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壺猫

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台湾故宮博物館

秋口に、上野の国立博物館へ、台湾故宮の文物を見に行った。会期終了直前に大慌てで駆けつけたのだ。話題の展示品は翡翠のハクサイである。翡翠の原石が持つ白と緑の濃淡をハクサイの葉に移して彫った名品。ところが目玉のハクサイは消えていて、かわりにハクサイを撮ったビデオがエンドレスで流れていた。人だかりがしていたが、わたしは特にハクサイ目当てでもなかったので、見ている人たちを眺めるのも一興だった。中国の人たちを多く見かけ、なかでも若者の姿が目についた。細部を指摘しながら話し合う姿が印象に残った。文物の物の中で目を見張ったのは刺繍だった。いったい針の太さはどんなものだろう、糸の細さに驚嘆した。絵画かと見まごうばかりの精密さとともに、その描写は単なるパターン化した刺繍ではなく奥深いものがある。唖然、呆然と見守った。
お目当てのものがない私は、思いがけず書の部屋で、ほとんどの時間を過ごして帰ってきた。解説がなければ読めない私である。この人を知っている、ということはほとんどない。たまに見つけるだけである。知らない人の文字をたんねんに見つめる。これは名品、と解説にある書を、すばらしいと感じることもない。そういうのは無理をしないことにしている。誰かがよい、と言ったら、誰かがよいと言った、と思うだけである。こうしたいい加減人間なのに、書を見て時間を忘れた。
紙に筆で縦書き。墨で書いている。人の手が書いている。毛筆には太さ、長さがあるから、大小さまざまだが、共通していることは、書き手の気持ち、心が筆を通して紙に置かれていることだ。よい風景を眺めて、よいなあ、と穏やかに書く。人に物事を依頼する。故人を偲ぶ。政治を云々する。さまざまな内容の文章が、ときにゆったりと穏やかに、あるいは涙にくれて書かれる。なかには、落ち着いて書きはじめたものの、途中から感情が激してきて、カッカとしながら彫りつけるように力を込めて書いた書もある。練りに練った詩文を、腕によりをかけて書く人もいる。
目の前に展示されているのは、ガラス越しの書だけれど、この人に会ってみたい、と慕わしく感じる書あり、あらぁ、ひねくれてる、意地が悪そうな人ね、と受け取る書もあった。海を隔てた大陸中国の地で、これほどの思いを溢れさせて暮らした文人たち。私はこのような人々と、書があるお陰で近々と会えた、と感じて感激した。
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