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壺猫

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私なら謝らない

前回の話題で「業病」と表現したことについて非難が多々あったという。この表現が適切でなかったとして、石原慎太郎さんは謝罪したというが、私だったら謝罪しません。
彼が、どのような意味合いで業病と表現したのか、私の感覚と異なっているのかもしれないから、それは置いておき、私だったら業病と書いただろうという、その意味合いを書きます。
業病とは難病と同じ意味合いの、非常に治りにくい病気という意味と合わせて、この病は前世の報いだ、前世に悪いことをした報いだという意味が含まれます。
難病の方は現在、難病法という法律があり、厚生労働省によって指定難病が決められており、医療費の助成もあり、人々の理解もあります。業病となると、これはもう古語の部類でしょう、今は使いません。今回のように使用現場を取り押さえると、非難轟々、ありとあらゆる罵詈雑言が浴びせかけられる。最近の人たちは、直接会って相手と向き合って異論を唱えるのではない、文字だけを飛ばしてぶつけるのです。「やさしさ」とか「思いやり」とかいう名前の付いた棍棒を振りかざして、相手を自殺に追い込むところまで、やってのける残酷さを無自覚に発揮しています。
つい数十年前までは、業病という言葉は、何の抵抗感もなく使われていました。ハンセン氏病も、この呼称は一部の人にしか伝わらず、一般にはライ病と呼んでいました。
1959年製作のアメリカ映画『ベン・ハー』の中で、ジュダ・ベン・ハーの母と妹が囚われて、街から追われて谷底に住むハンセン氏病人の谷に落とされるくだりが描かれています。日本版の字幕では「ライ病」と書いていましたが、のちのテレビの放映では「業病」と書き改められていたのを、よく覚えています。これは、ハンセン氏病に関する知識と理解が深まってきたために書き換えたものでしょうが、書き換えた当時は「難病」という表現がまだ広まってはいませんでした。次回には「難病」と書き換えるかもしれませんね。著作物でも、再版時に断り書きをする例が多々あります。
現在は使用禁止、何か絶対命令以上の感覚を持って、封じられている禁句となっています。特定の人物に対して用いるのではない場合でも、です。禁句は、病気だけではない、部落・集落の使い方にも見られる問題で、禁句を作り出して、自縛、他縛を厳しく行っている昨今と感じます。
今回の「業病」への非難も、この感覚から人々の怒りを買ったものと思われます。
さて、私の意見ですが、どのような病であれ、罹患した本人が業病と表現したい場合を許してあげたい。どうして、この自分が選ばれて、この病に侵されたのか。何故、この自分が? と苦しむ病人の苦しみは、難病という言葉では表現しきれない深い悲しみと苦悩が充満していると想像できませんか? 病気の種類は千差万別、どのような病であっても、いっそのこと死んでしまいたい、と追い詰められる絶望感の言葉として業病は生きています。指定難病でなくても本人にとって業病であることは多々あるでしょう。業病とは、いっその事死んでしまいたいと打ちのめされている本人にとって必要な言葉なのです。この言葉は、病む本人に成り代わって感じるところのもので、ベッドサイドに立つ人が、病人を見おろして発する言葉ではありません。
昔、日本の国民病と呼ばれた結核。国民病であり、家族病でもありました。一家の主人が罹患する、看病する妻が倒れる、嫁がかかる、その子がまた、というふうに感染していきました。何一つ薬はありませんでした。治療法は、良い空気を吸って安静にしていること、それだけでした。こうした時に、業病だもの、と吐息をつく人々が日本中にいっぱいいたことを知っていますか? 何か不摂生をしたわけではない、悪い生活態度をしたことはない、それなのに今、死にかけている。こうした時に病人が吐息とともに漏らす業病という表現は、難病には置き換えることのできない宗教的とも言える意味合いが含まれているのです。自分が悪いのではない、という救いの意味も込められている言葉です。
歴史を持つ言葉を殺し葬ってゆく今時代の感覚、浅はかな言語感覚を軽蔑しています。
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