文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
November 2019

高齢者の務め その4

今年(2019年)4月、自転車で横断歩道を渡っていた母娘が車にひかれて亡くなり、9人の負傷者を出した、あの東京・池袋の暴走死傷事件で、運転していた男が11月12日になって過失運転致死傷の疑いで書類送検された。
本来なら逮捕されているのではないか、と不審に思われ、なぜ被疑者とせずに本名と肩書きが公表されているのか、と疑問を持たれ、通常の事故とは異なる対応が目立つ事件だ。
家族を2人、一瞬にして失った遺族が、厳罰を求める署名活動を行ったこともある、これは短期間のうちに39万人分の著名を東京地方検察庁に提出している。

交通事故は、馬車の時代から続いてきた。無念極まりない悲劇だが事実だ。桁違いの規模の航空事故もある。
が、この事件に注目が集まり、犠牲者と遺族に対する同情の念と並んで、加害者に対する大きな怒りが収まらない有様は、通常とは異なる要素が含まれているためではないだろうか。
大勢の人々から沸き起こる怒りの感情は加害者の反応に対するもので、この怒りは健全さの表れだと思う。
加害者の何に対して怒っているか。予約したレストランへ向かうために車を急がせていたという。
この事実は、半年も経った頃になってようやく白状したものだが、これは実は、どうでも良いことだ、気持ちが急いていたために起こす事故は多い。
このことよりも、事故直後に彼がとった行動は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
報道によれば、彼は事故発生直後、即、自宅の電話番号を取り替えている。保険会社その他関係方面へ連絡、事故現場にはダークスーツの男性が数人以上、素早く駆けつけて対処行動をとりつつある情景が報道された。
こうした姿は映像に記録されてしまうから、口先で否定しても役に立たないのだが、この男は口先を用いて生きてきた経験則から、すべてをのらりくらりと言い逃れを試みている有様までが報道された。
考えてもみてほしい。
事故った直後に事故の重大性を認識、その上で被害者への行動を一切とることなく、自分の息子に電話連絡をして身の保全を図ったのである。
医師から膝の故障を指摘され、運転を控えるよう指摘されていたことも判明した。しかし当初の供述は、ブレーキが効かなかった、というものだった。
その後、ブレーキについての検証、ドライブレコーダーの記録の分析などがなされた結果、ブレーキとアクセルの踏み間違えが事故原因だと判明、断定された。
この男は、それでもまだ車のせいにして、「パニックになってアクセルとブレーキを踏み間違えた可能性もある」などと逃げ回ることを諦めない。決して認める発言をしないという。
警視庁は書類送検にあたり、この男が容疑を認めているかを明らかにしていないことからも、まだ逃げ回る気持ちを持ち続けているのではないかと思われる。自分の口から認めたと言わないことが有利に働くという計算か。
自分が殺してしまった若い母と娘に対しての気持ちが、欠片ほども現れていない犯人の挨拶言葉が発表された。しかも将来の車の性能がもっと良くなるようにと注文まで付け加えている。

言葉とは、なんと正直なものだろう。どこからか拾ってきたお悔やみの言葉を並べても、それはプリントされた無機質な文字であり、一文字として生きてはいない、そのことがわかってしまうのが健全な心なのだ。
だから、この男の言動すべてが火に油を注いでいる。
現場検証に立ち会う男の姿には、弱々しい老人の姿をいかに増幅してみせようかと努力している様がまざまざと見えている。若い者は、この姿に騙されるかもしれないが、同年輩の目はごまかすことはできない。
彼は有利になるようにと装っていた。不必要な長期入院生活の挙句の、芝居がかった物腰。唾棄すべき態度だ。

一所懸命に生きている高齢者の務めとして、この件をどのように考えようか。
残念ながら高齢の人々の発言手段は前世紀の段階で足踏みをしている。新聞社の投書欄にハガキ投書を試みるのが精いっぱいだ。アップするなんて、なかなか。炎上しても、その場に行かれない。
たいては夕食の時に、誰彼が喋り終わった後に、ぽつりと呟く程度が精いっぱい。
ああ。夕食の時に誰彼が、テーブルにいる? ここでもまた、いない、いない、というつぶやきが聞こえる。
沈黙の高齢者は、沈黙しているから中身がないのではない、内蔵している高齢者ならではの視点と感覚を、なんとかして世に出したい。

要らぬお節介かもしれないが

お節介か、姑根性かわからないが、黙っていられないということは、多少の関心を寄せていることの証左かもしれない。
天皇について。
大嘗祭が終わり、天皇が挨拶をされた。その時に思いついたことを話すのではない、用意した文章を読み上げるのである。
丁寧に、落ち着いて述べられ、終わった。
終わった、そのとき天皇陛下は背筋を伸ばし頭を立て、聞き入る人びとの上に、穏やかな視線を向けた。堂々、見事な一瞬であるが、なんとも「だらしがなかった」。
言葉の最後の一文字を発し終えたとき、彼は口を閉じることをしなかったのであった。
半開きの上下の唇の間から白い歯と、濡れた口の中が映し出されて1秒、2秒、そしてもっと。やがて報道の映像は切り替わってしまった。口を閉じなかったことに、この、還暦近い男は気づいていない。
だらしない。締まりがない。ボンクラに見える。なんてことだ。情けないったらない。これでなんの象徴か。みっともない。もしかしてバカ丸出しか。

