文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
November 2018

千年一日の如し

どの国の人々にも、歩み、背負ってきた過去があって、意識下でそれを抱えた上での、今現在の判断があるのではないか。
こんな当たり前のことを改めて言うのは、最近の健康への強い関心の中で、究極の願いとしてあげられている二つのことを思う故だ。
その一つはピンピンコロリと死にたいという願い。もう一つは孤独死は嫌だという拒否感。
いいけど、この二つは矛盾した願いではないかしら。だって道を歩いていて発作が起こり、ころりと死んだとしたら初めの願いは達せられるが、孤独死が付いてくるでしょう。
わかっているけれど、二つ並べて念仏のように唱えるのは、その昔に、日本にはぽっくり寺というものがあり、今でも繁盛しており、元気いっぱいで暮らし、ある日突然、ポックリと死ぬことを願ってきたからだ。
もう一つの方は、伏せっている周りを取り囲んでもらい、息をひきとる姿こそ最上の死に方であるという観念が染み付いているからではないか。
「あいつは畳の上で死ねない」という言い方がある通り、悪事を重ねないまでも付き合いが悪くて、皆々に看取ってもらえない奴にはなりたくないという思いが孤独死を嫌がる気持ちに含まれていないだろうか。
この二つは医学が発達する以前から日本の風土に染み付いていて、イイモンは苦しまず、見守られて死ねる、悪モンはヒトリ寂しく死んでゆく、という因果応報の刷り込みだろう。
どれほど医学が進歩しても、究極の願いとなると原点に回帰するのではないか。ま、心のけもの道か。

万人が関わる生死については、こんなものさ、と茶飲話にしているが、このところ話題の日産ルノーの事件では、ふと長屋王の事件を思い出した。
古代と言って良い聖武天皇の時代の事件だ。
突然、一つの密告から始まり、長屋王とその一族が、あっという間に壊滅した事件だ。
折しも藤原一族が台頭してきている時代で、この事件を節目に藤原四兄弟の世となってゆくのだが、長屋王一族の中で、藤原家から嫁していた女だけが助けてもらっている。
この露骨なやり方は、当時はメディアがなかったにもかかわらず、一般人にも情報が浸透して行ったものと思われる。
一等地にあった長屋王の大邸宅跡は長い間放置されて、怨霊の祟りの数々が染み渡って行った。実際、この事件の後、藤原四兄弟は疱瘡に罹病して四人とも死ぬのである。
平城、平安の京の時代に怨霊が跋扈したのは、施政者側が怨霊や呪詛を用いて政敵を抹殺し、一方の一般人もまた怨霊のせいにして世の不条理に対して声を上げた、
つまり怨霊が存在して、これを恐怖しているものとは、誰も思っていなかったのだろうと思っている。怨霊は道具だった、と思う。
密告と突然の逮捕。本来なら自社の不祥事であるから恥ずべき騒ぎだ、鎮痛な表情であるのが自然だろうが日産の社長は、晴れ晴れと笑みを湛えていた。
これが、今まで通りに日本国内の事件で終わりになるのならば、数え上げるまでもない数々の同類事件の積み重ねの一つとなるだろうが、
今回は「昔」を共有しない外国が絡んでいる。
千何百年前の怨霊の代わりに、法律を使おうが、三権分立をひっくり返そうが、それだけでは収まらないのではないか。
「昔」の持つ力は根が深い。諸外国は根なし草ではない。それぞれの国に、それぞれの異なる昔の根があるのだ。

アウン=サン=スーチーさん

アウン=サン=スーチーさん。いつも同じヘアスタイル、うなじにまとめた髪に花かざりの、細面の美しい人だ。
あの、とんでもなく長い間の幽閉生活の中でも、花の香りを失わず、明るい表情を保ち続けてきた、この政治家に、遠くから声援を送ってきた。
だが、最近のスーチーさんの表情は険しく暗い。今こそ自由に活躍できる立場であろう、ノーベル平和賞ほか数々の受賞などに励まされても来ただろう。
それが国際社会から批判されて、ノーベル賞も返してもらおう、という声まで上がってきている昨今だ。
遅ればせながら、ロヒンギャについて勉強、ほどではないが知識を増やそうと努力している。
まだ勉強途上だけれどスーチーさんは、ノーベル賞を返せ、という声に対して、賞などはどうなってもいいと反応している。
難民として世界中が把握しているロヒンギャと呼ばれる人々に対して、ミャンマーの人たちとスーチーさんは、計り知れない多くの情報と経験を持っているはすだ。
暗く、険しい表情のスーチーさんは、国際社会から非難を浴び続けているが、一方、国内では絶大な信頼と共感を得ている現在というものがある。
スーチーさんは、自分の名誉などを放り出してでも守りたい、守ろうとしている何かがあるのだ。国際社会の人びとには、これが見えてこない。

粘る力のあるスーチーさんだ、国際社会がもっと深く事実を知るまで我慢を続けるしかないだろう。
単純に助けたのでは、国民が収まらないものがあるに違いない。
このことと関係するかなあ、と首をひねって思案するのが宗教問題だ。
ミャンマーは、ほとんどの国民が仏教を信ずるが、ロヒンギャの人たちはイスラムだ。
イスラム教徒で多産のロヒンギャの人々が、婚姻により国を侵食することを懸念しているミャンマーの人々の恐怖心を、風評と片付けて無視することは危険ではないか。
恐怖心ほど、人の心を行動に走らせるものはない。また、風評ほど、人の心に食い入りやすい「知らせ」はない、と私は思う。
なぜなら人は、信じたいものを信じようとするからだ。確実な情報源を持つ情報の声は、いつも静かで低い。
おまけにタチの悪いことに、時には風評が事実だったりするのだ。戦時中の「口コミ」当時は噂話と言ったが、正しかったことが数知れないのである。
それは政府が事実を隠蔽したり曲げて伝えるからで、元はと言えば国が最大の元凶なのだ。だからこれからもフェイクをテイクする人は増える一方だ。

彼らが、どうして仏教なり、イスラムなり、宗教に浸っているのか。心の救済を求めているのではないか。
一方、日本も欧米諸国も、宗教に対して低温状態である。衣食過多の物質文明の中で心が失われているのではないか。満たされているわけじゃなくて。
宗教に何を求めているのか、なぜ、宗教がどうでも良いのか、ロヒンギャ問題の底辺には、この問題が横たわっているのではないか。
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