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壺猫

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盗作について

先人の業績を学び、それを土台として育ってゆく。人間社会が発達してきたのは、長い時間をかけてバトンタッチが行われてきたからこそで、そのお陰で高層ビルも建ち、人工衛星も造られました。科学技術の世界は際限なく発達するけれど、私は、文学、絵画、音楽などの創作の世界は、賽の河原に似ているように感じられて仕方がありません。
技術屋さんの使う知識も技術も最先端のものを駆使して、際限なく伸びてゆく、これはもう、目を見張るばかりです。一方、文学の話になりますが、古典は常に現在に引き寄せられており、楚辞を知らず、万葉集は国語の時間用、シェークスピアは映画の原作にあったっけ、では、どうしようもないではありませんか。文学に流行はあるにせよ、常に不易といいますか、時を超越した真理が礎に据えられています。
暴論といわれるかもしれないけれど、私が考えるに、右脳、すなわち知覚・感性を司る側の働きを主に使っている人と、左脳、すなわち論理と思考を縦横に駆使することが先に立つ人がいて、それぞれが得意な方面で仕事をし、生活しているのではないかと思います。
『アダムの創造』という、システィーナ礼拝堂の天井に描かれている有名な絵があります。アダムが命を受ける瞬間の絵。アダムが左手の人差し指を神に差し出しています。アダムの右脳を通して流れ入る命です。ミケランジェロは理屈でなしに分かっていたのではないでしょうか、今時代にコンピュータを使って解明しつつある事柄が。
ある対象にハッと胸をつかれ、のけぞる思いをし、感動したところから創作が始まる。いまは21世紀だけれども、これが30、40世紀、もっと経って、作品が山のように累積したとしても、それは工場生産品ではありません。唯一の、かけがえのきかない光る心だろうと思うのです。
盗作について思うことは、パロディや、出典を明らかにして上乗せする形の作品は、盗作ではない、むしろ凄い力がある作家だと思います。そうでなくて、自分の作品として世に送り出す人は、目立ちませんが実は多い。これをする人は、ふと言い訳をするし、思わず自画自賛を繰り返すような気がしています。自分自身の心だけは事実を知っています。
さて話は、ここからなのです。魚を見てみましょう。水面に浮かぶ餌を食べて生きている種類、水底の餌を食べる種類、視線のみならず、口の形まで適応しています。受け口で水面の餌を食べるメダカ。ヒゲで水底を探索して餌を口に入れるナマズは、鼻の下が長いというのか、口は下向きに開きます。
創作者も、自分に備わっているタチで餌を食べるのではないでしょうか。わが身に降りかかったこと、出会ったこと、行ったことなど、それらが心底の琴線に触れたとき、自分の機織り機械にかけます。ときに『夕鶴』の「おつう」のように、我が身の羽を織り機に掛けもします。巧かろうが下手だろうが、思いの丈を表現しようとしてすったもんだします。無名とか貧乏とかは別世界の出来事です。思いの丈が叶えば成仏です。
もう一種類の人種は、はじめっから、根っから、欲望の原点が違っているのではないでしょうか。注意深く興味深く、見つめる目の先には、他人の作品があるのでは? 山や河、道ばたの草には目がゆきません。私は、彼らの目を、物欲しげな目つきだ、と感じます。羨まし気でもあります。私は絵画については知りませんが、文学世界では、そうそうたる名の作家のなかにも、いくらでもいますものね!
つまり、どの世界にも、メダカとナマズがいるということで、メダカは、頼まれたってナマズになれないし、ナマズだって、メダカになれはしない。同じ水槽内で暮らしていたとしても、根本的に、完全に異種です。
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