文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

婆たち その1

それほど遠くない昔、つい何年か前といってもよいころのこと、下北沢に三婆と呼ばれる名物婆がいた。三婆というのは、三人いたからで、私はふたりまでは覚えているが三人目を忘れてしまった。思い出したら追加します。
一番目は森鴎外のお嬢さんで作家の森茉莉さん。下北沢の借家というかアパートに独居していた。二人目は女優の千石規子さん。この方もシモキタにご主人とお住まいで、よく小田急線に乗っていらした。私は千石さんのご主人、森栄光氏から指導を受けていたので、千石規子さんは作品だけで知っている。そうだった、黒沢の映画にも出ていらした。森先生が亡くなられてのち、しばらくして亡くなられた。
森茉莉さんは、亡くなるまでマリーだった、パパのマリ−。ほうれん草を買ってきて共同の炊事場で茹でる。束のまま上の方だけをむしり取って使う。部屋の床が抜けて、凄い立派な家具が地面に沈んでゆくが、そのまま埋まってゆき、ついに見つからなくなってしまった、と担当の編集者が書いていた。千石さんは、一目で変わりもんっ、という身なりで、ショッピングカートを引きずって小田急線に乗ってきた。そのカートが大きくて、しかもそんじょそこらに売っているような尋常な代物ではない、藤蔓でできている異様なものである。子どもが見たら、魔法使いのお婆さんだ、と断定するだろう。
驚くべきことは、この姿が電車内に存在してしまうことだ。周囲の乗客は、その存在力に圧倒されて受け入れてしまう。言い換えると、目立つように、変わっている風に見せようと企んだあなたが、思いっきり変わった服装で街に出たと仮定しよう、自信がぐらつく、ちょっと恥ずかしくもなる、そういった弱さを抱えて歩き出したとき、見た人は笑う。へんなの、という目つきに出会う。止めとけばよかったかな、と後悔する。これが普通の人だ。しかし、これらの婆たちは強者である。一朝一夕に身につけたものではない、底力があって、自然にわき出してきた生活態度であり、思想であり、持ち物である。これで全部、ではなくて、ふとはみだしたものが他人にも見えている、それだけのことだから、揺るぎがない。シモキタは不思議な空間だ、若者が蝟集する一方で、こうした婆、爺が居心地よく棲息している。
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