真似、学ぶ
12-05-17 11:03 更新 カテゴリ:文学
「真似する」という言葉と「学ぶ」という言葉は、合体してもいいんじゃないか、とさえ思うことがある。
サル真似という。これは上っ面を真似することで、揶揄する響きがある。コピーキャットcopy catという。これも他人の行動、服装、考え方から何でも真似をする人のことを言う。子どもたちが真似っこをするとき、からかって使っていたが、これは英語で通用する表現で、日本では使わないのかもしれない。
ともかく、猫が人真似することを言うのだが、猿と猫の仲間に烏を入れてあげたいというのが本文の趣旨であります。
真似をすることで学習する。記憶して使う。さらに教える。サルもネコも、そしてカラスも、これをする。
私はサルと付き合ったことがないので何も言えないから言わないことにして、ネコは何匹か付き合いがあり、今も富士とマルオと付き合っているから、多少のことは言える。富士は人工的に繁殖させられたネコであった。誕生前から人の手のうちにいて清潔なタオルに包まれて育ってきた。今も室内にいて、散歩に出るときはリードをつけている。いつも私との二人暮らしであるから、ネコ同士の付き合いは自由ネコのマルオとの網戸越しに限られる。富士は、わずかの時間の網戸越しの付き合いからマルオのすることを観察して覚え、後で真似をしてみることを始めた。マルオには食後の習慣がある。満腹すると正座して、片手を使い顔を洗う。耳の後ろに手を回して鼻先までを丁寧に清掃する。左右しっかり行う。これが終わると手のひらを舐める。犬と違って手のひら返しができるので、爪の根元も綺麗に掃除する。長々と顔を洗うマルオを眺めていた富士は、ある時からマルオそっくりの仕草で顔を洗うようになった。富士は、これをしなかったのだ、長い間。知らなかったのだ、顔を洗うということを。
仲間から学ぶことがたくさんあるに違いない、富士は、顔を洗えるようにはなったが、今のままの交流態度だったら、まず猫社会には入れないだろう。社交ができない。マルオを眺めて仔細に観察し、真似はするが、近寄ってくると大口を開けて威嚇する。恐れている。付き合いの経験がないから恐怖しか抱くことができない。
幼い頃から仲間とともにいることが、どれほどの物をもたらすか驚嘆する。これは他人事ではない。
カラスとは長い付き合いをしてきた。二階のベランダに雨水を貯めている水槽がある。この水槽でカラスが水浴びをする。カラスの行水というのは、入浴時間が短いことのたとえだけれど、野生のカラスは水浴びが大好きだ。良い水場があれば毎日水浴びをする。子連れのカラスが来た時、親が水浴びをしてフェンスの柵に戻った。巣立ちをしたばかりの子ガラスは初めての水場で、柵から見下ろすばかりである。何度も何度も、親ガラスは水浴びをして見せて柵に戻る。根気よく繰り返す親ガラス。じっと見おろす子ガラス。それを物陰からじっと見つめる私。
これはヒトの時間ではないのだ、カラスの時間が流れているのだから、私にとっては痺れる長さだが、カラスはこともなげに続ける。そうして。ついに子ガラスが不器用ながらも水槽に飛び込んだ。
ヤッタァ、と喜んだのは私で、親ガラスは、生まれて初めての水浴びを味わっている子ガラスを残して晴れ晴れと飛び去っていった。
翌日からは、一緒の水浴びになった。教えたのだ、学んだのだ。
サル真似という。これは上っ面を真似することで、揶揄する響きがある。コピーキャットcopy catという。これも他人の行動、服装、考え方から何でも真似をする人のことを言う。子どもたちが真似っこをするとき、からかって使っていたが、これは英語で通用する表現で、日本では使わないのかもしれない。
ともかく、猫が人真似することを言うのだが、猿と猫の仲間に烏を入れてあげたいというのが本文の趣旨であります。
真似をすることで学習する。記憶して使う。さらに教える。サルもネコも、そしてカラスも、これをする。
私はサルと付き合ったことがないので何も言えないから言わないことにして、ネコは何匹か付き合いがあり、今も富士とマルオと付き合っているから、多少のことは言える。富士は人工的に繁殖させられたネコであった。誕生前から人の手のうちにいて清潔なタオルに包まれて育ってきた。今も室内にいて、散歩に出るときはリードをつけている。いつも私との二人暮らしであるから、ネコ同士の付き合いは自由ネコのマルオとの網戸越しに限られる。富士は、わずかの時間の網戸越しの付き合いからマルオのすることを観察して覚え、後で真似をしてみることを始めた。マルオには食後の習慣がある。満腹すると正座して、片手を使い顔を洗う。耳の後ろに手を回して鼻先までを丁寧に清掃する。左右しっかり行う。これが終わると手のひらを舐める。犬と違って手のひら返しができるので、爪の根元も綺麗に掃除する。長々と顔を洗うマルオを眺めていた富士は、ある時からマルオそっくりの仕草で顔を洗うようになった。富士は、これをしなかったのだ、長い間。知らなかったのだ、顔を洗うということを。
仲間から学ぶことがたくさんあるに違いない、富士は、顔を洗えるようにはなったが、今のままの交流態度だったら、まず猫社会には入れないだろう。社交ができない。マルオを眺めて仔細に観察し、真似はするが、近寄ってくると大口を開けて威嚇する。恐れている。付き合いの経験がないから恐怖しか抱くことができない。
幼い頃から仲間とともにいることが、どれほどの物をもたらすか驚嘆する。これは他人事ではない。
カラスとは長い付き合いをしてきた。二階のベランダに雨水を貯めている水槽がある。この水槽でカラスが水浴びをする。カラスの行水というのは、入浴時間が短いことのたとえだけれど、野生のカラスは水浴びが大好きだ。良い水場があれば毎日水浴びをする。子連れのカラスが来た時、親が水浴びをしてフェンスの柵に戻った。巣立ちをしたばかりの子ガラスは初めての水場で、柵から見下ろすばかりである。何度も何度も、親ガラスは水浴びをして見せて柵に戻る。根気よく繰り返す親ガラス。じっと見おろす子ガラス。それを物陰からじっと見つめる私。
これはヒトの時間ではないのだ、カラスの時間が流れているのだから、私にとっては痺れる長さだが、カラスはこともなげに続ける。そうして。ついに子ガラスが不器用ながらも水槽に飛び込んだ。
ヤッタァ、と喜んだのは私で、親ガラスは、生まれて初めての水浴びを味わっている子ガラスを残して晴れ晴れと飛び去っていった。
翌日からは、一緒の水浴びになった。教えたのだ、学んだのだ。