日本から天皇が消えるか、存続するか。日本人にとって、この問題は深い関心の元に賛否両論が続いている。
どちらが良い、よくないの問題よりも前に、第一にあるべきは天皇が天皇であることだ。妻子、兄弟も甥姪も、一族がおしなべて天皇一族でなければ話が始まらない。
今回の一連の儀式の報道を見た限りの、巨象の一部分であることは言うまでもないが、天皇周辺を固める近縁の人物群の中で、皇室人としての安定感を持って映っていたのは常陸宮夫妻と麻生太郎夫妻だった。
常陸宮妃の姿が久々に映された。なんとデカイ顔をして生きてこられたことか、あのお嫁入りの時から今までを。堂々、揺るぎない土台の上に立っている人相であった。

改めて虚心に、古代の歴史を勉強しなければならない。
単純なフェミニズム思想に覆われてしまっては、本質が隠れてしまう部分があると考えている。
歴史と考古学の接点の融合はもとより、あらゆる分野が連結しなければ見えてこないものが、あまりにも多い。
動物行動学の面から、人間女性の力を研究してもらいたいと願う。
その先に仮説として見ているものは、母の力の大きさ、重さ、強暴とも言える底力だ。
もしかすると、美智子皇太后、雅子皇后、そして秋篠宮妃の3人が皇室の本質を溶かしてしまうのではないか。これは愚考か妄想か。

悟った!

長年、座禅に関心を寄せており、今までに座禅をする機会に恵まれたことが二回あった。
が、それぞれ具体的な不可能理由が生じて中止していたが、改めて接することになった座禅は続いている。今回はお寺に行かず、御坊様にも会わず、テキストとVTRのみという座学である。
実際にお寺で経験していることが土台にあるお陰にちがいない、一日も欠かさず続けてこられて最近では、これがないと、その日が始まらない気持ちになってしまった。
一日一回の座禅が安定したならば、夜明けと日暮れどきに、つまりお寺の鐘が鳴らされる朝夕に行いたいと願っている。
続けてみて初めて発見できる事柄が多い。テキストの師家は山川宗玄という、私よりずっと若い御坊様だが、話すことの端々に宝物がたくさん転がっている。
端々ではない、中心に置かれるものは、それこそ大切な宝物なのだが、それ以外にも、という意味だ。
合理的にできているんです、とおっしゃる。これが、わかってくる。わかってくるのが面白いし嬉しい。
座禅という行為が世間で言われる無念無想というキャッチフレーズに覆われて見えない部分、身体を整えるため、呼吸を整えるため、という、この二つの部分が如何に大切か、このためだけに座禅をしても良いくらいだと身にしみてきた。
山川師家は椅子座禅もお勧めになる。
仏教はインド生まれだから、インド人の体格に向く修行方法なのだ、足を、あのように組むのは日本人の体格には元来不向き、座禅はヨガの一形態なのだという。これは無理にするべき体型ではないと安心した。
座禅の基本は、健康体を作ることにあるのだな、と「悟った」。
食べ物も、土地の野菜と米、そして多様な豆類だ。これに海藻が加わっているようにも見える。僧坊の食事時間は早朝と正午の二回で、夜に薬石という名の軽い食事がつくという。
アラビア人の食事時間が夜明けと正午の二回だという話を読んだことがあるが、この習慣と重なるものがある。夜の食事を軽くすることもまた、健康に良いのではなかろうか。
などと思い巡らせた結果、お坊様が長命であることは決して偶然ではない、と「悟った」。
僧坊の真似をして濡れ雑巾で拭き掃除をする。棒の先に板っきれをつけたものに、不職布のようなシートをつけて拭き回れば楽々なのだが、楽をして身体を怠けさせて何か良いことがあるのだろうか。
フィットネスクラブに入って白ネズミが輪車の中を駆け回るようなことをやって時を過ごし、家ではじっと動かない暮らしって、私には向いていない。
最近嘆かわしいことは、抜け毛が激しいことだ。白髪が目立つ、あっちにもこっちにも落ちている。ブラッシングしてたくさん抜け毛があるのに、まだ抜けるつもりか、と呆れてしまうが止まない。
今の季節、秋は猫の毛は増える一方で抜け毛は皆無に近い。春先には大量に抜けるために掃除に困難を極めるが、この問題は横に置いておいて、人間の抜け毛だけを思うとき、ハタと「悟った」。
お坊様が坊主頭であることは合理的なのだ。僧坊がいかに広くとも、大勢の坊さんたちが長髪で修行をしていたら、掃除が桁違いに大変だろう。
座禅は興味が尽きない、次々に悟ることができる。

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