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壺猫

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依存ということ

依存ということについても考えることがあります。たとえば、車を運転している。後ろから煽ってくる車がいる。少し早く走ると、もっと走れと迫る。この場合、追ってくる車の方が依存している。見かけは、おっかなそうで、強そうで、追われる側は弱い立場と見えるけれど反対です。ハラスメントという言葉がさかんに使われて、なんとかハラスメント、なになにハラ、と言う具合に濫用されているけれど、これも車の動きと似ていて、強そうで、正しく見えて、立派な感じの責める側が、実は相手に依存しているんだと思う。つまり、相手の変化が、自分にとって必要なのであり、自分が変化することはしないし、できない。車でも、ほんとうに早く走りたいのであれば、前車に要求してその尻について走るよりも、追い抜いて行けば済むことです。いかなる理由付けをしようとも、道徳や倫理をふりかざそうとも、相手に変化を求める一方、自分はじっとして動かない場合、依存症を疑わなければなりません。とくに、正義、道徳を振りかざされると、それを主張している人間を見なくなり、正義、道徳の内容に意識が集中してしまう。すると、まことにもっともだ、と考えるほかはなく、否定するどころか従おうと努力する。しかし、これは蟻地獄のようなもので、脱出はむずかしい、破滅への道です。いじめの現象も、そのなかのあるケースについては、こうした依存する側がいじめているのだと思います。依存する性質は、いわば蔓草のようなもので、他者に絡んでいないと生きていられない、他者を必要とする種類ですから、早い内に見分けて遠ざかることが肝要です。
しかし。国民は、その国から容易なことには脱出できません。結論として置きたいことは、政治家という人種は、依存症だ、ということです。
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