文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

夜の手紙

私が学んだ学校、それは中学と高校のことだが、それは私立女学校だった。この女学校の教育方針は徹底しており、それは「良妻賢母」を育てあげることだった。
この学校は、私の母と叔母が卒業した学校だった。地元の公立小学校から中学へ進学するにあたって、学校の選択権は私にはなかった。父は子供の教育、とりわけ女の子の教育は母に任せており、母は選ぶという道を持たず、自分の母校へ入れると決めていた。
入学した時は日本が戦争に負けて間もない1947年だったと思う。ガラスが手に入らず、校舎の廊下と教室の境にあるガラス戸には紙が貼られていた。校庭に面した側の窓ガラスは、あちこちにヒビが入っていて、色とりどりの小さな花形の色紙を貼っていたから賑やかだった。
校長先生は週に一回、一学年全員を集めて自ら講義をした。修身という言葉が使えなくなっていたので校長先生の時間、と呼んでいた。校長の説諭で記憶していることは幾つもある。その一つ、入浴の際、女子は湯船から静かに立ち上がり洗い場に出るように。男子がやるようにザバッと立ち上がってはいけない、見良いものではないから。生理の日は買い物に出るべきではない。万引きをするのは、この時期が多い。6年目に校長が話したことも覚えている。「私は死にません、もっと生きます」。80を超えていただろう校長の説諭は、自分自身のことに集約されたものとなっていた。
教室でのことも覚えている。ほとんど全員が女性の先生だった。国語の先生の、ふとした雑談、教室中がくつろぐ時間。
学校から帰って夕食後に手紙を書くことがあるでしょう、そのときは決して封をしてはいけません。朝、読み直してから封をしましょう。夜に書いた手紙は、朝になってみると書き直したくなる場合がありますから。
今、私は入ってきたメールに、即返信することが普通だ。打てば響くように返す、しかし。これは、と思う事柄に関して書く場合は、必ず一泊させる。
だから、「あの時は言いすぎたの」というセリフを使ったことがない。何か言われた途端に頭にきて、後で後悔するような手紙を送ってしまうという、浅はかなことをしたことがない。特に、紙の通信が極度に減り、キーボードによる高速通信が、私の年代でさえも主流となっている今日、無神経に放り出したような文章、後から言い訳する文章が氾濫している。大昔の先生の雑談が、今の私に生きている。
学校の授業というものは、しみじみ思うのだが、教科書を教えるのではない、教科書を使って教えるのだ、というこの貴重な言葉を反芻するのである。
ちなみにこの金言は、元国語教師で、その後、東京神保町の主と言われた柴田 信氏の言葉であります。
校長の説諭は中学1年から高校3年まで毎週接したおかげで耳にタコができた。これは非常に遅効性のある内容だった、今頃になって校長の言葉が腑に落ちる。老いてゆくにつれて周辺の現象に興味、関心を示す余裕が失せて、自身の肉体に関心が集まってゆくありさまが見えた。校長は、裸の人間の姿を手渡してくれたのだ。無駄な出会いはない、というか用いなければもったいない。どう用いるかは、受ける側の受信能力と容量にかかっている。

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