文房 夢類
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壺猫

文房 夢類

歩くミイラ

千早がいたときは、自宅周辺をくまなく歩き回った。ふたり一緒だから、のびのび散歩ができたし、冒険もできた。千早がいなくなってから、ひとり歩きをしてみたが、虚しいったらない。徘徊とまちがえられる、ことはないにしても、この通りに用があるの? とうさんくさい目で眺められるのは面白くない。ここはなんだろう、と通り抜けできない道に入る私も悪いのだが。
湖畔は、単純一本道だし、散歩人間、ランニングの人、サイクリングの人、あるいは釣人、富士山撮影の人だから気楽である。なるべくこちらから、おはよう、と声をかけることにしている。外国の人の場合は、なおさらである。よくまあ、日本にいらっしゃいました、の気持ちで、おはよう、という。一般の観光客は、都心の通りと同じ感覚で、挨拶など思いつかないらしい。こういう人たちはすぐ分かるから、たがいに知らん顔をしている。土地の人や、住み着いている人たちが、よく挨拶をする。何度か、頭を下げるだけのすれ違いを繰り返してきた犬連れの人が、今朝はいい富士だね、といきなり言うときもある。楽しい。
ミイラ? そう、このなかに時折ミイラが混じっているのだ。歩くミイラである。ほとんど、というより私は女性らしきミイラしか出会ったことがないのだが、まず、目深に帽子をかぶっている。サングラス、巨大マスクをしている。夏だろうと長袖、手袋をしていることもある。足先まで完全に包まれている。これをミイラと言わずしてなんと言うのか。ミイラではないか。おはよう、と声をかけたくても相手の表情は、完全に覆われていてわからない。手振りそぶりもない。無関心派の都会人は、視線を送って来ないことがはっきりわかるので、問題ないのだ。まったく分からないと、対するこちらは、どういう態度に出てしまうか、というと、ミイラに対する視線となってしまうことを発見した。つまり、ためらうことなく眺めてしまう。生きている人間扱いをしなくても許される気がするのだ。
ネットに日常の困ったことなどを提示して、意見を言い合う場がある。そのなかに、近所の人たちとの人間関係が苦痛だ、という相談があった。これに対するアドバイスの一つに、大きなマスクをして、大型のサングラスをかけるといいよ、と言うのがあった。安部公房の小説『箱男』の時代から『ミイラ女』へ時代は変貌する。
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