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壺猫

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May 2017

子育てと言うけれど

子育てというけれど、私は子守りという言い方のほうが好きだ。
歌だって、子守唄というではないか。子育て歌ではない。
子は、守ることが必要で、守れば育つ力は子の中から湧いてくる。

今の世で、保育所の充実に背を向ける考え方は容れられず、うっかり反対意見を出したら袋叩きにあうやもしれぬ。
男女雇用均等の普及と労働力を必要としている社会の現状をみるに、乳幼児の母が働きやすい環境を整えることは緊急必須の事柄なのだ、夫婦二人して働かなければ暮らしていけない。でもでも、どうしても子を産み育てたい。そういうふたりにとって、どれほど保育の場が必要か、考えなくたって分かる。見なくたって身にしみる。
それは重々理解できるが、百人が百人、千人が千人、ひとり残らず同じ方向に流れる考え方には、ちょっと待ってくれと言いたい部分がある。
それは、本能のなせる力に押されて子を産み守り育てるという生き物としての原点を直視してみてほしいということだ。
人間である以前の生き物としての原点を、思考力を使って頭の中からどこかへ放り投げてしまい、今現在、自分が暮らしている社会の合理的経済的、しかも快楽的要素をも加えた利点に絞って解決しようとしているように感じられてならない。
命、命。命の大切さを尊さを、ことあるごとに言葉にするけれど、言葉にふさわしい行いをしているかどうか。子供を預かる側の緊張感は並大抵ではない一方、まるで処理しなければならない事案を解決しようとしているオフィスの人間、あるいは苗床の世話、養魚場の世話をしている、要するにモノ扱いをしている業者のように見えてしまう保育所もある。
24時間途切れることなく続く「子守」から、ほんの一時を解放された母親の「のびのび感」を私は、山中湖の白鳥のお母さんの抱卵で目の当たりにした。お父さんがタッチしてくれて自由になれたひとときの嬉しさ。
一方、預けたくはない姑に横取りされるみたいに抱かれてゆく「私の赤ちゃん」を見送りながら不安で一杯になってしまう母になりたての女の姿も目に浮かぶのだ。先日も深大寺にお宮参りをしている若夫婦とその親夫婦、多分夫の両親だろうーを見たが、おぼつかない足取りで赤ちゃんを抱く和服姿の新祖母を不安げに見つめる新母の眼差しが、私にはとても辛かった。
せめて3年保育に入れるまでは、母と24時間を過ごせるようにできないだろうか。その間の暮らしを国が助けてくれたらと勝手な空想をしてしまう。
2人の子を育てたら4年間は子と過ごせる。記憶に残らない時期かもしれないが、かけがえのない時期ではないかと思うのだ。個人差はあるだろうが、小さな赤ちゃんを自分の腕の中で守りたいという本能は、誰がなんといっても潰してはならないと思っている。繰り返しになるけれど、子供のことに思いを集めるだけでなく母の本能を無視しないで欲しいと願っている。

真似、学ぶ

「真似する」という言葉と「学ぶ」という言葉は、合体してもいいんじゃないか、とさえ思うことがある。
サル真似という。これは上っ面を真似することで、揶揄する響きがある。コピーキャットcopy catという。これも他人の行動、服装、考え方から何でも真似をする人のことを言う。子どもたちが真似っこをするとき、からかって使っていたが、これは英語で通用する表現で、日本では使わないのかもしれない。
ともかく、猫が人真似することを言うのだが、猿と猫の仲間に烏を入れてあげたいというのが本文の趣旨であります。

真似をすることで学習する。記憶して使う。さらに教える。サルもネコも、そしてカラスも、これをする。

私はサルと付き合ったことがないので何も言えないから言わないことにして、ネコは何匹か付き合いがあり、今も富士とマルオと付き合っているから、多少のことは言える。富士は人工的に繁殖させられたネコであった。誕生前から人の手のうちにいて清潔なタオルに包まれて育ってきた。今も室内にいて、散歩に出るときはリードをつけている。いつも私との二人暮らしであるから、ネコ同士の付き合いは自由ネコのマルオとの網戸越しに限られる。富士は、わずかの時間の網戸越しの付き合いからマルオのすることを観察して覚え、後で真似をしてみることを始めた。マルオには食後の習慣がある。満腹すると正座して、片手を使い顔を洗う。耳の後ろに手を回して鼻先までを丁寧に清掃する。左右しっかり行う。これが終わると手のひらを舐める。犬と違って手のひら返しができるので、爪の根元も綺麗に掃除する。長々と顔を洗うマルオを眺めていた富士は、ある時からマルオそっくりの仕草で顔を洗うようになった。富士は、これをしなかったのだ、長い間。知らなかったのだ、顔を洗うということを。
仲間から学ぶことがたくさんあるに違いない、富士は、顔を洗えるようにはなったが、今のままの交流態度だったら、まず猫社会には入れないだろう。社交ができない。マルオを眺めて仔細に観察し、真似はするが、近寄ってくると大口を開けて威嚇する。恐れている。付き合いの経験がないから恐怖しか抱くことができない。
幼い頃から仲間とともにいることが、どれほどの物をもたらすか驚嘆する。これは他人事ではない。

カラスとは長い付き合いをしてきた。二階のベランダに雨水を貯めている水槽がある。この水槽でカラスが水浴びをする。カラスの行水というのは、入浴時間が短いことのたとえだけれど、野生のカラスは水浴びが大好きだ。良い水場があれば毎日水浴びをする。子連れのカラスが来た時、親が水浴びをしてフェンスの柵に戻った。巣立ちをしたばかりの子ガラスは初めての水場で、柵から見下ろすばかりである。何度も何度も、親ガラスは水浴びをして見せて柵に戻る。根気よく繰り返す親ガラス。じっと見おろす子ガラス。それを物陰からじっと見つめる私。
これはヒトの時間ではないのだ、カラスの時間が流れているのだから、私にとっては痺れる長さだが、カラスはこともなげに続ける。そうして。ついに子ガラスが不器用ながらも水槽に飛び込んだ。
ヤッタァ、と喜んだのは私で、親ガラスは、生まれて初めての水浴びを味わっている子ガラスを残して晴れ晴れと飛び去っていった。
翌日からは、一緒の水浴びになった。教えたのだ、学んだのだ。

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