文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

批評の達人

秋台風最中の世迷いごとですが。
ノーベル文学賞受賞作家の川端康成さんは『雪国』をはじめ数多の作品があり、小説家として認められているのだと思っています。重ねて、世迷い事ですと前置きをしますが、彼の小説はフツーだと、私は思う。
『雪国』を、日本小説の中で20世紀第一の名作と評価する人がいること、彼が『雪国』を、どれほどの長期間にわたり彫琢し続けていらしたかも仄聞しています。
それでも川端康成さんは、評論の方が優れている、評論家と呼ばれないかもしれないけれど、際立った、ゾッとする眼力で刺し通す、そういう評論をなさった方だと思います。
小説作品に対する眼だけではない、眼に入ったもの全てを「見て」しまう。見えてしまって、どうしようもなかったのではないか。だって見えるんだ。多分、そうおっしゃるのではないかと想像します。
私は川端康成さんの「眼」と、それを言葉に置く姿勢を、この上なく良いものと感じて尊重しています。彼の眼は自分自身の肉体、目玉以外の我を忘れきったところで、モノと対峙している。無の境地と表現するかもしれません、宗教家でしたら。私が感じているのは、全く私心がない、純粋な眼だということです。
ですから骨董も見ることができていたのでしょう。
人物評となると、けっして力んで書いているのではない、しかし私は震え上がるのです。とてもここまで見ようとしても見えるものではないが、本当だ、この通りだ、と感じ入ります。
川端康成さんは、あるとき自分自身を見たのでしょう、と思います。
 世迷い事の付録。
彼の奥さんについては、名前も知らないのですが、ひとつだけ、これは本当の事だろうと思いつつ読んだ資料があります。
それは、奥さんも「見える人」であった事です。「でもわたし、見えてしまうのですもの」と、おっしゃっているような感じを持ちました。見える同士の結婚、だったのだと感じます。
ただ奥さんの方は、異世界が見える人であったので、三島由紀夫に続いて夫が自殺したとき、無責任な誰彼が、三島さんが(あの世へ)誘ったのではないか、と噂をしたときには、きっぱりと、それは違います、と答えられたそうです。そして、あの人を連れて行ったのは……、と続けられたそうですが、これ以上は当ブログの範囲外ですから、ここで止めておきます。


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