文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

我慢するということ

先ごろ、どこぞの城にエレベーターをつけたのは、余計だとか、つけるべきだとかいう雑談を耳にした。論議ほどのことではないらしいが、障害者団体などが、弱者に優しくしようという趣旨からエレベーターの設置を主張しているらしい。
先日鎌倉の鶴岡八幡宮に行ってきた。あの大銀杏はなくなっていたけれど、七夕前であったので飾りも華やかで、観光の人の多さには驚いた。
参拝する前に、近くにある鏑木清方記念美術館に行ったために疲れてしまい、本宮(上宮)を見上げて、これはお参りできないと悟った。階段を登りきるだけの体力はないとわかった。
大石段を見上げて、ここまで来たことを喜び、下にある若宮(下宮)でお参りして帰ってきた。
お城を昔通りに復元することを目的として工事をした、にもかかわらずエレベーターをつけようという発想は、どうにもいただけない。昔はなかったのだから、つけたら昔通りではなくなってしまう。つけるべきではない。
鶴岡八幡宮にしても、あれだけ大勢の参拝客がいても、大石段の横にエスカレーターをつけていないではないか。拝みたいが大石段を上がれない人は、下の若宮で拝むようにできている。
障害者であろうと、体力不足であろうと、できないことを我慢すべき場合があることを知らねばならぬ。鉄道の駅に設置するエレベーターは、公共の施設としてありがたいことだ。しかし公共施設が整えられたから、あれもこれも全部と希望するのは、了見が違っている。
東京町田市にある、白洲次郎・正子夫妻の住んでいた武相荘が公開されているが、ここは車椅子は入れない。障害者割引はない。小学生以下は入れない。
段差があり、やたらと高い敷居があちこちにある、こういう家で高齢の正子さんが暮らしていたのだと、入ってみると体で分かる。このような家の中を動き回ることは、苦労だったかもしれないが、体力の保持につながっていただろうと想像できる佇まいだ。
人間いろいろ欲望はあるだろうが、金がなければないなりに、体力がなければないなりに、我慢と工夫で生きてゆくのが自然なのだ。不足分を抱えていると我慢力も工夫力も発達する。自分には、その力がないと身にしみたところで我慢する力だけは手放してはいけないと思っている。甘えたから、欲しがったからといって、何でもかんでも欲望を満たしてあげることは、どんな場合でも良いこと、だろうか?
このことを強健な若者が主張しているのであれば、高齢者の暮らしの苦労も知らないで、と笑うこともできるだろう。しかし80歳を過ぎた体で喋っているのだから、自分自身を含めての覚悟である。
知人の一人が熱意のあるボランティアと自覚している人物で、ある時、身障者をハングライダーに乗せてあげることを成し遂げた。成功して喜んでいたが、このような行為は支援ではなく、ねじ曲がった、歪んだ精神の自己満足でしかない。
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