座禅
08-06-19 10:59 更新
最近、座禅を復活している。まだ10日足らずであるから、始めたばかり。
今回の座禅再開は自宅での単独座禅。
以前は禅寺に通っていた。日曜日の早朝に座禅の会が開かれるお寺で初歩から指導していただき続けていたが、何かの怪我がきっかけでやめていた。
非常にしばしば怪我をするので、どの怪我が原因で辞めたのか思い出せない。
今回は単独修行。まずは、高野山のお坊さまたちがお作りになられたというお線香を500本買い求めたのである。
これで毎日一回、怠けずに座禅修行をするとして、約1年4ヶ月分の線香を手元に蓄えたことになるから前途洋々である。
1本のお線香が燃え尽きるまで約40分かかることがわかった。500本で2万分。これから2万分を無念無想で過ごそうというわけです。
座禅はじっと動かずにいるけれど大きな運動で、ある意味体操に匹敵すると思っている。
歩禅も運動になるが、正しく背骨を立てることが、私にとっては座禅から受ける大きな恵みなのでとても大切に思っている。
難関が無念無想。人間、眠っていたって無心ではない、夢を見てしまうこと屢々。
夢とは、日中の生活時に処理しきれなかった残滓を処理する脳内の作業過程が映像として見えるのだ、という説があり、これは説得力がある説だと思う。
座禅では目を閉じてはいけません、半眼を保ち、意識は清明にする。その上で無念、無想を行うのであるから、夢のように脳みそに任せるわけにはいかない。
いい加減にやることは簡単で、誰にも見えないのだから、何を考えていても済んでしまう、でもせっかくの修行だからと、
本気の無念、無想に立ち向かうと、これはもう、重労働としか言えない苦行と感じます。
ここまでが前置きです。
さて、夜明け前の庭に端座して座禅。なんとも素直に、なだらかに無念の境地、無想の世界が開けてくる「いっとき」に恵まれた。
清掃を行ったかのような、自分自身の心の部屋の中を感じ、期待もしなかった世界に驚いている次第。
喜ぶ以前の驚きで、無念とか無想とか言うから話がややこしくなるのであり、心の掃除、と言い換えるとわかりやすいし、手がとどく存在になるような気がした。
毎朝、30分ちょっとの時間、心のお掃除をする。
自分風に言い換えてみたら、2万分、行けそうな気になりました。
今回の座禅再開は自宅での単独座禅。
以前は禅寺に通っていた。日曜日の早朝に座禅の会が開かれるお寺で初歩から指導していただき続けていたが、何かの怪我がきっかけでやめていた。
非常にしばしば怪我をするので、どの怪我が原因で辞めたのか思い出せない。
今回は単独修行。まずは、高野山のお坊さまたちがお作りになられたというお線香を500本買い求めたのである。
これで毎日一回、怠けずに座禅修行をするとして、約1年4ヶ月分の線香を手元に蓄えたことになるから前途洋々である。
1本のお線香が燃え尽きるまで約40分かかることがわかった。500本で2万分。これから2万分を無念無想で過ごそうというわけです。
座禅はじっと動かずにいるけれど大きな運動で、ある意味体操に匹敵すると思っている。
歩禅も運動になるが、正しく背骨を立てることが、私にとっては座禅から受ける大きな恵みなのでとても大切に思っている。
難関が無念無想。人間、眠っていたって無心ではない、夢を見てしまうこと屢々。
夢とは、日中の生活時に処理しきれなかった残滓を処理する脳内の作業過程が映像として見えるのだ、という説があり、これは説得力がある説だと思う。
座禅では目を閉じてはいけません、半眼を保ち、意識は清明にする。その上で無念、無想を行うのであるから、夢のように脳みそに任せるわけにはいかない。
いい加減にやることは簡単で、誰にも見えないのだから、何を考えていても済んでしまう、でもせっかくの修行だからと、
本気の無念、無想に立ち向かうと、これはもう、重労働としか言えない苦行と感じます。
ここまでが前置きです。
さて、夜明け前の庭に端座して座禅。なんとも素直に、なだらかに無念の境地、無想の世界が開けてくる「いっとき」に恵まれた。
清掃を行ったかのような、自分自身の心の部屋の中を感じ、期待もしなかった世界に驚いている次第。
喜ぶ以前の驚きで、無念とか無想とか言うから話がややこしくなるのであり、心の掃除、と言い換えるとわかりやすいし、手がとどく存在になるような気がした。
毎朝、30分ちょっとの時間、心のお掃除をする。
自分風に言い換えてみたら、2万分、行けそうな気になりました。