文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

時を知る

人と他の生き物との違いは、人が時の流れを知る点だ。動物は季節は知っている、渡りの時、繁殖の季節など。季と時はちがう。人が人に殺意を抱き、殺しもすることができるのは「時の流れ」を知ったからだ。人を殺すということは、その人の「時」を停めること、その人の未来の「時」を殺すことだ。
人以外の動物には、同胞を殺さないDNAが備わっいるという。生きるために動物を食べる必要のある肉食動物には、肉食の本能と並んで、殺しを抑制する本能が備わっているという。ゆえに、必要以上の殺戮をしないのだという。人間には、必要以上の殺しを抑制する本能が備わっていないという。いうなれば欠落している。人間は、不完全な生き物なのだと学者は説く。
なる程、そういうものか、と納得するけれども、それに加えて、人が、人に対して「生かしちゃ、おけない」という強烈な想念を噴出させるとき、その底には、「他者の持つ時を殺したい」という欲望が渦巻いているのではないか。これでは、一人殺して満足できるはずもない。際限ない殺戮へなだれ込む原因の一つに「時」がありはしないか。
一方、「時」を知る故に、長生きを望むこともする。自分が死んだ後のことまで、計画したりする者もいる。個人の寿命を越えた世界を思い、放射能について心配する。
いま現在の「時」を越えて、さらに遙か遠い時へも思いを馳せることができるのが人間だと思う。「時」を知る能力をもらった人間、自分の役職の任期を越え、自分の寿命を越え、子々孫々の、その先までも思いを馳せることができる能力を、有意義に用いたい。目先の利害を超越して、原発の将来を想像して欲しい。
最近は、日本人衰退から消滅へ。地球人類の終焉が見えてきた、それは「核」を弄んだ故だ、という言説を耳にするようになってきた。これらの悲観的な展望を否定できない現在である。しかし人は、よい時を作り出せる力を持っているはずだ。いまは春、あっちでも、こっちでも、よい時の種を蒔きたい。


ブラックボックス

ブラックボックスという名前を知ったのは、航空機事故のときだった。これを事故現場から回収すると、いろいろな情報が読み取れるというので、それは凄いことだなあ、と感心した。これは旅客機に装備されているものであり、黒いどころか真っ赤だった。ブラックボックスというのは、箱の内容物が隠蔽、封印されていることを、ブラックホールなどのように喩えて表現したものだった。
これをきっかけに暮らしまわりのものを見たら、開くことができない箱、たとえこじ開けてみたところでちんぷんかんぷん、なにがなにやら分からないものが沢山あった。気がついたときはすでにブラックボックスなしには成り立たない暮らしになっていた。キーボード、マウス、リモコン、あらゆるボタン、みんな中身が分からないのに便利に使っている。自動車も自分でいじることができたのは大昔のことで、ボンネットを開けてもほとんど何もできない。あらゆる機械ものを修理に出しても、受けた側ができることは部品交換だけだ。ガレージでも電気店でも、部品が来るまでお待ちください、という始末で、技術者なんか不要になってきた。
利用は、あくまでも簡単になり、これなしには生活が成り立たない、という機械ものに囲まれて暮らすようになってしまった。
ブラックボックスが消滅したら? という世界を想像して、これに立ち向かえる能力を鍛えておこうと思う。
福島第一原発事故。4年経った。風化させるな、と声を上げる者がいるが、風化どころか緩慢な、見えない汚染は広がり続けていて、日増しに深刻な状況に陥っているのが現状だ。まだ、故郷へ帰れない人たちがいます、はやく帰れますように。という目先の優しさは、本当の手助けではないと私は信じている。結果は、孫、曾孫のその末にでるのを、承知の上ではやし立てて復興を勧めているのは誰なのか、なぜ勧めるのか、考えなければいけない。故意に放射能被害をブラックボックスに閉じ込めようとしている政策を許してはならない。この箱を作らせないようにするのは、事実を事実としてみる視力だ。見ず、清し、では済まされない。
広島、長崎の犠牲者たちが福島の上空に蝟集し、破滅的惨状のブラックボックスを見下ろし、わたしたちは、これに殺されたのだよ、と伝えている声が聞こえないか? 
見えないもの、触れることのできないもの、ブラックボックスが生活を支える一方で、ブラックボックスは、取り返しのつかない災厄を及ぼした。人の死を食い止めるブラックボックスはない。普通の人々を和ませ、安心して生きていられるようにする力は、ブラックボックスにはない。普通の人たちの、普通の感覚が世界を救うはず。

旧市街

久しぶりに東京、町田の旧市街を歩いた。来る度に店が入れ替わり、個人経営の店が消えて企業のチェーン店が増えてゆく。入れ替わりがうまくいっているのだろう、混雑していて、いつ行っても高校生くらいの子が道一杯に歩いている。歩道も車道も区別がない道、真ん中を這うように車が通る。好きな通りだ。
マメと雑穀を売る店でマメを買った。小鳥用のヒマワリの種なども売っている店。近くにウナギの寝床がある。この道路と平行する道をつなぐ横筋の細道のことで、入り口は雑貨屋、なかはラーメン屋、飲み屋、古着屋、佃煮屋、惣菜屋、八百屋、魚屋、豆腐屋もある。魚屋は真っ赤に染めたタラコ、タコを並べている。昭和の味がしそうだ。インドの雑貨小物を売る店、骸骨なんかがついているブレスなどを並べる店もある。昼飯屋もあるが、こうした食べさせる店は、せいぜいがスツール3つ程度のカウンターの店。シモキタの昔と似ている。見慣れない店があった。垂れ布の隙間から、小机を挟んで向き合う女性ふたりがみえた。こちらを向いているのが占い師で、背が見えるのが客らしい。10分千円と看板が立てかけてあった。スパゲティを茹でる時間が、私の場合12分だから、ゆであがる前に終わりだ。私は貧乏性だから、時間が気になって上の空になりそう。町の占いでは学割が効く店は知っているけれど、これは初めてだった。
別建ての話に逸れて恐縮ですが、占い師と客の関係は興味深い。客が問う。それに答える占い師。インタビューも同じ事だけれど、一見、答える側が内蔵する、所有する、我が身の一部を取りだして、相手に渡す形である。私が思うに、それは表面上のことであり、問う者のほうが自身をさらけ出してしまうものなのだ。これは一対一の真剣勝負と言ってよい。3人いたら成り立たない。にらめっこで問答するうちに、問う者はハダカにされている。素肌が見えるし、体重も分かってしまう。なにもかも丸見えになる。しかも真剣に問う者ほど、丸見えになっていることに気付かない。優れた占者が言い当てることができるのは、この腕力、人間力ゆえであって、超能力など関係ないのだ、と最近になって気付いた。
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