文房 夢類
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壺猫

文房 夢類
January 2017

自分とつきあう

壺猫 明けましておめでとうございます。
猫の目のように変わるという諺があり、状況が目まぐるしく変化するような時の例えに使われる。
実際、壺猫の目玉も、富士猫の目も、糸のように細くなったり暗闇では前開の円にかわる。人の目は不動で、眩しい時は目をほそめるだけだ。人の目は不動、そうして物事をありのままに見て事実を正確につかむことができると信じてきた。りんごはいつもりんごに見えるし、ミカンはいつもミカンに見える。
鏡を見ると自分が映る。それは長い間ほとんど毎日向き合ってきた鏡の中の私だ。鏡よ鏡、鏡さん、と鏡の中の自分に向かって声をかけたことは一度もない。わかりきっている自分自身なのだから疑念が湧くはずがない。そこには正真正銘の自分自身が映っているだけである。
今年の初めにあたり、私はこれに深い疑いを抱いた。いったい私は、今現在の、ありのままの自分を見ているのだろうか、鏡の中に。
というのは、鏡の中に見た自分と、何人かで撮った写真の中の自分の顔が、あまりにも違いすぎる。皆で撮った写真の中の、周りの人たちの顔は実物と同じに撮れている、私だけがたいそうな年寄りで、しわしわのシワだらけで、たしか以前は、もう少し丸顔だったはずなのに、やたらと垂れ下がった長顔の、みすぼらしい老女そのものだ。私って、こんなはずじゃない。ヘンだ。なんなんだ、これは。これが不満で写真を撮ってもらうのが面白くなくなった。いつから写真写りが悪くなったのかしら。
年の初めに、こんなことを思い巡らせた挙句、しぶしぶ認めたことは、私の目が事実を見ていないという現実だった。
鏡の中の私は、湯気で曇ったのか目がかすんだのか、シワひとつなく、誰にも向けたことのないような優しげな眼差しで私を見つめ返している。これは記憶の顔なのだった。願いの顔、希望の顔、と言ってもよいかもしれない。なんと私の目は、いつの間にか猫の目のようにくるくると変わり、鏡の中に往年の自分を映し出して見つめている、そういうことじゃないかと思い当たったのである。
冗談じゃない。これが自分の顔だけの問題なら失笑もので済むだろうが、他の事柄についてコレをやっていたら、と思うと緊張せざるをえないのである。例えば働き盛りの年齢になっている子供達を、少年時代に修正して見ているということ。あるいは、以前できていたことは今も出来るという肥大化した自信。今年は、このズレを修正して現実の自分自身と付き合おう。
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