文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

認知症について

長い間、ひとり胸の底で感じながら考えていることである。こんな名前がつけられる遙か以前、私が五、六歳のころから母と祖母の会話を聞きながら感じつつあったことである。祖母が親戚の誰かの所へ見舞いに行き、寝ている婆にミカンをあげた。婆は泣き、嫁がなにも食べさせてくれぬと、ミカンを食べ尽くし、さらに泣き続けた、と帰宅して母に話すのだ。泣き中気でしょうか、という結論になる。そういうもんだよ、怒り中気もあるし、と話し合う。私の曾祖母が米寿を過ぎたころ、母が見舞いに行ったら、母の名前を母の母の名と取り違えて喜んだ、お前、生きていたんだねと、しがみつかれたと、これも帰宅して姑に話す。そういうもんだよ、と穏やかな頷き合いが生まれていた。
いま、認知症という名の箱の中に押し込められてゆく人々は、ほんのちょっと前までは、そういうもんだよ、と穏やかに受け入れられていたのだ。特別の箱の中に入れられることはなかった。脳みそのどこの部分が真っ赤になっていると、そこが活発に働いているのだ、と画像を見せられると、そういうもんなんだ? と教えられ、知識として記憶する。しかし、これは納得とは違う。
私自身について考えてみると、物忘れが頻繁に起こっていることを自覚している。昨日の雪のあと、凍った道路がこわくて、今朝のゴミ捨てを止めた。おりしもソチでオリンピックの真っ最中だが、あんなモーグルなどやったら、一つ目のコブで転倒、骨がバラバラだ。体力、脳力、現時点での判断が必要なのだ。現時点での判断を的確に行うのが犬であり、猫である。彼らと共に暮らすと、学ぶ事が多い。千早もメロディも見事だった。
私は、周囲の人たちの対応によって、肉体の一部である脳の老化は、だいぶ違ってくるのではないか、と感じている。自分自身でおのれの尻を叩き鼓舞するのも効き目があるが、周囲の力がバカにならないと思う。親切の余りに先回りして、荷物を持つ、柔らかいモノを食べさせる、雑用はしてあげる、さらに判断し、決定する役割を取り上げてしまう。見計らいのモノを提供する。温泉に連れて行けば大喜びで、それ以上のなにかを思いつこうとせず、満足する年下の親切者たち。シニアホームのケアが、これである。至れり尽くせりにすることが最上であると信じている。これは、認知症へと誘っているようなものだと、私は感じている。
至れり尽くせり型のほかに、きわめて辛い境遇にあり、それが精神的なもので傍目に見えない場合でも、耐えられないばあいに、人は眠りたくなり、休みたくなり、これに孤独が加わると認知症へと誘われてゆく。この世の苦しみから逃れるために。医者は、こんなばかげたことを言わないが、私は、こんなことってありますよ、と言いたい。この年寄りは、もう我が家には不要なんだ、そんな思いが家族のなかに生まれ、ときに理性で打ち消しても、存在するような場合、対象となる本人の感覚は、想像を超えた鋭敏さで捉えている。そして、そんなことを言われたって死ねないんですもの、と悲痛な叫びをあげるのだ、心の中だけで。そうして生きながら眠りについて行く。
ほんのちょっと、人を取り違えたり、ありもしないモノが見えたり、聞こえたりしたとしても、打ち身が治るように、腹下しが治るように、回復するのではないかしら。私は、あなたを必要としています、こんな声が届いたら、振り向いて戻ってきてくれる人たちが、箱の中にいるような気がする。もっとも打撃を受けるのは、判断し、決定することを取り上げられることではないか、とも思うのだ。
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