙から本文に至ることができ、三句目の水からも本文を開くことができる仕組みにしつらえてある。
ど忘れして、三句目しか記憶にない句の場合でも、この索引を用いることで願う句に達することができる。
ここで、読み流して終わる本と、頼りにし、感謝しつつ使わせていただく書物との違いが生まれる。
索引のことはこれで終わりとして、年来私が関心を寄せていることが、この本のテーマの近くにあるので、そのことを付け加えたい。

 外国の言葉をカタカナ表現で日本語の文章や話し言葉に挟み、いかにも達者な風を装う輩が跋扈している。たとえばフェーズ。段階に来た、といえば済むのにフェーズと書く。今の都知事はカタカナ好き、その前の慎太郎もカタカナ好きであった。自国の言葉で十分、あるいは十二分に表現できる言葉を、わざとカタカナで言ったり書いたりする。
しかし、これは今に始まった事ではない。実は昔にもあった。昔はカタカナではなく漢字にした。大和言葉に漢字表現を混ぜるのである。
今も政治家の誰彼は大好きで使っているが、例えば「粛々と」。しかも、本来の意味を知らないのか、知っていて使っているのか理解に苦しむ粛々である。

これは頼山陽の漢詩「鞭声粛粛夜過河」から来ているのではないかと思うのだが、川中島の戦いで上杉謙信の軍が敵、武田信玄の軍に気取られぬよう、夜のうちに妻女山を下り千曲川を渡る場面だ。馬に鞭を当てるのも音を潜めて、ひっそりと流れを横切るのである。
これらはすべて目の先の大陸、中国からもたらされた外来語だった。悪いと言っているのではない。日本語にとって豊かな栄養となった。

しかし昨今、政治家たちが「粛々と進めるつもり」などと発言するのを聞くと、「そうか、国民に気取られぬよう、ひっそりと法案を通す気だな?」と思ってしまうのだ。何れにしても「粛々と」はシーンとして、という擬音だろう。
長くなって恐縮ですが、もう一つ。
『箱根八里』鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲 の歌詞に「羊腸の小径は苔滑らか」とある。羊腸とは、羊の腸のことで、山道が曲がりくねって続く様子の例えに使っている。
桜の花びらのように、と書かれているのを読んだら、桜の花びらを目に浮かべる。桜の花を知っていて初めて味わうことができる。例えとは、そういうものだ。
羊腸に例えたら、実際の羊の小腸がどのような形状であるかを目に浮かべることができなかったら路がどのような姿か想像できないと思わないか。明治大正時代の一般市民にとって羊の腸は見たこともないものであり、思い浮かべることが容易であったとは考えられない。
羊自体は古代から日本に入ってきていたから正倉院の御物の中にも見られるのだが、当時は異国の珍獣だった。江戸時代に外国人が商業目的で輸入するが、これも定着しなかった。農業が主体の日本においては、広大な土地を必要とする牧畜は北海道でのみ受け入れられたのだ。
このような比喩を用いたということは、日本の一般の人々の暮らしの中から生まれた例えではなく、中国文学の文字を土台としたオシャレ言葉だったのだろう。「青山峨々として」「松吹く風索索たり」とか。この引き写しの手口が、漢文から英語などの横文字フェーズに入ったということかな。


ところで羊腸を見たことのない今時の人たちでも、心臓は見ている。スーパーの肉売り場で鶏の内臓を仕分けして売っている中に、ハツという名の内臓がある。これが鶏の心臓だ。
しかしこれをハートとは呼ばない。ハツだ。ヴァレンタインのハートとスーパーのハツは別世界に生きている。このことに日本人は気づいていないのではないか。しかし、家畜と共に歴史を刻んできている人々は感覚が違う。
ハートの形への愛着、これは日本人のものではない。日本人にとってのハートは印であり、おもちゃだ。キドニービーンズという名の豆がある。インゲン豆と訳しているが、キドニーとは、この豆の形が腎臓 kidney の形に似ているのでつけられている名である。
物の名、事象の形容に動物やその内臓などを用いる文章を、海外の文学作品にしばしば目にするのは、暮らしの一部として熟知している故だろう。
キドニーといえばドイツの自動車BMWのフロントマスクがキドニーグリルと呼ばれる腎臓の形をしている。左右の腎臓を正面に据えた形だ。エンブレムは黒い縁取りの真円に白抜きの「BMW」、中央の円の中を十字に四等分して青と白に塗り分けたデザイン。映画『小説家を見つけたら』で、この自動車会社の前身が航空機のエンジンメーカーであったこと、十字模様は回転するプロペラを、青と白はバイエルンの青空と白雲をモチーフにしたと、ジャマールが滔々と述べ立てるシーンが印象に残っている。(ここで私はハッと立ち止まる、滔々と、と実感を持って用いたとは!)
日本の暮らしの中の言葉に、心臓や腎臓、腸や肺やらのたとえはないように思うがいかが。
しかし、欧米の小説にはふんだんにあります。誰の、どの作品のどこに、と書き出すと長くなりますので探してみてください。
この、『五感にひびく日本語』の最終章を読み進むと、日本人がいかに四季折々の自然と親密であるかが改めてわかります。
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