文房 夢類
文房 夢類
myExtraContent1
myExtraContent5

壺猫

文房 夢類

寄り添う、という言葉

最近は、二言目には「寄り添う」というし、書きもする。
この表現は、体を相手に寄せて傍にいるという意味もあるけれど、最近多用される使い方は、相手の気持ちを理解し、共感する、というような精神的な意味合いで使われる。
二言目には寄り添うとやられるので、うんざりしている。コレで締めれば万事よろし。といった軽い空気がある。
寄り添う人は、常にいいもんの立場である。寄り添ったらもう、文句なしにいいもんである。
寄り添われた側の心情に、お構いなしに寄りついて、寄り添った側が喜んでいるだけ、という場合はないのだろうか?
もしかして、寄り添う側の人間の方が、誰かにひっつきたがっている、そういう場合もあるかもしれないと思うことがある。

最初に「相手の気持ちに寄り添ってみよう」と思いついて実行した人は、まことの開拓者だ。
これは良いと続く人たちも心根の良い人たちで、実行する力のある人は優れた人たちだ。実行することと思うだけの間の距離は、計り知れないほど開きがある。
心込めて実行している人たちのためにも、まるでコンビニで買ってきたかのような手軽さで、形だけのために使うのはして欲しくない。

高齢者の運転が危険だ、という問題を考えている。
超高齢者の親を持つ次世代家族が、親の免許返納を希望している場合、実態は寄り添うどころか、支配的言動である。
「やめさせるには」というのである。この表現を、個人が使い、メディアも多用し、当然だと感じているらしい。
生まれて間もない赤ちゃんに対するケア態度を超える一方的心情を持って相対する。危ないからやめなさいという単純明快さで迫る。
家庭内では、カメラもない、メディアもない、ブログに出すわけでもない、むき出しの心である。飾り言葉は使わない。

認知症の人にも、一瞬差し込む意識の光があると聞く。
重症の認知症の女性が、夜勤の係と交代して部屋を出て行く彼女の手首を掴んで、行かないで、と言ったと、彼女から聞いた。彼女は私の若い友人だ。
一瞬、開いた窓からのSOSの叫び。
運転歴何十年、ほとんど毎日クルマと付き合ってきた人がクルマと別れようとするとき、行く手には「この先行き止まり」の標識だけが見えている。
道を断たれた人の気持ちに寄り添ってくれる人が欲しい。「行き止まり」を、英語では dead end という。身にしみる言い方。
まだ死んでいるわけじゃない、運転ではない何かに希望の光を探しましょうと、まだらボケ高齢者の、まだら心に寄り添ってみよう。
クルマを取り上げてしまい、出て行くドアもない。これは無慈悲な暴力行為だと思う。

一方、まだらボケの側も、働き盛りの次世代の人たちの心に寄り添ってみよう。
若いもんたちは、とにかく今日にも事故を起こしたらただでは済まないと、切迫した気持ちでいっぱいなのではないだろうか。
思いやる力は、ゆとりがない場所では発揮する余裕も出ない。
明日と言わず、今日の午後にも事故るかもしれない親を思うと、ゆとりなぞ出るはずがない。大切な親だからこそ厳しい言い方にもなるのだ。

たとえば、クルマを止めて移動が不自由なら、病院へ通うためにタクシー代を出したらどうか、巡回小売があれば良い、などの提案もある。
ところが、まだらボケの超高齢者たちは、何の用事もない時に、自由気ままに動きたいのだ。こんな気持ちは理解されないどころか、封印されてしまう。
これはクルマを使わず、足で歩き回る徘徊と呼ばれる人たちの中にもいるのではないか。徘徊したいという気持ちが、私には身にしみるほどにわかる。
なんだ、これだったらクルマ続けるよりいいなあ、と喜んで出て行く世界が見えたら、ずいぶん多くのドライバーが明るい笑顔で次のステップに進むだろう。
ここはひとつ、お互い寄り添い合うことで、新しい道を探したらどうか。
明日から平成の時代が、次世代、新世代、令和に改元だ。
日本のこの伝統味豊かな風習にあやかり、価値観の転換を考えていきたいと思う。新しい道への鍵のひとつが価値観の転換だと思う。
myExtraContent7
myExtraContent8